表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/25

第3話 血の月と、囁く森

森の夜は、息をするたびに匂いが変わる。

湿った土、腐葉土、血、そして――風。

そのどれもが、私を生かすものでもあり、殺すものでもあった。


フォレストウルフを仕留めてから一晩。

私は、死体を解体し、肉を少しだけ炙って食べた。

味は最悪だった。

臭くて、硬くて、舌が拒絶する。

でも、不思議なことに、体はその血を“求めて”いた。


(……俺の中の“人間”が、少しずつ腐っていくみたいだ)


そう思うと、胸の奥がチリチリと痛んだ。

それでも、食わなければ生きられない。

“美しくなりたい”なんて夢を追うには、まず生き残らなきゃ始まらない。


夜風が木々を揺らす。

その音の中に――声が混じった。


「……だれ?」


最初は幻聴かと思った。

だが、次の瞬間、確かに聞こえた。

透き通るような女の声。


『――こっちだよ。』


全身の毛が逆立つ。

声の方向を見るが、誰もいない。

それでも確かに、“そこ”に何かがいる気配。


私は慎重に一歩踏み出した。

足音を殺し、木々の間を抜ける。

すると、そこに――光があった。


淡い青の光。

宙にふわふわと浮かぶ小さな粒子。

それが集まり、一つの“形”を作っていた。


女の子だった。

白い髪。透明な羽。光そのものが人の形を取っている。

目が合った瞬間、世界が一瞬止まった気がした。


「……妖精、か?」


『あなた、珍しいね。ゴブリンなのに、意識がきれい。』


「意識が……きれい?」


『汚れてない。普通、ゴブリンのメスはすぐに壊れるのに。

 あなた、まだ“誰か”でいようとしてる。』


私は言葉を失った。

その瞳に見透かされるようで、心臓が嫌な音を立てた。


「……お前、何者だ」


『私は“フィーネ”。この森を見ているだけの影。』


影――? そう言いながら、彼女は微笑んだ。

その笑みが、あまりに柔らかくて、思わず息を呑む。

胸の奥がざわつく。

初めて、誰かに“見られた”気がした。

この醜い姿を、拒絶せずに。


「……お前、本当に妖精なのか?」


『さあ、あなたがどう見るかによるわ。

 でも――あなたの中の“進化の光”、もう始まってる。』


「進化の……光?」


フィーネは私の胸に手をかざした。

すると、そこから淡い輝きが漏れ出す。

緑だった肌が、少しだけ透き通って見えた。


『妖精種の力は、心が形を作る。

 “美しい”と信じるものに、身体が近づく。

 あなたが憧れる“美”は、どんな姿?』


問われて、私は言葉を詰まらせた。

人間の頃、テレビの中で見たアイドル。

街ですれ違った整った横顔。

光を反射するような笑顔――

そんな“人間の美”を思い出す。


けれど、今の私は。

血と泥にまみれた緑の体で、牙を持つ怪物だ。


「……俺が、美しいって思うものは、もう遠い」


『なら、追いかけなさい。

 “遠い”ほど、美は強く輝くの。』


その言葉が、静かに心に沈んだ。

まるで教師として、生徒に“夢を信じろ”と語っていた自分を、

逆に諭されているみたいだった。


「……お前、俺を導こうとしてるのか?」


『導く? 違うわ。私は“見てる”だけ。

 でも、あなたが選ぶ道が、美しくあることを願う。』


そう言って、フィーネの輪郭が崩れ始めた。

光の粒が風に溶ける。


「待て! お前、どこへ――!」


『七日後、また逢いましょう。

 そのとき、あなたがまだ“私”でいられるなら。』


そして、光は完全に消えた。


静寂。

風が止み、森が息を潜めた。

私はその場に立ち尽くしていた。


“美しくある”とは何だ。

この世界で、それはどういう意味を持つのか。

フィーネの声が、耳の奥で残響のように響く。


『あなた、まだ“誰か”でいようとしてる。』


(“誰か”って、誰だ? 俺はもう、人間じゃないのに)


ふと見ると、水面に映る自分の瞳が、かすかに変わっていた。

黄色が、淡い金に染まり始めている。

月の光を受けて、まるで小さな炎のように揺れていた。


――私は確かに変わり始めていた。

“美しさ”という名の、救いにも呪いにもなりうる進化へと。


『進化値+15%。残り5日。』


月が赤く滲んでいた。

“血の月”と呼ばれる夜。

それは、この森で最も危険な夜の始まりでもあった。


私は唇を噛み、息を整える。

恐怖よりも、少しだけ――期待の方が勝っていた。


「……来いよ、この世界。俺は、まだ折れない」


月明かりの下、ゴブリンの少女は静かに笑った。

その瞳に、人間だった頃よりもずっと確かな光が宿っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