秘められた財と誓い
夏の光が執務室の窓から斜めに差し込んでいた。熱を帯びた硝子越しに、遠くの港がかすかに見える。だが、その港に活気はない。晴れた空とは対照的に、どこか寂寞とした気配だけが漂っている。
重厚な机の上には帳簿と、クラリスが手ずから記した視察のメモが広げられている。彼女は椅子に腰を下ろし、真剣な眼差しでそれらを見据えていた。
「さて、ガブリエル」
クラリスが静かに切り出す。
「視察を終えて、改めて実感しました。道路も市場も港も、あの惨状では人も物も流れてきません。まずは改善が急務です」
机の向かいで控えていた執事ガブリエルが、眼鏡の縁を指で押し上げる。声色は冷ややかというより淡々としていた。
「ご立派なお考えでございます、奥方様。しかし、資金がございません。人手も不足しておりますし、領民は疲弊しきっております」
にやり、と口元に小さな笑みを浮かべた。ガブリエルの反応は予想通りだった。
クラリスは眉ひとつ動かさず、視線を帳簿に落とす。
「今はただ倹約し施しをしているだけ、と言えると思います。未来に繋がる、経済の歯車を回す投資をしていません。領地経営の支出の形を変えなければ、オルフェンはずっとこのまま、いえ衰退の一途を辿るでしょう。」
「しかし、先日もお伝えしましたが財政が…」
反論されることは織り込み済み。むしろ、ここからが本番だ。
「ですから、私の持参金を使います」
その言葉に、ガブリエルの目がわずかに見開かれる。驚きの色を隠せないまま、沈黙が落ちた。暖炉の爆ぜる音だけが、二人の間の張り詰めた空気に小さな裂け目を入れる。
「……しかし!」
ガブリエルは視線を落とし、眼鏡の縁を指で押さえた。沈黙が流れ、暖炉の爆ぜる音が二人の間を埋める。
「大変、出過ぎたことを申し上げますが……」
声は普段より低く、言葉を選ぶように途切れる。
「構いません。正直に言ってください」
クラリスが静かに促す。
ガブリエルはなおも逡巡したのち、ようやく口を開いた。
「……旦那様は、三年後に離婚をと仰っております。」
「えぇ。存知ていますわ」
「……その折、もし奥方様が持参金をすでに費やしてしまわれたなら……侯爵家を離れられた後、何もお手元に残らず……。それが、私には心配でならないのです」
それは主人であるアルベルトの言葉に由来する問題でありながら、ガブリエル自身が心底案じているのだと分かる響きだった。
クラリスは静かに首を振った。
「もともと、このお金はオルフェンの領民のために持ってきたもの。私の未来を守るためではありません」
「ですが……」
「旦那様は普段、帳簿などはご覧になるの?」
クラリスの問いに、ガブリエルは少し間を置いてから答える。
「いえ、財務に関しては私に一任されております」
「そう。では、持参金を使っても気づかれないでしょうね」
「……」
「秘密にしておいてちょうだい」
クラリスは穏やかに微笑んだ。
「……しかし、それでは奥方様のご厚意が旦那様に伝わりません」
ガブリエルは言葉を探すように眉をひそめる。
「いいのです。恩を押し売りするようで嫌なの」
「押し売り、でございますか?」
「ええ。旦那様は騎士様でしょう? 三年後に離縁すると自ら仰った方です。そのような方に情けをかければ、かえって誇りを傷つけてしまうのではないかしら」
「……」
「命をかけて領地を守っていらっしゃることは、私でも存じております。だからこそ、私の施しなど、表に出すべきではないかと。」
ガブリエルは言葉を失い、眼鏡の奥の瞳を細める。やがて小さく頭を垂れた。
「……畏まりました。奥様のお心遣い、痛み入ります」
クラリスは帳簿を指で押さえ、視察メモを指し示した。
「優先順位をつけましょう。まずは道路です。国内の流通網にオルフェンが組み込まれなければ、何も始まりません」
「……確かに」
「次に港。水深が浅くては、最新の大型船が寄港できません。水深を確保し、大型船が接岸できるようにしましょう。交易の第一歩です」
「大型船が寄港……!かつて黄金の玄関口とまで呼ばれたオルフェンの繁栄が思い出されます」
クラリスは笑顔で執事の郷愁と希望が入り混じった感情を肯定する。
「ええ。そして港が整えば、人と物が自然と集まります。その後は雇用と教育に力を入れましょう。領民を雇用すれば労働が回り、収入が増え、生活も改善されます。オルフェンを世界随一の要港にまで発展させたいですね」
クラリスの声は淡々と落ち着いていたが、その奥に強い闘志が宿っていた。
ガブリエルは机上の帳簿に目を落とす。先ほど一瞬高揚したかに見えた彼の表情が、帳簿を見るなりすぐに沈むのが分かる。指先で紙の端をいじりながら、やがて、静かに言葉を絞り出した。
「奥方様……本当にやり遂げるおつもりなのですね」
「ええ。これが私の使命だと思っています」
ガブリエルは深く息を吐き、長い沈黙の末、姿勢を正した。
「……畏まりました。奥様のお考えに、このガブリエル、心より従わせていただきます」
恭しく首を垂れる執事に、クラリスは目を細めて頷いた。胸の奥に力が湧いてくるのを感じる。
「一緒にやり遂げましょう」
窓の外には、まだ寂れた港が広がっている。けれどその光景は、もう絶望だけの象徴ではなかった。
机の上に広がる帳簿と視察メモ――それは未来を描く設計図になりつつある。
執務室に差し込む夏の光と、木々を揺らす風の音が、二人の決意を包み込む静かな余韻となった。
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