9.「それでも日常は続いていく」
――帯広、夕方
白石彩乃は、会社を出ると同時に大きく伸びをした。
「うー、今日もなんとか終わったぁ……」
社食のスパゲッティ・ナポリタンは、彼女にとって一種の味覚地獄だった。ケチャップの酸味、油の香ばしさ、炒めた玉ねぎの甘味、その全てが猛烈に主張してくる。脳内がうるさいにも程がある。
「帰ったら、冷奴で中和しよう……」
その足でコンビニに寄り、豆腐とネギ、あと口直しに炭酸水を買う。
レジ横のホットスナックに目が吸い寄せられるが、「脳が焼けるぞ」と自己暗示をかけて踏みとどまった。
その晩。
@ayano_815
「今日のナポリタン、マジで五重奏。味覚スキルほんと敵」
Tweechoへの投稿を終えると、通知が鳴る。
@hayato_kuromaru
「俺の今日の敵は講義。ノートが震えて“味噌煮込み”って書いた」
「なにそれ、アホだな……」
思わず笑う。
「……って、いや、他人のこと笑えないけど」
どこかで共鳴する誰かの存在。それが奇妙な安心感に繋がっている自分に気づき、彩乃はスマホを胸に置いて天井を見上げた。
「……転生って、なんなんだろうね」
その言葉は、誰に向けたでもなく、ただ空気に溶けていった。
――呉市。
藤堂隼人は、晩飯の後片付けを終えて自室にこもり、ノートPCを開いた。
「うーん……スキルの出力精度は上がってるけど、やっぱり用途が限定的だな」
机の上には、“どこでもブルブルくん・試作二号”が置かれている。今回はUSB接続で可変出力可能。ペットのマッサージや、古いHDDの共鳴修復などに使える……かもしれない。
だが今のところ、隼人がこのスキルで本気を出した成果は、「アイスコーヒーを絶妙な飲み頃にする」くらいである。
そんな彼も、Tweechoに投稿した。
@hayato_kuromaru
「冷奴に細かい振動かけてたら、なんか職人になった気がする」
ふと、@ayano_815の投稿が目に入る。
「味の五重奏で死にかけた」
「……今日も元気そうでなにより」
静かな夜。画面越しのやり取りが、唯一の“似た者同士”の気配だった。
――転生管理機構・第8観測課。
「対象A・B、本日も通常軌道。非言語的接触頻度、着実に増加中」
観測員ヒトリは、日報のテンプレートを打ち込みながら小さくガッツポーズ。
「いいぞいいぞ、このまま自然接触まで持ち込めば、成績評価もワンチャン……」
横の主任がちらっと見てくる。
「報告に“ワンチャン”とか書いたら減給だぞ」
「書きません!」
そのとき、別の端末がアラートを発した。
『観測外イベントNo.7:外部転生体による掲示板言及、増加傾向』
「……やっぱり、誰か見てる。もしくは、既に他にも……」
主任は腕を組み、画面を見つめた。
「野良が出始めてるのかもしれん。どちらにせよ、AとBの周囲の情報は強化監視だな」
夜は静かに、しかし確実に動いている。
そして、その動きの兆しは、思いもよらぬ場所で火種を生んでいた――




