幕間 灰月の咆哮
風が荒れた。
夜の戦場を吹き抜ける風は、焼け焦げた血と鉄の匂いを運んでいた。
灰色の月が雲の切れ間に覗き、倒れた兵たちの鎧を鈍く照らす。
その中心に、ひとりの影が立っていた。
背丈は人間よりもわずかに低い。
だが、筋肉は岩のように盛り上がり、皮膚は黒鉄のように硬い。
棍棒を握った手は血に濡れ、
その足元には、鎧を砕かれた兵士たちが無造作に転がっていた。
「……弱ぇな。」
男は呟き、棍棒を肩に担いだ。
声には疲労も恐怖もない。
ただ、戦いが終わったことへの“退屈”だけが滲んでいた。
「これで終わりか?」
返事はない。
炎に包まれた野営地から、残骸が崩れる音だけが響く。
だが、男の耳はその奥に――
まだ消えきらぬ“心臓の鼓動”を捉えていた。
「まだ生きてるな。」
棍棒を構え、地を蹴る。
重い足音とともに、地面が割れた。
逃げようとした兵士が振り返るより早く、
その体は空中で粉砕された。
肉片が飛び散り、赤い雨が降る。
「生きる気があるなら、立て。」
死体に語りかけるような声。
だが、その声の奥には――どこか奇妙な“敬意”があった。
「立たねぇ奴は、存在する意味がねぇ。」
男は棍棒を突き立て、炎を見上げた。
月光と炎が交じり合い、夜が赤く染まる。
そのとき、遠くで誰かが叫んだ。
「出たぞ! “灰月の鬼”だ!」
その声が響くと同時に、森の奥から弓兵たちが姿を現した。
矢の雨が降り注ぐ。
だが、男は動かない。
矢が彼の皮膚に突き刺さるが、血はほとんど出なかった。
痛みではなく、ただ熱を感じる。
「……この程度か。」
棍棒を振る。
その一撃で地面がえぐれ、衝撃波が兵を吹き飛ばす。
次の瞬間、彼は空気を切り裂くように突進した。
「どけェッ!!!」
その叫びは、獣の咆哮ではなかった。
言葉を持った怒り――意志を持つ破壊。
彼の周囲で、鉄と骨が一緒に砕けた。
血が飛び、肉が散り、炎が唸る。
そのすべてが“音楽”のように男の鼓膜を震わせる。
「いいな……やっぱり、壊すのは楽しい。」
そう呟いたとき、
頭上に射られた一本の矢が月を裂いた。
それはまっすぐに彼の胸を貫いた。
一瞬、動きが止まる。
だが次の瞬間、彼はその矢を掴み、ゆっくりと引き抜いた。
「ハッ……ちょっとは効くじゃねぇか。」
胸から流れた血を舌で舐め取る。
その味は、鉄と火の味だった。
「この痛み……生きてる証拠だ。」
目の奥に、光が宿る。
それは理性ではない。
ただ、純粋な“生存欲”と“闘争”の輝き。
「強くなる。もっとだ。」
「世界を砕くほどに。」
灰月の光が彼の背を照らす。
棍棒を構え直し、彼は再び歩き出した。
炎の向こうへ――死体の山を踏み越えて。
その夜から、人々の間で新たな言葉が生まれた。
「北方を喰らう灰月の咆哮」
「戦場の鬼」
それは恐怖と同時に、奇妙な畏敬を孕んだ呼び名だった。
だが、男自身はそれを知らない。
名など、どうでもよかった。
求めるのはただ、
“壊せるほどの力”
“抗う価値のある敵”
その二つだけだった。
風が吹き、灰が舞う。
空を見上げると、月がゆらぎ、まるで誰かが笑っているように見えた。
「……お前も、生きてるか。」
独り言のように呟く声は、
遠く離れた森の向こうの誰かに届くことはなかった。
だが確かに、その夜、
“灰月”の名を持つ二つの怪物が、同じ月を見上げていた。