償いの令嬢は、許される日をただ待っている
私は、罪を犯した。それは裁きを受けるほどのものではなかったけれど、それでもやはり、罪には変わりなかった。
だから私は、誰にも知られずに、ひそかに罪を償うのだと決めた。いつか許される、その日まで。
いつものように目覚め、身支度を済ませて部屋を出る。まだ薄暗い中、屋敷の廊下を迷うことなく進んでいった。
屋敷のすぐ外にある、質素な別棟を目指す。そこは、この男爵家に仕えている騎士たちの詰所だ。
この早朝の一時間だけ、そこは無人になる。騎士たちが屋敷の外へ、駆け足の訓練に出るからだ。
誰もいないことを確認してから詰所に忍び込み、武具がしまわれた部屋に向かう。棚に置かれた肩当てを手に取って、布でせっせと磨き始めた。
これが私の日課だった。誰にも見つからずに武具を磨く。そのためだけに、私はもう何年も早起きしているのだった。
その時、誰かの靴音が近づいてきた。手にしていた肩当てを元の場所に戻し、裏口からするりと詰所の外に出る。屋敷と外塀の間に広がる外庭を、音をさせないように気をつけながら歩き、詰所を離れる。
手近な茂みにもぐりこんで、そろそろと振り返る。見事な金髪の騎士が一人、詰所に入っていくのが見えた。抜け出すのがもう少し遅かったら、きっと見つかっていただろう。危なかった。
素晴らしい金の髪を持つ彼はケヴィン。私の家に仕える騎士の一人で、私の幼なじみ。
そして、私が償うべき相手だった。
あれは七年前、私たちがまだ十の年だった頃のこと。
私は男爵家の末娘で、家族みんなから可愛がられていた。あの頃の私は、何もかもが自分の思い通りになるのだと、そう思い上がっていた。
だからその日も、私はケヴィンと遊び回っていた。裁縫のおけいこを放り出して、二人きりで。
彼は私の家に仕える騎士の息子でしかなかったし、当主の娘の遊び相手として適切とは言えなかったけれど、私は彼のことをとても気に入っていたのだ。周囲の人間は、私がずっとケヴィンと一緒にいることをあまり良く言っていなかったけれど、そんな声はまるごと無視していた。
「俺も、父さんみたいに立派な騎士になるんだ! 母さんの形見の、この指輪に誓って!」
あの頃のケヴィンは、しょっちゅうそんなことを言っていた。首にかけた紐に通した、質素な指輪をかかげて。
小さな青い石がはまった指輪を、ケヴィンはこの上なく大切にしていた。とても優しい目を、その指輪に向けていた。
だからこそ私は思ってしまった。あの指輪が欲しい、と。
「ケヴィン、それ、ちょうだい」
「だめだよ。母さんの形見で、俺の宝物なんだから」
「私がお願いしてるのに、だめなの?」
「……うん。いくらハリエットのお願いでも、それだけは聞けない」
生まれて初めての拒絶に、私はすっかり頭に血が上ってしまった。無茶を言っているのは自分のほうなのだということに、気づくこともなく。
その頃のケヴィンは一日に一度、騎士たちに剣のけいこをつけてもらっていた。そしてその間だけは、あの指輪を身から放すのだ。それを知っていた私は、こっそりと指輪に近づいた。誰も近くにいないことを確かめながら。
そうして、小さな石で思い切り指輪を殴りつけたのだ。石をつかんだ手の下で、ぱきん、という澄んだ音が聞こえた。
急に恐ろしくなって、石をにぎったままその場を逃げ出した。指輪がどうなったか、確かめることもなく。
けれど、確かめるまでもなかった。それからずっと、ケヴィンは落ち込んでしまったのだから。元気で丈夫だった彼は、熱を出して一週間も寝込んでしまった。熱が下がってからも、彼は引きこもりがちになってしまった。
私は、彼を遊びに誘うのをやめた。悲しげな彼の姿を見るのが、苦しかったのだ。
