冷えた初夜
六月の雨は、しとしとと絶え間なく降りつづいていた。馬車の車輪が泥にとられては水しぶきを上げ、車体を小刻みに揺らす。薄闇の中、街道の果てにそびえ立つ影が、クラリスの視界に浮かびあがった。
オルフェン城――彼女の新たな居城にして、これから暮らすべき場所。だが第一印象は、威厳よりも疲弊の色を強く漂わせていた。灰色の石壁は苔むし、雨に濡れて鈍く光る。老朽化した城門には錆が浮かび、松明の炎だけが頼りなく揺れている。
ーー冷たい城だわ
クラリスは胸の奥でそっとつぶやいた。王都の大聖堂で婚礼を挙げたばかりだというのに、華やかな余韻など微塵も残っていない。
重々しい音を立てて城門が開くと、馬車は石畳をきしませながら進んでいく。迎えに立っていた兵士たちは無言のまま整列し、ただ礼を示すのみ。出迎えとしては最低限で、温かみはどこにもなかった。
やがて、濡れた外套を肩にかけた壮年の男が前に進み出た。執事は、ガブリエルと名乗った。灰色の髪をきちんと撫でつけ、礼儀正しく頭を垂れると、抑揚の乏しい声で告げた。
「オルフェンへようこそ、クラリス様。どうぞ、ご不自由なさらぬように」
その言葉は丁寧でありながらも、心の奥に距離を残した響きを帯びていた。クラリスは一瞬、その視線に潜む値踏みの色を感じ取る。――本当に、この方が務まるのか。そんな問いが見透かされる。
しかし彼女は微笑みを崩さなかった。
「ご挨拶いただきありがとうございます。これからよろしくお願いしますね」
そう答えながらも、心は揺れていた。新たな夫アルベルトが姿を見せるのではと、わずかな期待を抱いていたからだ。しかし、城門で待っていたのは執事ただ一人。冷たさは、胸に小さな棘を残す。
大広間へと案内されると、そこは高い天井と石造りの壁が冷え冷えとした空気を溜めこんでいた。古びたタペストリーが垂れ下がり、灯火の明かりに色褪せた模様が浮かぶ。
長い食卓には、温かいシチューの湯気と黒パンが用意されていた。だが席に着いたのはクラリスひとり。使用人たちは壁際に控え、冷ややかな沈黙が支配する。
ーー夫はどこに?
問いかけようとした矢先、奥の扉から現れたアルベルトが姿を見せた。漆黒の外套をまとい、無表情のままクラリスを一瞥する。
彼は何も告げず、卓につくこともなく去っていった。足音が石床に響き、消えていく。
クラリスは唇を噛んだ。顔すらまともに合わせないとは、無礼も甚だしい。それでも侍女たちの前で怒りを見せるわけにはいかない。気丈に振る舞い、スプーンを取り、質素な夕食を口に運んだ。温かいはずの料理も、胸の内に広がるのは冷えた虚無感ばかりだった。
食事を終えると、侍女に導かれて寝室へと向かう。石造りの廊下は長く、足音が硬質に反響する。扉を開けば、広すぎる部屋に大きな天蓋付きのベッドが鎮座していた。だが、その豪奢さはどこか空虚で、壁際に置かれた古い家具が時の流れを告げている。
侍女は恭しく頭を下げて告げた。
「クラリス様の寝室はこちらでございます。閣下のお部屋は別にございますので……」
初夜を共にせず、別々の部屋。クラリスは小さく息を呑んだ。驚きはしなかった。結婚式の態度を考えれば当然だろう。しかし、同時に呆れも募る。
ーーここまで冷たい態度を取るなんて……いったい、何を考えているのかしら。
夫に恋人がいるのか、それとも他の理由があるのか。答えはわからない。だが一つだけはっきりしている。――この夫に期待するのは愚かだということ。
クラリスは窓辺に立ち、雨に煙る夜の庭を眺めた。湿った空気に、古い木材の匂いが混じる。胸にわきあがるのは孤独ではなく、別の決意。
ーー夫の無関心など気にしない。私は、このオルフェンを立て直すために来たのだから。
その決意が静かに胸を満たしていく。冷えた初夜の夜、クラリスは布団に身を沈めながらも、すでに未来の構想を巡らせていた。道路の整備、市場の活性化、港の改修……やるべきことは山ほどある。
アルベルトが背を向けても構わない。むしろ自由を得たと考えればよい。クラリスは眠りにつく直前、唇にかすかな笑みを浮かべた。
冷えた夜の始まりは、彼女の決意をいっそう固くするためにあったのだ。
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