第16話 美しさとは何か
夜が明ける。
風は冷たく、南部の森の木々が静かに揺れていた。
私は湖のほとりに立ち、自らの姿を見下ろす。
水面に映るのは――もう、かつての“私”ではない。
白薔薇の姫を喰らった夜、
全身を貫いた熱は今も消えず、
肌の奥で血が静かに脈を打つ。
髪は銀糸のように光を帯び、
瞳はわずかに赤く染まっていた。
唇の色さえも、妖精とは似て非なる深紅。
けれど、それを見ても喜びはなかった。
「……足りない。」
湖面を指でなぞると、
映る姿が波に歪み、別の“顔”が揺らいだ。
それは、あの領主の娘。
北の砦で私を焼いた女。
美しく、強く、誰よりも生きていた。
私は唇を噛む。
「奪った“美”は、どれも似ている。けれど……どれも空っぽ。」
血肉転化の力で、私は美しさを積み上げてきた。
だが、それは欠けた鏡をつなぎ合わせるような行為に過ぎない。
映るのは輪郭だけで、中身はいつも歪んでいた。
風が吹き、翅が鳴る。
その音に、私は違和感を覚えた。
以前より重い。
翅の先が黒く染まり、光を吸い込んでいる。
美しさの代償――“血”が私の中で淀み始めていた。
『妖精種の力は、心が形を作る。
“美しい”と信じるものに、身体が近づく。』
――フィーネの声が脳裏に蘇る。
ならば、私は何を信じている?
美しいものを壊すこと?
それとも、奪って支配すること?
その問いに答えられず、私は目を閉じた。
静寂の中、森の奥から鳥の声が響く。
小さな命の音。
だが、それがやけに遠く聞こえた。
私は立ち上がる。
行かねばならない。
あの女に辿り着くには、まだ足りない。
もっと、美を喰らわなければならない。
ただ、それだけのはずなのに――
胸の奥に、妙な痛みがあった。
それは、誰かに見られているような感覚。
湖面に映るもう一つの影。
私の背後に、淡い光が揺れていた。
「……フィーネ?」
呼びかけると、光は淡く揺らめき、
答えの代わりに、風が一筋、頬を撫でた。
その瞬間、湖面の“私”が歪んで消えた。
波紋の中に、血のような赤が滲む。
まるで、
“美”が私を喰らっているようだった。
私は森を離れ、王国南部の街道へ出た。
そこを行き交う商人、貴族、旅人。
皆、美しく見えた。
誰もが何かを飾り、隠し、見せようとしている。
その中に混じり、私は歩く。
翅を隠し、フードを被り、
“人間”としての皮をまとって。
血肉転化(擬人化)。
醜さに敵対されるたび、
私は強制的にこの姿を取る。
だが、今は誰も私を拒まない。
“美”は力。
それを肌で感じながら、
私はもう一度だけ呟いた。
「……足りない。」
この空虚を埋めるには、
まだ“上の美”が必要だ。
北の砦――
あの娘の魔力が、
いまも私の心を焦がしている。
そして私は、夜明けの街を抜け、
北を見た。
その瞳には、美と狂気の境界線が
わずかに光っていた。