そうして一人きりで、考え続けて。ようやっと私は、自分がしたことの意味に気がついた。それまでの自分がどれほどわがままだったのかも。
ケヴィンに償いたい。そう思った。けれど何をすればいいのか、分からなかった。自分がしたことを彼に打ち明けるだけの勇気も、まだなかった。
だから私は、彼の夢を後押しすることにした。立派な騎士になるという、彼の夢を。
といっても、子供にできることなどたかが知れていた。
見つからないように武具を磨き、彼の家に支給される物品にこっそりと良い物を忍ばせて。毎日寝る前に、ケヴィンの夢が叶いますようにと、ひたすらに祈った。
そんな行いに意味なんてないと分かっていても、そうせずにはいられなかった。それは幼い私にできた、精いっぱいの償いだったから。
やがて立ち直った彼は、騎士になるための訓練に励むようになった。そうして彼は、十四歳という若さで騎士となった。私の償いとは関係なく、彼は彼の力でその地位をつかみ取った。
けれど今も、私の償いは続いていた。彼が立派な騎士になるまで、終わることはない。それがいつのことなのか、私には分からなかった。
そんなことを思い出している間に、辺りからは人の気配が消えていた。
隠れていた茂みからはい出て、外庭をぐるっと一周して何食わぬ顔で屋敷に戻る。しかしどういう訳か、自室の入り口の扉の前でケヴィンが待っていた。
「おはようございます、ハリエットお嬢様」
子供の頃と変わらない、明るくさわやかな笑顔。今の私には、まぶしすぎる。
だからいつものように、無言で会釈した。彼の隣をすり抜けて、自室に戻ろうとする。そんな私に、彼がまた声をかけてくる。
「お嬢様、旦那様がお呼びです。俺はお嬢様を迎えに行くようにと命じられました」
ケヴィンは生真面目に、そう言った。礼儀正しいその声は、今でもとても温かで親しげだった。
できることなら、彼と離れていたい。けれどお父様が呼んでいるというのなら、そうもいかない。
仕方なく、彼にくるりと背を向けて歩き出す。お父様の部屋に向かって。
すぐ後ろから、ケヴィンの足音がついてくる。私は何も言わずに歩き続けた。彼も、何も言わない。
私が彼を遠ざけるようになってから、少しずつ私たちの関係もぎくしゃくしていった。今の私たちをつないでいるのは、ただの主従関係だけだ。
それが寂しい。本当は、彼と親しく話したい。でも、私にその資格はない。
「ここまででいいわ。あなたは早く自分の仕事に戻ってちょうだい」
「はい、ハリエットお嬢様」
だからそんなやり取りだけをかわして、彼と別れる。私はわざと冷ややかな声で話していたというのに、ケヴィンの声はやはり朗らかなままだった。
お父様との話し合いを終えて自室に戻り、寝台に横たわる。天蓋を見つめながら、ぼんやりとつぶやいた。
「私が結婚、かあ……」
話とは、なんと縁談だった。相手は数歳年上の子爵で、人当たりもよく見た目も麗しい。しかしあいにく、彼は今まで独り身だった。そんな彼が、たまたま私に興味を持ったらしい。
「聞いた感じでは、いいお話のようだったけれど……」
私ももう十七歳、そろそろそういった話が持ち上がる頃だと分かってはいた。でも、どうにも実感がわかない。
「でも、嫁いでしまえば、この屋敷を離れることになる……」
そうしたらもう、私はケヴィンに償うことができなくなってしまう。なんとも言えない辛さを抱えながらの日々がようやく終わる。嬉しいような、悲しいような複雑な気持ちに、口を閉ざして目を伏せた。
やがて起き上がり、頭を振る。もやもやとした思いを振り払うように。
「悩むだけ、無駄よね。……来るべき時が来た、それだけのことなのだから」
そう考えつつも、綺麗な金色が目の奥にちらついて離れなかった。ケヴィンの髪の、金色が。
