第19話 黒い妖精
王国南部の荒れた丘を越えて、三日。
私は焚き火の前で膝を抱え、
焦げた翅の裂け目を指でなぞっていた。
火の粉が舞い、
そのたびに身体のどこかが鈍く痛んだ。
生命力が削れていく感覚。
まるで、内側から少しずつ食われているようだった。
(あの一瞬の輝きのために……私はどれだけを失ったんだろう)
風に吹かれた翅が軋み、
黒い粉のようなものが地面に落ちた。
焦げた羽片は、もう二度と戻らない。
夜明け前、森を抜ける旅人たちの声が風に乗る。
「南の森に“黒い妖精”が出るらしい。」
「その姿は神々しく、美しく……だが血を啜る。」
「あれは美神の呪いだ。偽りの美を求めた者の末路だ。」
私はその噂を、木陰から聞いていた。
口元に笑みを浮かべたつもりだった。
だが、唇の端がわずかに震えた。
(黒い妖精……。前は灰色の女鬼だった…。
結局、私は人間たちの想像の中でしか生きられないのか)
それでも――
“その名”が、なぜか心地よかった。
夜。
森に白い光が差し込む。
祈りの歌が聞こえた。
「美を穢す者、討て!」
美神教の追っ手だった。
六人。
白い仮面と、金の装飾。
彼らの歩くたび、祈りの光が大地を照らす。
私は息を潜めた。
が、その中の一人が顔を上げた。
「――そこだ。」
見つかった。
風が鳴り、私は跳んだ。
木々の枝が裂け、光の矢が飛ぶ。
皮膚を掠めた瞬間、焼けるような痛みが走る。
「異端を滅せよ!」
「神の御姿を偽る者に裁きを!」
その言葉が胸の奥に刺さる。
(偽る、ね……)
私は血の滲む手を見つめた。
その掌に、なお残る“人間の形”の名残。
(――これが、偽りなら)
唇を噛み、呟いた。
「血肉転化(擬人化)――起動。」
世界が赤く染まった。
骨が軋み、皮膚が焼ける。
翅が光に包まれ、黒から深紅へと変わる。
痛みの中で、私は“形”を失っていく。
代わりに、美が肉を縫い合わせる。
まるで、神が“美しい死体”を作るように。
「な……!」
追っ手たちは息を呑む。
その場に立つのは、
彼らが崇める“美神”にも似た、白銀の女。
滑らかな肌。紅の瞳。
だがその目には、人の温度がない。
私は微笑んだ。
「あなたたちが求めた“美”よ。
……どう? 本物に見える?」
その声は冷たく響く。
一瞬の沈黙――そして恐怖。
男たちは震え、祈りを再開した。
「神の試練だ! 偽神を斬れ!」
彼らの刃が光を放つ。
私はその光を見て、ふと笑った。
「その祈り、嫌いじゃないわ。」
指先を伸ばす。
一人の喉元に触れる。
瞬間、命が吸い取られた。
血の香りが漂い、肌が一瞬だけ透き通る。
そのたびに、胸の奥で何かが削れる。
何かを失う代わりに、美だけが磨かれていく。
「……美しい。」
誰かがそう呟いた。
それが誰の声だったかは、もうわからない。
戦いのあと、森は静まり返った。
私は膝をつき、吐息を漏らした。
胸の奥が冷たい。
まるで心臓がどこかへ落ちていったみたいだった。
「……これが、代償、ね。」
美しくなるほどに、
何かを失っていく。
けれど、もう止められなかった。
「私の美は、命でできてる。」
「なら……奪い続けるしか、ないじゃない。」
翅が闇の中で震えた。
黒と赤が入り混じるその光は、
もはや妖精ではなく、
“呪われた偶像”のようだった。
そして、風に乗る囁き。
「黒い妖精が出た――」
「神をも欺く、美の怪物だ。」
その噂が、王国中に広まり始めたのは、
ちょうどこの夜からだった。