執事との対面
翌朝。
冷えた石造りの廊下を進むクラリスの足音が、規則正しく響いていた。王都で迎えた婚礼の喧騒が嘘のように、オルフェンの城は静まり返っている。
案内役の侍女に導かれ、重厚な扉の前で足を止めると、冷たい鉄の取っ手がゆっくりと開かれた。
「奥方様、こちらが執務室でございます」
侍女が小さく頭を下げる。クラリスは頷き、背筋を正して足を踏み入れた。
高い窓からは、朝の光が斜めに差し込んでいる。だがそれは暖かさを与える光ではなく、石造りの壁に冷たさを際立たせるばかりだった。部屋の中央には長年使い込まれた木製の机があり、その上には革表紙の帳簿が山のように積まれている。紙は黄ばみ、赤字の数字がいくつも並んでいるのが遠目にもわかった。蝋燭の焦げた匂いと、古い紙の乾いた匂いが鼻をかすめる。
机の前に立つ男が、一歩前へ進み出た。
年配でありながら背筋は真っすぐに伸び、眼鏡越しの視線は鋭く、しかし礼節を欠かぬ落ち着きを備えている。その声は低く、穏やかに響いた。
「……ようこそお越しくださいました、奥方様」
クラリスは裾をつまみ、凛とした微笑を浮かべて応じる。
「こちらこそ、改めてお世話になりますわ。ガブリエルでしたね?」
「はい。オルフェン侯爵家に仕えて三十余年。執事を務めてございます」
その声音には忠誠と職務への誇りがあったが、奥底にほんのわずかな含みが潜んでいるのをクラリスは敏感に感じ取った。「果たしてこの若い娘に務まるのか」――そう値踏みするような気配。
ガブリエルは机の上に積まれた帳簿の束を整え、一冊を手に取ると、静かに差し出した。
「侯爵夫人には、まずこの帳簿をご覧いただきましょう。……この地の現実を、直視していただくために」
革表紙に包まれた分厚い帳簿。クラリスはその重みを両手で受け取った。
「ありがとう。では、早速拝見いたしますね」
さらりと応じながら、内心では息が詰まる思いだった。頁を繰ると、出てくるのは収入減少、支出超過、負債累積の赤字数字。領地の疲弊がそのまま刻まれていた。
ーーなるほど……
視線を帳簿に落としたままガブリエルに向き直る。
ーー“女には務まらぬ”とでも思われてるのでしょうね
一瞬の不安を理性で押し殺し、表情を保つ。ガブリエルは彼女の様子を見ていたが、クラリスの冷静な仕草に、わずかに眼鏡の奥が光った。
「ここ数年、歳入は減少の一途。農地は荒れ、港は活気を失い、交易船は寄りつかず。領民の流出が続いております」
語る声は淡々としている。皮肉はなく、ただ事実を突きつけてくるのみだった。
クラリスは黙って頷き、帳簿の数字を追う。その背筋は揺るがず、眼差しは紙の上に釘付けにされている。
「……旦那様の戦の報奨金があるから、かろうじて均衡を保っている、といった印象ね」
短い返答に、ガブリエルは思わず「ほう」と声を洩らした。帳簿を一瞥しただけでそこに気づくとは思わなかったからだ。しかし次の瞬間、己の驚きを主の評価と誤解されることを恐れ、すぐに頭を垂れる。
「失礼いたしました……。奥方様、よくお気づきで」
クラリスはその謝罪を受けて、ただ柔らかな笑みを返す。気にしていない――そう示すだけで、余計な言葉は添えなかった。
「財政の大枠は理解しましたわ。次は街を視察に行きます」
そう告げると、ガブリエルは供を申し出た。だがクラリスは首を横に振る。
「あなたはきっと、この地でよく顔を知られているでしょう? ならば私は、まだ誰にも知られていない今のうちに領民の暮らしを自分の目で確かめたいの。忖度のない声を聞きたいのです。道案内人だけつけてくだされば十分ですわ」
その言葉に、ガブリエルは静かに目を細め、一礼した。




