【短編版】先生、最低です
俺には教師として生徒に教えられることが二つだけある。一つは美術。もう一つは「優しさが時に人を傷つける」なんて言葉が、いかに独善的であるか、だ。
これから話すこと、一生テストに出ることはないが、よく胸に刻んでおくように。
「明日の朝、相談があるので屋上に来てください」
昨日の放課後、教室を出ようとしたときのことだ。一人の男子生徒が俺を呼び止めた。片寄叶夢。いつもどこか寂しげな目をしていて、クラスに馴染めずにいる彼を、俺は他の生徒よりも一層気にかけていた。
初めて彼の絵を見たとき、まるで魂が共鳴するような感覚に囚われた──教師と生徒を超えた、深い繋がりを感じずにはいられなかった。
彼の描く絵には、言葉にできない孤独と繊細な色合いが宿っていて、俺の心を強く揺さぶった。
なぜ屋上なのか、ふと疑問がよぎったが、俺は深く考えることもなく二つ返事で了承した。
少し重い金属製の扉を開け放つと、風が吹いた。遮るもののない屋上では、風は自由そのものだ。
辺りを見渡せば、一面の青空の中にポツンと人影が浮かんでいる。叶夢だと分かった瞬間、彼が俺を頼ってくれたという思いが胸を熱くした。
「よっ、待たせたな」
右手を軽く掲げ、浮かれた声で呼びかける。自分でもその軽薄さが分かっていた。
「お忙しいところすみません。来てくれて、ありがとうございます」
叶夢の声は小さく、震えていた。目を細め、唇をキュッと引き結ぶその表情は、どこか決意と不安が入り混じっているようだった。視線は定まらず、風に揺れる髪の隙間から、ちらちらと俺を窺う。
「気にすんな。それで、相談って?」
気軽に問いかけた俺の声とは裏腹に、叶夢の肩は微かに震えていた。彼は一瞬、目を閉じ、深く息を吸い込む。まるでこれから飛び込む覚悟を決めるかのように。
「……単刀直入に言いますね」
その言葉に、俺は自然と息を呑んだ。教師としてだけでなく、叶夢にとって唯一の拠り所でありたいと願っていた俺は、彼の言葉を全身で受け止める決意をした。
「先生のことが好きです」
「……は?」
決意とは裏腹にこぼれ落ちた一文字。頭が真っ白になり、思考が凍りつく。叶夢の瞳は真っ直ぐに俺を捉え、潤んだその目は縋るように揺れていた。細い指先が制服の裾をぎゅっと握りしめ、唇を震わせる。まるでこの一瞬に全てを懸けているかのように。
「僕と、付き合ってください」
その言葉は、まるで屋上の風を切り裂く刃のようだった。叶夢の声は小さく、だがその中に込められた熱は、俺の胸を締め付けた。時間が止まったようだったが、やがて錆びた歯車が軋むように思考が動き出す。さっきまで抱いていた喜びは一瞬で消え、代わりに冷たい現実が心を覆った。教師と生徒。許されざる関係。明るみになれば、俺の人生は終わる。
「……無理だ」
冷たく、突き放すような声が口をついた。自己保身に導かれた無機質な拒絶。だが、心のどこかで、叶夢の真っ直ぐな瞳に刺されるような痛みを感じていた。叶夢の顔が一瞬歪み、涙が頬を伝う。それでも彼は無理に笑みを浮かべ、俺の手をそっと握った。その小さな手は冷たく、震えていて、まるで今にも壊れてしまいそうだった。
「僕、先生と出会って変われた。誰も僕の絵を見てくれなかった。でも、先生だけは……先生だけは、僕の全部を受け入れてくれた」
叶夢の声は掠れ、言葉の端々に切実な想いが滲む。彼の指は俺の手を強く握りしめ、まるで離したくないと縋るように力を込めていた。だが、俺の心は教師としての理性に縛られていた。感情を押し殺し、冷たく突き放す言葉しか出てこない。
「叶夢、俺は教師だ。そしてお前は生徒だ。分かるだろ? そんな関係にはなれない」
声が震えた。喉が詰まり、胸が締め付けられる。叶夢の瞳が一瞬揺れ、すぐに諦めと優しさに満ちた笑みに変わる。それは、まるで俺の拒絶を予期していたかのような、悲しいほど穏やかな笑みだった。
「わかってます。先生はそう言うしかないですよね」
彼はゆっくりと手を離し、一歩後ずさる。屋上の端に立つその姿に、俺の胸に嫌な予感が走った。叶夢の背中は、今にも風に溶けてしまいそうだった。
「先生、ありがとう。僕、先生のおかげで、初めて自分の絵が誰かに届くって思えた。初めて、生きてるって実感できた」
彼の声は静かで、どこか解放されたような響きを帯びていた。だが、その言葉の裏に潜む重さに、俺は息を呑む。彼の細い背中が、まるで鳥の羽のように儚く見えた。
「さようなら。ありがとう。大好きでした」
「待て──」
走り出した瞬間、世界がパラパラ漫画のように感じられた。一枚、一枚と、捲られていくたびに叶夢が遠のいていく。
叶夢は屋上の縁を蹴った。今まで囚われていた檻から解放されたかのごとく、軽やかに。
地にへばりついた体から溢れ出した緋色が、真っ白なワイシャツに滲む。内臓が爆ぜた音、見たこともない方向にひん曲がった四肢。その全てが、水彩のように俺の心を侵していく。
俺の心には名もなき罪が根を張った。叶夢の絵、笑顔、声、そしてあの最後の言葉が、頭から離れない。夜ごと、目を閉じれば、屋上の縁で消えた彼の背中が脳裏に焼き付く。細い肩、風に揺れる髪、俺を見つめた潤んだ瞳──あの瞬間、俺は何をしていた? ただ立ち尽くし、冷たく突き放しただけだ。教師として、俺は彼を守れなかった。いや、人間として、彼を救えなかった。
胸の奥で何かが軋む。鏡を見るたび、自分の顔が憎らしい。教師としての理性だの、立場だの、そんな言い訳で自分を誤魔化してきたが、結局は俺の弱さだ。叶夢の震える手を握り返す勇気も、彼の告白を受け止める覚悟も、俺にはなかった。
あの子の命を奪ったのだ。俺の拒絶が。心臓を締め付けるような痛みが俺を責め立てる。こんな自分が教師だなんて、とんだお笑い草だ。
「優しさが時に人を傷つける」──そんな言葉はエゴでしかない。俺が叶夢に示したのは優しさなんかじゃなかった。人を傷つける優しさなんて存在してはいけないのだから。
この度は拙作を手に取っていただき、誠にありがとうございます。この作品が皆様の心に少しでも残るものとなれば幸いです。もしよろしければ、感じたことや考えたことなど、率直なご感想をお聞かせいただけると嬉しいです。