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第13話 灰月の女鬼

雨上がりの夜だった。

森の奥に白い霧が立ちこめ、月が灰色に霞んでいた。

湿った空気の中、私は岩の上に腰を下ろし、自分の手を見つめていた。


――また、人間に近づいている。


指先は細くなり、肌は少しずつ白くなっていく。

けれど、その奥で何かが腐っていくような感覚があった。

“血肉転化”を繰り返すたびに、体のどこかが軋む。

内側の臓腑が、違う何かに作り替えられていく。


(美しくなるたび、私は……“ゴブリン”ではなくなる)

(でも、それでいい。そう望んだのは、私だ)


人間だったころ、鏡の中の自分を見てはいつも思っていた。

――もう少し綺麗に生まれていれば、と。

それが今、ようやく叶いつつある。

なのに、満たされるどころか、心の奥が冷たく乾いていく。


私は立ち上がり、森の外れに広がる小さな村を見下ろした。

灯りが点々と並び、人間たちの笑い声が微かに聞こえる。

その音を聞くたび、胸の奥で何かがざらつく。


(あの中に、“美しいもの”がいる)


夜風に紛れて、甘い香りが漂ってきた。

香草、汗、そして血の匂い。

それだけで体が熱を帯びる。


私はゆっくりと森を下り、村の塀を越えた。

靴を履いた足音――そう、自分が“靴を履いている”ことに気づいて、思わず笑った。

ゴブリンの足に靴など必要ない。

けれど今の私は、そうせずにはいられないほど、人間に似ていた。


村の外れにある教会。

古びた鐘楼の下で、ひとりの少女が祈っていた。

白い服の袖口が風に揺れ、月光を反射して淡く光っている。


(……綺麗)


息を呑む。

胸の奥が焼けるように熱くなる。

血肉転化の衝動が走った。


私の体が勝手に動き、影が少女の背後に忍び寄る。

爪先が伸び、牙が疼く。

一歩。二歩。あと少し。


そのとき、少女が顔を上げた。

月明かりがその瞳を照らす。

透き通るような灰青色――そこに、私の姿が映った。


人間の顔。けれど、瞳の奥には確かに“化け物”の光があった。


少女の唇が震える。

「……あなた、誰?」


その声が、まるで刃のように心を裂く。

“誰”と問われて、答えられなかった。

私は……何なのだろう。


美を求める怪物。

醜さを殺し、美しさを奪う存在。


一瞬の逡巡。

それが命取りだった。


少女が鐘を叩いた。

夜空に響く音。村人たちが目を覚ます。

松明の光が次々と灯り、叫び声が森へと流れていく。


少女は鐘へとつながる紐をにぎりしめたまま息絶えていた。


「あそこに化けものがいるぞっ!!」


「チッ」


私は走った。

血の跡を残して。

焼けるような痛みが全身を襲う。

“擬人化”が解けていく。

骨が軋み、肌が裂け、再び醜悪な緑の皮膚が露出した。


「……これが、代償」


人間の形を保てるのは、わずか一時間。

その時間を過ぎれば、私は再び“ゴブリン”に戻る。

それでも――私はこの苦痛を選んだのだ。

美しくあるために。


森の奥で膝をついたとき、空に灰色の月が浮かんでいた。

光が滲み、まるで私を見下ろしているようだった。


(どうして、こんなにも……虚しいの)


自分の手を見つめる。

少女の血で濡れた指先が、ゆっくりと光を帯びていく。

それは確かに、美しかった。

だが同時に、どこまでも冷たく、死のようだった。


数日後、森を抜けて逃げた商人たちの口から、こんな噂が流れ始めた。


「夜の祈りの時間に、教会へ現れる女がいる」

「姿は人間だが、泣く声は獣のものだ」

「彼女は“美を喰らう化け物”」


それはやがて、「灰月の女鬼」と呼ばれるようになった。

恐怖と憧れを同時に纏うその名は、

ゆっくりと国中に広がっていった。


(……見られている)


夜、森の湖に映る自分の姿を見て、私は微笑んだ。

“誰かの噂になる”ということが、

こんなにも心を満たすものだとは知らなかった。


――けれど、その満足感は長くは続かなかった。


風が運ぶ声。

人間たちの噂の中に、もうひとつ別の名が混ざり始めていた。


「北の戦場に鬼が出た」

「軍を一夜で潰した獣人がいる」

「灰月の咆哮」


その名を聞いた瞬間、胸の奥で何かが震えた。

懐かしい匂い。血と鉄と、炎の匂い。


(あの男……生きているのね)


同じ月を見上げながら、

私は静かに唇を噛んだ。


羨望か、焦りか、それとも別の感情か。

わからない。ただひとつだけ確かなのは――

私たちは、もう人間の世界の“外側”に立っているということ。


「もっと美しくならなきゃ。」


呟きが、夜風に溶けた。

その瞬間、私の背中で骨がきしみ、翼のような影が生まれる。

皮膚の下で何かが蠢き、形を変える。


痛み。苦しみ。

けれど、確かな“快感”がそこにあった。


灰の月の光が、私を照らす。

その中で、私は微笑んだ。


――“灰月の女鬼”。

その名が、私自身の呼吸のように馴染み始めていた。

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