第10話 月光の下の影
夜は静かに、血のように濃かった。
焚き火の煙が天へ昇り、灰の匂いが鼻を刺す。
狩りのあと、私は水辺に身を沈めていた。
手の甲にこびりついた血は、もう人間のものだ。
それを洗い流しながら、自分の指先の形が変わっているのに気づく。
細く、白く、柔らかい――人間の女の手。
(また近づいた。美に。)
背後で、枝が踏まれる音がした。
振り向くと、男のゴブリンが立っていた。
棍棒を肩に担ぎ、無表情のまま私を見下ろしている。
「……それが、お前の“理想の姿”か?」
「ええ。どう? 人間みたいでしょう。」
「気持ち悪ぃな。」
彼は淡々と吐き捨てた。
「人間の女の顔で笑ってるゴブリンなんざ、見てるだけで寒気がする。」
「寒気でも、構わないわ。私には必要な過程。」
「過程ねぇ……」
彼は火のそばに腰を下ろし、獣の骨を噛み砕いた。
「で、その“美しい顔”を手に入れて、どうする?」
「振り向かせる。
人間を、世界を。
醜いものが見下されるなら、美しくなって見返してやる。」
「くだらねぇ。」
彼は肩をすくめた。
「俺はただ、強くなりゃそれでいい。
誰にも従わず、好きに殺して、好きに生きる。」
「似てるじゃない。」
「違ぇよ。
お前は他人に見せたい。
俺は他人を黙らせたい。」
少しだけ沈黙が落ちる。
焚き火が弾ける音だけが響いた。
だが、次の瞬間。
彼は棍棒を置き、私を見た。
「まぁいい。
目的が違っても、道は同じだ。
強い奴を殺す。美しい奴を殺す。
どっちも“奪う”ためにやることは変わらねぇ。」
「……共に?」
「目的を果たすまで、だ。」
私はゆっくり頷いた。
利害の一致。それだけが、私たちを繋ぐ線。
それ以外には、何の意味もない。
翌晩。
村の灯りを遠くに見ながら、私たちは狩りの準備をしていた。
「人間の女ばかり狙うのはやめろよ。」
彼が言う。
「お前の“血肉転化”ってやつ、人間の血で変わるんだろ。
なら、戦える奴も狙え。兵士を殺せ。」
「美しい者を奪わないと意味がない。」
「強い奴の方が、美しいに決まってるだろ。」
その言葉に、私はわずかに笑った。
強さを美と同義に語るその単純さが、どこか羨ましかった。
「……そうね。強く、美しい者を。」
「奪うまでだ。」
私たちは音もなく村に滑り込み、闇に溶けた。
彼は正面から突撃し、私は影を裂く。
血が弾け、肉が裂ける。
叫びと炎の中で、私の中の“血肉転化”が歓喜に震えた。
『吸美成功――美的進行+6%』
『擬人化発動感度、上昇。』
「……まだ終わりじゃない。」
私の声に、彼が応じる。
「当然だ。もっと殺せる。」
彼の目は獣のそれ。
私の目は鏡のように冷たい。
目的は違う。だが、目指す頂は同じ場所にある。
火の粉が舞い、赤い夜が広がる。
その中で、私たちは息を合わせ、誰よりも正確に殺した。
まるで、戦いそのものが儀式であるかのように。
夜明け。
森の外れ、血に濡れた風の中で、彼が言った。
「次は北の砦だ。
あそこには、領主の娘がいるらしい。
お前の“理想”に近づけるんじゃねぇか?」
「ええ。」
私は静かに答えた。
「その血はきっと、甘いわ。」
「だったら決まりだ。」
彼は笑う。
だがその笑みには、嘲りと軽蔑が混じっていた。
「お前の顔、日に日に人間みてぇになる。
そのうち、俺が見ても何も感じねぇくらいに。」
「感じなくていい。
私は、見る側に立つ。」
「……ほう。」
「醜いものを、見下ろす側に。」
彼は何も言わず、夜の奥へと歩き出した。
私はその背を見送り、静かに呟いた。
(お互い、違う地獄を見ているのね。)
『血肉転化:吸美率上昇。
擬人化安定度+12%。』
風が頬を撫でる。
月明かりに照らされたその肌は、もうゴブリンのものではなかった。
それでも、心の中は――今もなお、獣のまま。