第23話 欲望の商人
森を抜けたのは、三日目の夜だった。
雨上がりの風が冷たく、翅に張りつく泥が重い。
肩の傷は癒えかけていたが、代わりに指先の感覚が鈍くなっていた。
(代償……もう、体が限界を訴えてる。)
血肉転化を繰り返した結果、
神経が焼け、筋肉が微かに震える。
けれど、それでも止まることはできない。
――北の砦へ行く。あの娘を、奪う。
私はその一心だけで歩いていた。
途中、街道沿いの露店群に出くわした。
夜明け前、薄い霧の中で仄かに灯りが揺れている。
そこは“亜人商人の市”――
人間の領では扱えぬ品が売買される、闇の市場だった。
私はフードを被り、気配を抑えて中へ入った。
金属の匂い、香草の煙、
どこか湿った声が飛び交う。
「獣人の牙だ、まだ血が乾いてねぇぞ!」
「エルフの涙。純度九割だ、王都でも高く売れる!」
そんな中で――
妙に澄んだ声が、私の耳を撫でた。
「へえ……珍しいお客様だ。」
振り向くと、黒衣を纏った商人が立っていた。
細身の体、仮面に覆われた顔。
背後の棚には、瓶詰めの“光”が並んでいる。
「その翅、妖精種の……いや、違うな。顔が妖精種にしては微妙だ。」
私は睨み返す。
「商人のくせに、客を侮辱するのか?」
「いや、褒めているのさ。
“黒い妖精”――そう呼ばれてるんだろう?
今や王国で最も高値のつく“存在”だ。」
「……美への欲望はどの種族も同じってこと」
男は仮面を軽く傾けた。
瓶のひとつを指先で弾く。
中に閉じ込められた光が揺れ、
まるで誰かの魂のように淡く震えた。
「貴女の“美”は、今、取引されている。
討伐隊だけじゃない。
貴族の連中も、魔導師も、美神教の聖女までもが、
黒い妖精の血を求めているんだ。
“それを飲めば、美が手に入る”と信じてね。」
喉の奥が冷たくなった。
怒りでも恐怖でもなく、
理解してしまったからだ。
(……あの美神教の連中と、同じ。
信仰も欲も、結局は“奪うため”の口実。)
「……あなたも、その一人?」
「違うさ。」
商人は笑った。
「私は奪わない。取引するだけ。
たとえば――貴女の“美”を少しだけ譲ってもらえれば、
その代わりに、“力”を売ろう。」
「力?」
「北の砦を落としたいんだろう?」
私は息を呑む。
その言葉に反応してしまったことを、
彼に読まれたと悟る。
「商売というのはね、
求められる前に、欲望の形を読むんだ。」
男は棚からひとつの小瓶を取り出した。
中には黒い液体が渦を巻いている。
「“魔力エーテル”。
人の生命力から抽出されたものだ。
飲めば、短時間だけ“強力な魔法使い”になれる。
代わりに、命を一夜分削る。」
「……命を、削る……」
「貴女にとって、命より大事なのは“美”だろう?そしてそれを奪うための力が必要だろう?」
その言葉に、
胸の奥がかすかに震えた。
(そう――命なんて、もう十分に安い。
でも、“美”は、まだ足りない。)
「条件は?」
「貴女の翅の欠片を、一本。
それだけでいい。」
私は沈黙した。
翅は、妖精種としての“核”だ。
欠ければ、飛ぶこともままならなくなる。
けれど、迷いは短かった。
「取引成立よ。」
男は笑い、
黒い瓶を私の手に渡した。
「また会おう、黒い妖精。
いつか貴女が“完全な美”を手に入れたとき、
私はそれを買いに行く。」
夜。
私は丘の上で、黒い液体を見つめていた。
月光が反射し、瓶の中の渦が妖しく輝く。
(美を“売る”……か。)
手を伸ばしかけて、止まる。
喉の奥で息が詰まる。
今の私は――美を求めるあまり、
人間たちの欲望と変わらなくなっている。
それでも。
「……あの女から奪うためなら。」