第11話 炎の中に消えたもの
二人の入った部屋は、要塞めいたラットキャッチャーの拠点の奥まった場所にあった。部屋に窓は無く、明かりは壁のちらつくランタンだけだ。陽光の届かない石床は冷え切っており、石の冷たさがブーツの裏を通して骨にまで届きそうだった。
ガラスの中で踊る火が埃の浮いた壁に奇妙な影を落とすなか、流水が床を叩く音が静寂を破る。薄い板の仕切りの向こうで、ミリアが水浴びをして汚泥を洗い流しているのだ。たまにえらく素っ頓狂な悲鳴が上がるのは、湯水に混ざる冷水に驚いているのだろう。ボイラーの調子が悪いのは、ラットキャッチャーなら皆が知るところだ。
部屋の中央の低い木製テーブルには、几帳面に畳まれた黄色いコートの上に、フクロウを象ったマスクが置かれていた。何度も補修を繰り返したのだろう。コートの表面には、まるで手術をした痕のようにあとかたが残っていた。
アルトはシャワー室に背を向け、テーブルの向こうに立つ。小柄な体を背筋正しく保っていたが、下ろした手の指が無意識にテーブルを軽く叩く。緊張を隠せない。
がらりと戸の開く音がして、彼の背中で衣擦れの音がする。アルトが耳を赤く染めながら瞑想していると、ミリアがコートを動かす音がした。
「これが私の装備?」
「あ……はい。」
対するミリアは、事も無げな様子だ。金髪のショートボブを揺らし、藍色の瞳で装備を眺める。コートに手を伸ばして持ち上げた瞬間、その重さに眉を上げる。
「うわっ、重っ! 何これ!?」
ミリアが手に取ったコートは、水に浸かったように重い。
ラットキャッチャーが使う黄色のコートは、生地の間にメッシュ状の鎖鎧を仕込んであり、胴体の部分は鋼板で強化してある。
手の感触で鎖と鉄板を確認したミリアは、呆れたようなため息を放った。
「コートにメイル、それにプレートまで仕込んでるの? 騎士顔負けね」
「不意打ちに対する保険です。無いよりマシ程度ですが」
「これで〝保険〟ね……。なら、今度は盾でも縫い付けてみる? ラットキンに噛まれる前に私の肩が砕けそうだわ」
ミリアが目を細め、口の端を歪めて皮肉っぽく笑った。しぶしぶといった様子でコートに袖を通し、ベルトをしめる。
「慣れますよ。俺も最初はそうでした」
アルトは穏やかに返すが、その目に一瞬、遠い記憶がよぎった様子だった。
コートを着込んだミリアは肩を回して重さに慣れようとしている。野伏である彼女としては、やはり装備の重さが気がかりらしい。鎖の重さに振り回される裾を苦々しく見ている。
「これって個々人で改造しても大丈夫なの?」
「はい。重さが気になるようならマスターに伝えておきます」
次にミリアはフクロウを象ったマスクを手に取った。ラットキャッチャーを象徴する装備品だ。金属と硬化革からなるマスクの造形は、丸い眼孔の間に金属製の鋭い嘴がある。眼孔の奥にはガラスがはめられており、暗い中でも不気味に輝いている。
その輝きを奇妙に思ったミリアは、マスクをひっくり返す。すると眼のあたりの裏打ちに金色の金属板があてられており、直線的な幾何模様が彫刻されていた。
「まさか、ドワーフのルーン?」
ルーンとは、ドワーフが用いる魔法を物質に閉じ込める技術だ。
ドワーフは魔法嫌いで知られているが、それは一部正しく、一部間違っている。
より正確に言えば、彼らは「管理されていない魔法」を嫌っている。
ミリアが使う魔法は「生の魔法」であり、魔力の風向きを術者がコントロールする必要がある。術者の技術が拙ければ、魔法は失敗するか、よりひどいことになる。
たとえば――爆発など。
ミリアのような熟達した魔術師はそうそう事故を起こさないが、人間のインチキ魔法使いは話が別だ。彼らは思い込みを含んだオカルトもどきの魔法を実行して、度々問題を起こす。するとウィッチハンターが薪を持って解決のために駆けつける。
帝国における魔法嫌い、魔法にまつわる迷信のもとを辿ればこれに行き着く。
魔力の風向きを調整できなければ、魔法は術者の意図しない結果をもたらすのだ。
ドワーフは魔法のもたらすそうした害を深刻に受けとめ、物質に魔法の実行をいわばプログラムのような方法で「閉じ込める」手法を選んだ。プログラムの内容は魔法の定義であり、定義以外のことは実行しない。これが魔法の安全性を担保する。
ルーンは、この世界でもっとも〝安全〟な魔法だ。もっともドワーフは人間の頑迷さをよく知っているので、あくまでも「技術」と主張しているが。
