第20話 黒い噂
「黒い妖精が出たそうだ。」
そう言って、男は笑っていた。
王国南部の小さな酒場。
汗と酒と血の匂いが混ざるその空間で、
噂はまるで火のように広がっていった。
「美神教の聖地を壊したらしい。」
「神に逆らう妖精……か。」
「その姿を見た者は、命を落とす代わりに、美しくなるってよ。」
馬鹿げた話だ。
だが、人は“恐怖”よりも“美”に惹かれる。
黒い妖精の噂は、
瞬く間に王国の貴族街にも届いた。
貴族の屋敷――。
「“黒い妖精”の血を手に入れた者は、永遠の美を得る」
――そんな噂を真に受けた女たちは、
妖精の生け捕りを求めた。
若い令嬢が囁く。
「ねえ、知ってる? 南の森に、妖精を見た人がいるんですって。」
「捕まえて、血を瓶に詰めて売る商人がいるらしいわ。」
その笑みの奥にあるのは恐怖ではない。
“美への飢え”だ。
黒い妖精は、もう単なる怪物ではなかった。
――信仰と欲望の交差点に立つ“象徴”となっていた。
噂の中心である黒い妖精は南部の森を歩いていた。
翅の色は夜闇よりも黒く、
血のように赤い光を帯びている。
小さな湖のほとりで、
私は水面に映る自分の姿を見つめた。
見知らぬ顔。
白く滑らかな頬。
紅い唇。
けれどその奥にある瞳は、
どこか空虚で、温度がなかった。
「……これが、私?」
指先で水面を撫でると、
波紋が広がって、顔が崩れていく。
「綺麗、だけど……冷たい。」
血肉転化を重ねるたび、
身体は確かに“美”へと近づいていた。
しかし、心の輪郭は薄れていく。
何が嬉しいのか、何が悲しいのか――もう、よくわからない。
その代わりに、
“奪いたい”という衝動だけがはっきりしていた。
「北の砦……」
あの娘――領主の娘の美。
あれを奪えば、私は本物に近づける。
血肉転化でも模倣できない、“生まれ持った美”の力を。
私は立ち上がった。
夜。
丘の上から王国の明かりを見下ろす。
どこまでも広がる灯の群れが、
まるで鏡のように瞬いていた。
(あの光のひとつひとつが、美を求めてる……)
それは信仰か、欲望か。
けれど確かに、
この国全体が“美”という名の狂気に飲まれ始めていた。
そして――
その狂気の中心に、私がいた。
「……なら、私はそれを喰らう側でいい。」
人の美と命を喰らう存在として。
そう決意したとき、
胸の奥に微かな疼きが走った。
“フィーネ”の声が、
どこか遠くで響いた気がした。
『心が形を作る――“美しい”と信じるものに、身体が近づく。』
私は空を見上げた。
黒い翅が、月を遮る。
「……信じる、か。
私はいったい、何を信じてるの?」
答えは風に消えた。