第11話 差
風が荒れ狂っていた。
夜空は濁った赤に染まり、森の奥で雷が鳴る。
雨が降るたび、土が血のような匂いを放つ。
「この先だ。」
あいつが低く言った。
「領主の屋敷。噂じゃ、娘が軍を動かす権を持ってる。若いくせにな。」
「……それだけの権力を持つ女なら、美も備えているでしょう。」
私がそう呟くと、あいつは喉を鳴らして笑った。
「お前は本当に“美”に飢えてるな。気持ち悪いくらいに。」
「あなたは“力”に飢えている。」
「違ぇねえな。」
二人の会話は乾いた音を立て、雨に飲まれて消えた。
屋敷は森の中腹、石造りの要塞のようにそびえていた。
門には十数人の兵士。
だが、月明かりが雲に隠れた一瞬――あいつは影のように動いた。
骨の棍棒が一閃し、兵士の首が音もなく折れる。
血が噴き出す前に、私は爪を走らせた。
もう一人の喉を裂き、雨に紛らせる。
「静かにやるもんだな。」
「死は静寂を好むのよ。」
「詩人ぶるなよ、ゴブリンのくせに。」
彼の皮肉に、私は微笑み返した。
屋敷の中は異様に静かだった。
階段の奥から、淡い光が漏れている。
足音を殺して進むと、
広間の奥に――彼女がいた。
金の髪が揺れる。
白い衣に、赤い宝石をちりばめた首飾り。
その姿は、もはや“人間”の枠を超えていた。
「……領主の娘。」
あいつが呟いた瞬間、女がゆっくりと振り向く。
青白い瞳が、私たちを貫いた。
「醜いものが、よくもここまで来たわね。」
その一言で、私の中の血肉転化が騒ぎ出した。
『擬人化・強制活性化。対象:美的格差・極大。』
熱が全身を駆け抜ける。
爪が細く伸び、肌が白く透き通る。
心臓が焼けるように痛む――美に反応する衝動。
「……行くわよ。」
「おう。」
あいつが棍棒を構え、私は地を蹴った。
一瞬で距離を詰め、女へ爪を振り下ろす。
だが――彼女は微動だにしない。
「遅い。」
その声と同時に、床から光が噴き出した。
紋章が浮かび上がり、魔力の奔流が炸裂する。
風の刃が肌を裂き、壁を砕いた。
「っぐ……!」
私は反射的に後退する。
あいつが棍棒を叩きつけるが、
女は腕を軽く掲げるだけで衝撃を受け止めた。
「人の形を真似ても、力は得られないわ。」
冷たい声。
彼女の掌が赤く光り、次の瞬間――
雷が走った。
轟音。
あいつの体が吹き飛び、壁に叩きつけられる。
血が雨のように飛び散る。
「おい……まだ、やれんのか。」
彼が苦笑しながら起き上がる。
左腕は焼け焦げ、骨が覗いている。
「まだ。」
私は息を吐いた。
擬人化が限界を超え、皮膚が裂ける。
それでも止まれなかった。
「奪う……私は、あの美を……!」
突進。
視界が歪み、時間が遅くなる。
女の瞳が私を見据える。
その瞬間、私は悟った。
――彼女は恐怖を知らない。
雷の槍が胸を貫いた。
光と痛みが同時に弾け、世界が白く染まる。
「ぐっ……あああっ……!」
後方であいつが咆哮した。
棍棒を渾身の力で投げつける。
空を裂く音。
それが女の頬をかすめ、血が一筋、白い肌を汚した。
「……ほう。」
女の声が低く響く。
「少しは“力”があるようね。」
魔力の奔流が再び渦巻く。
床が崩れ、天井から石が落ちる。
「退け!」
あいつが叫んだ。
私は意識の朦朧とする中で頷き、
二人で窓を突き破った。
冷たい夜気が肌を刺す。
屋根を転がり、地面に落ちる。
土と血と雨の匂いが混ざる。
女の声が背後から響いた。
「逃げても無駄。次はその“醜さ”ごと、消してあげる。」
その言葉に、私は歯を食いしばった。
胸を貫いたはずの傷は、焼け焦げながらもまだ動いている。
「化け物が、なんて綺麗な声で脅すのかしら。」
あいつが笑う。
「お前も十分、化け物だろ。」
「そうね。でも――」
私は女の残光を見上げた。
「彼女は、もっと別の“怪物”よ。」
森の奥。
雨が止み、夜が静まり返る。
焚き火の炎が、二人の影を揺らした。
「どうする。」
あいつが言う。
「俺はもう一度あの娘を殺す。力を手に入れるためにな。」
「私は、美を奪う。」
「結局、同じか。」
私は微かに笑った。
「ただし――次は、準備を整えてからよ。」
「へっ。やる気だけは立派だな。」
「それが、生き残った理由でしょう。」
雨に濡れた空気の中で、二人は無言になった。
やがてあいつが立ち上がり、背を向ける。
「次に狩るときまで、死ぬなよ。」
「あなたこそ。」
赤い月が森を照らす。
その光の下で、私は拳を握った。
『吸美欲:未達成。対象登録――領主の娘。』
心の奥で声が響く。
あの娘は、私の“鍵”になる。
そう確信していた。