マスクを顔の前に持っていくと、模様に刻まれた魔法が発動する。一度ガラス板がぼんやりと光ったかと思うと、部屋の中がぐっと明るくなって見えた。
「夜目のルーン!? ちょ、こんな精巧な装備、お貴族様だってそうそう持ってないわよ?! ってか、太陽石の話はどうなってるのよ!」
ミリアがアルトから聞いた話では、地下ではランタンが使えないので太陽石を使うという話だった。だがこんな暗視装置があるとなると話が違う。
「そのマスク、一見便利そうですけど、小さな光を強くするものなので、完全な暗闇では役に立たないんですよ。それに地図や書類を見る時なんかも弱すぎて」
「そいういえば……地下で構造図を見るとき、太陽石を口にくわえてたわね」
「えぇ。便利ですけど過信はできません。あとは通常のガスマスクとしての機能もあるんですが……わかりますか?」
「大丈夫。鉱山の依頼で使ったことあるから。口元についてるこの蓋よね? ここを開けて、吸収缶をねじ込んで息をするんでしょ」
ミリアはマスクの嘴に隠れている蓋をパカッと開いて見せる。
説明もなしにやってみせた彼女に、アルトは感心したように頷いた。
「えぇ、その通りです。毒によって缶の分類があって少々煩雑ですが――」
アルトが淡々と毒の種類とそれに対応する缶を説明する。
理路整然とそれぞれの毒の特性と危険性、そしてどう対応して治療すればいいかをとくとくと語っていく姿に、ミリアは前々からの違和感を拭えなかった。
「アルトくんはどうしてラットキャッチャーになったの? 君の立ち居振る舞いとか、知識とか……農民や街の人のそれじゃない。貴族の出でしょ?」
エルガーがわからなかったリングの正体を、アルトは一瞬で看破した。
ミリアはマスクを手に持ったまま彼を見る。
彼女の言葉をうけ、アルトの説明はぴたりと止まった。
彼の指がテーブルを叩くが、そのリズムは乱れている。
目を伏せたアルトは唇を噛み、深く息を吐いた後、ためらいがちに口を開いた。
「……さすがですね。確かに、俺、昔はウィートランドの小領主の息子でした。あの小麦畑が地平線まで広がる穀倉地帯で育って、家族と一緒に暮らしてたんだ」
「だったら、どうしてこんなことに?」
ミリアが首を傾げ、藍色の瞳が背中を丸める彼の姿を捉える。震えて息を吐くアルト。まるで肺の中にあった全ての空気をしぼりだしたかのようだった。
「ミリアさんは、ウィートランドで起きた大火のことを知ってますか?」
「ウィートランド? アインスブルクの北のほうにある穀倉地帯よね。そういえば、大火事が起きたって話を数年前に聞いたことがあるかも。たしか――農民が穀物庫の害虫を追い払おうとして、その火が燃え移ったとか」
「公式にはそういう事になっています。ですが本当は違います」
「…………それじゃあ、まさか!」
「皇帝の親衛隊とラットキャッチャーがラットキンの存在を隠すため、ヤツらの死体も何もかも……証拠となるもの全てを灰にするために火を放ったんです。俺の家も、家族も、全部灰になりました」
彼の拳がテーブルを叩き、鈍い音が部屋に響く。
「始まりは家畜が姿を消し、麦袋の数が合わなくなったことです。父は夜警を増やして騎馬兵に街道を巡視させるようにしましたが――朝になると騎手を失って腹を食い破られた馬だけが残っていました」
声が途切れ、彼はミリアから目を逸らした。
「それから?」
「ある日、家畜を収めていた納屋ごと地面が崩れました。そして始まったのは……地下から上がってくる無数の黒い波。俺は馬を走らせ、父に報告しようと、でも、屋敷はその時にもう燃えてた。妹は……俺の手を握ったまま、炎に呑まれて――」
部屋に重い沈黙が落ちた。
ランタンの弱々しい光が照らす彼の頬に一筋の雫が伝う。
ミリアは息を呑み、マスクを握る手が強張った。
彼女の瞳が揺れ、それを覆い隠すように静かに瞼が降りた。
ウィートランドの夏は、いつも黄金色に輝いていた。穀物の甘い香りが風に乗り、平原を駆ける馬の蹄が土を叩く音がアルトの耳に心地よく響いた。
小領主の息子として、彼は16歳の夏を家族と共に過ごしていた。父は厳格だが領民を愛し、母は優しく、二人の妹は彼の自慢だった。屋敷の書斎で戦術書を読み、馬に乗り、妹たちと笑い合う日々――
それがアルトの全てだった。だが、あの夜、炎が全てを奪った。
