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初めての視察

 朝靄の残る中庭に、クラリスは静かに立っていた。濃紺のマントを羽織ると、胸の奥に小さな昂ぶりが芽生える。今日、ようやく外に出て、自らの目で領地を知る機会が訪れたのだ。


 門前には、一台の馬車が用意されている。黒塗りの車体は年月を経て艶を失い、どこか疲れた姿をしていた。御者台には寡黙な男が座り、馬の手綱を握っている。馬車の横には道案内役として選ばれた役人が立っており、深々と頭を下げた。


「奥方様。本日は私がご案内を務めます。城下の道筋を、順にご覧いただきましょう」


 その声音は礼儀正しいものの、どこか張り付いた笑みの裏に、諦めに似た影が潜んでいるように感じる。


 クラリスは頷き、馬車に乗り込む。護衛たちは表立って同行せず、散開して影に紛れることになっていた。民に威圧感を与えぬための配慮である。


 やがて、重々しい城門が開き、馬車は外へと走り出した。クラリスは窓越しに広がる景色を見つめる。城壁に囲まれた外の世界は、彼女が想像していた領地の姿よりも、さらに上を行っていた。


 ――ごとん、と大きく揺れた。


 車輪が深い轍に取られ、馬車が激しく傾く。思わず窓枠に手をついて体を支える。道の表面は泥に覆われ、雨水が溜まって光を反射している。馬の蹄が跳ね上げる泥しぶきが、車体の側面を汚していく。


「……これでは、交易も商売も進みませんね」

 クラリスが小さく尋ねると、役人は曖昧に笑って肩をすくめた。


「は、はい……長らく手入れが行き届いておりませんで」


 言い訳めいた声。クラリスは不快感を表には出さず、冷ややかに道路を見据え続けた。


馬車が市場に入ると、クラリスは思わず眉を寄せた。


 通りには店が並んでいるものの、品数が極端に少ない。棚に並ぶのは、二桁に見たない種類の野菜や魚ばかり。空気は驚くほど素っ気ない。


ーー公益品が入ってこず、あの道路では商人からも敬遠されるでしょうから、地元で取れるものしか市場に並ばないのだわ。


 露店の一つに近寄ると、老婆が自家製の串焼きを並べていた。クラリスはそっと声をかける。


「この辺りでは、もう香辛料は扱っていないのですか?」


 老婆は肩をすくめ、ため息まじりに答える。


「東の港から船が来なくなってねえ。胡椒もシナモンも夢の品さ。今は、うちの畑でとれるセージやローズマリーを混ぜて、なんとか味をごまかしてるんだよ」


 彼女は手にした小瓶を見せた。そこには乾かした草葉が詰められているが、異国の香りとは程遠い素朴な匂いしかしなかった。


 別の露店では、染布を売る若者がいた。色鮮やかな赤や深い青はなく、目に入るのは褪せた黄や茶色ばかりである。


「これは羊毛に、地元の草木で染めたものです。昔は絹みたいな上物もあったんですが、今じゃ王侯貴族にしか回りませんよ」


 若者の声には自嘲が混じっていた。


 さらに奥では、農民が袋いっぱいの小麦を前に、商人と激しく言い争っていた。


「これじゃ暮らせねえ!」

「値を下げろと言われても、仕入れが三倍になってるんだ!」

 小麦の値段は急騰し、どんどん庶民には手が届きにくくなっているらしい。


 市場の一角で、クラリスの目に幼い子どもの姿が映った。


 背丈に不釣り合いな大きな木箱を抱え、よろめきながら運んでいる。箱の中には干し魚がぎっしり詰め込まれており、今にも足元を取られて転びそうだ。


「おい、急げ!」と店主が声を荒らげる。子どもは小さく返事をし、必死に歯を食いしばって歩みを進めた。


 クラリスは胸を締めつけられる思いで見つめた。

――あの年なら、本来なら学ぶか、せめて遊んでいるはずなのに。


 だが顔には出さず、静かに目を伏せた。

 別の屋台でも、小さな少女が母親の代わりに声を張り上げていた。


「新鮮な玉ねぎだよ! 買ってって!」


 声はよく通るが、まだ子どもらしい高い調子が耳に残る。周囲の客たちは物珍しげに見ながらも、財布の紐を固く締めていた。


 クラリスは窓越しに呟いた。


「子どもまで働かざるを得ない……これが、町の現実なのですね」

 

「こちらが城下の市場でございます。……皆、少々困窮しておりまして」


 道案内役の言葉に、クラリスは視線を向ける。


「少々、という表現では足りないように見えます」


 静かな声で返すと、役人は一瞬たじろいだ。彼女が単なる飾りの夫人ではないことを悟ったのかもしれない。


 馬車はさらに進み、港へと向かった。潮の香りが風に乗って流れ込む。


 沖合には黒い影のような大型船が停泊していたが、直接接岸できず、小舟が何度も往復して荷を運んでいる。


 効率は悪く、危険さえ伴っていた。

 クラリスは黙ってその光景を見つめる。潮風に髪が揺れた。


「……このままでは、港町としての発展は望めませんね」


  視察を終え、馬車が城へ戻る道をたどる。窓越しに、クラリスはもう一度町の景色を見やった。


 遠巻きに自分を見つめる領民の視線があった。不信と好奇の混じった瞳――「どうせ何も変わらない」という諦めを含んだ眼差し。


 ーーやってやる。私がこの街を立て直すわ。やることが山積みね。


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