火の手は穀物庫から上がったとされる。公式記録では「農民が害虫駆除の火を失態で広げた」とある。だが、アルトは知っている。皇帝直属の親衛隊とラットキャッチャーが、ウィートランド全域を焼き払った真実を。
地下に広がっていたラットキンの巣窟を隠すため、帝国の穀倉地帯を犠牲にしたのだ。家族の叫び声、燃え落ちる梁、妹の手が彼を掴んだまま炎に呑まれる感触。
屋敷の焼け跡に立ち尽くし、灰の中から拾った母の焦げた指輪を握りしめた時。
アルトの心は砕けた。
「それで、アルトくんは復讐のためにここに?」
彼女の声は柔らかく、慈愛にみちていた。
アルトは拳を握り、唇を噛む。
「復讐だけじゃないです。俺は……」
彼が目を上げると、その瞳に決意が宿っていた。
「俺は、俺と同じような目に遭う人を出したくない。そんな感じです」
「そう。えっと、あの……話してくれてありがとう」
「すみません。暗い話につき合わせてしまって」
「ううん、聞いたのはこっちだからね」
アルトの心は千路に乱れていた。ラットキンへの憎しみはシンプルだ。奴らは地下でこの国の土台を蝕み、家族を奪った。その復讐のためなら、命を懸けてもいい。
だが、ラットキャッチャーと皇帝への感情は、絡まった糸のように解けない。
ラットキャッチャーには恩義がある。
あの夜、焼け跡で茫然とするアルトの心を救ったのは彼らだった。
煤けた顔で放心しているアルトに「お前、生き残ったなら戦え」と、黄コートを渡したあの時。あのごつごつとした手の感触を忘れたことは一度もない。
以来、彼らは仲間であり、師でもある。
だが、心の奥底では憎しみが燻る。
なぜ故郷を焼いたのか。別の道はなかったのか。
頭では理解している。
ラットキンの存在が知れ渡れば、帝国が土台から崩れる危険があった。
それでも、心は叫ぶ。あの炎は必要だったのか?
妹の笑顔を奪わずに済む方法があったはずだと。
皇帝への思いもまた葛藤だ。
帝国を守るため、ウィートランドを切り捨てた。
その冷徹な判断は、戦略的には〝正しい〟とアルトの頭は認める。
だが、灰の中から母の指輪を拾った瞬間、彼は皇帝を許せなかった。
帝国の礎たる穀倉地帯を、いや人々を。
全て焼き払う決断を下した男を、どうして許せるだろうか。
ミリアはマスクを顔に被せ、藍色の瞳をガラス板の奥に隠す。
「アルトくんの気持ちが理解できるとは言わないわ。私が何を言ったとしても、所詮他人だからね。でも、他人だからできることもあるでしょ?」
「そうですね。僕が間違えそうになったら、頼みます」
「うん。そしたらぶん殴ってでも止めるから」
言葉は勇ましかったが、彼女の声は少し震えていた。
「アルトくんの故郷が燃えたみたいに、私にも失ったものがある。
――それでも、前に進むしかないよね」
アルトは言葉なく彼女を見た。
ミリアの言葉にはただの同情とはちがう、深いものが宿っている。
彼女もまた、何かを背負っているのだろうか。
アルトは小さく息を吐き、苦笑した。
「ミリアさんも苦労されてるんですね」
「そりゃーもう? エルフが一人旅してるってだけでお分かりにならない?」
「あ、たしかに。」
その時だった。部屋のドアが軽く叩かれる。答えを効かずに開かれたドアの向こうから現れたのはジャックだった。
「お二人さん、準備は済んだ―? マスターの招集だよ、っと」
「あら、もう暗号がとけたの?」
「らしいよ? なんでもめんどくさーいコトになってるってさ。あ、武器持ってね」
「了解しました。行きましょう、ミリアさん」
「えぇ」
アルトはブランダーバスを肩に担ぎなおし、胸に手を当てた。革紐に吊られた母の指輪が、冷たく肌に触れる。故郷を焼いた者たちと共に戦うこの道は、矛盾に満ちている。それでも、彼は進む。ラットキンを滅ぼし、帝国を守り、二度とウィートランドのような悲劇を繰り返させないために。
ミリアの足音が背後で響き、彼は小さく呟いた。
「今は前へ進む。それでいいんですよね、ミリアさん」
「えぇ。アルトくんのことは私が後ろからちゃんと見てるから、心配しないで」
ランタンの揺れる炎に真鍮のキャップを被せて消す。
部屋を後にした二人の影は、暗い闇の中に混じり合い、溶けていく。
静かな影の中に新たな絆が芽生えていた。
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