縁談の相手、ジェラルド子爵はいい方だった。少なくとも私にはそう思えた。見た目の整った、気遣いのできる素敵な人で、彼と話しているのはとても楽しかった。
何度か彼と会い、この縁談を進めてもらうのもいいかな、と思い始めていたある日、ケヴィンがこっそりと私を呼び出したのだった。
「『ウサギの森の赤い木の下、月が出る頃に』……懐かしい言葉ね」
落ち着かないのを隠しながら、向かいに立つケヴィンにそう言う。
ここは屋敷のすぐ外にある小さな林だ。私とケヴィンは昔、よくここで遊んでいた。
ウサギがたくさん住み着いていたから、私たちはここを『ウサギの森』と呼んでいた。林の西側にあるひときわ高い木は、夕日を受けるととっても綺麗な赤に染まっていた。私たちはこの『赤い木』のそばで、よくあれこれとおしゃべりをしていたものだ。
だからあの言葉が書かれた紙切れを見た時、すぐに分かった。ケヴィンが私を呼び出そうとしているのだと。
行こうかどうしようかぎりぎりまで迷って、結局ここまでやってきた。そうしたら赤い木の下で、やはりケヴィンが私を待っていた。
「それで、一体何の用かしら」
できるだけ冷静にそう言って、ケヴィンを見すえる。彼の姿をまっすぐに見たのは久しぶりだ。
生き生きとした少年は、目を見張るほど立派な青年になっていた。
整った面差しはとても穏やかで、その目は昔と変わらずに力強く輝いている。騎士として鍛錬に励んでいるからか、その体はすらりと見事に引き締まっていた。
そういえば、屋敷のメイドたちが彼の噂をしているのをよく聞くようになった。ケヴィン様って、素敵な方よね。彼女たちは口をそろえてそう言っていた。
ジェラルド様よりもずっと素敵だな、とケヴィンに見惚れそうになって、あわてて気分を引き締める。私は、そんなことを考えてはいけないのだ。私は彼に償わなくてはいけないのだから。
「……お嬢様は、子爵様の、ジェラルド様のことをどうお考えでしょうか」
唐突に、ケヴィンはそんなことを問いかけてくる。どうしてそんなことを、と思いながら、短く答えた。
「いい方よ。あの方になら、嫁いでもいいと思っているの」
「駄目です!」
ケヴィンが声を張り上げる。生まれて初めて聞いた彼の大声に、思わず目をまん丸にして彼をまじまじと見つめた。
「どうして、そんなことを言うの? あなたは私の家に仕える騎士でしょう。私の縁談に、口を挟める立場ではないのよ」
「それは、分かっています。ですがジェラルド様だけは、駄目なのです」
いっそ悲壮ともいえる面持ちで、ケヴィンはゆっくりと語り出した。その内容に、絶句する。
ジェラルド様は独身だ。けれど彼には何人も愛人がいるらしい。しかも、その全員が平民だ。彼は夜な夜な平民のなりをして、愛人たちの家を渡り歩いているそうだ。
彼の屋敷のある町ではよく知られていることだが、町の人々はみな口を固く閉ざしているとかで、町の外では全く噂になっていないらしい。
「料理番の従妹の義理の母が、あの町にいるんです。おかげで、このことを知ることができました。……お嬢様、あの方にだけは嫁いではいけません」
思いもかけない事実に、私はただ混乱することしかできなかった。
ジェラルド様は見た目通りの素晴らしい男性ではない。そういうことなのだろう。ケヴィンはきっと私のために、わざわざジェラルド様について調べ、忠告してくれたのだ。
私が冷たい態度を取り始めてからも、変わらずに優しかったケヴィン。彼は今でも、私のことを気遣ってくれている。
涙が出そうなくらいに嬉しかった。けれど私は、彼の言葉には従えなかった。
いつか、彼は私のしたことを知ってしまう。そうしたらきっと、彼は私のことを嫌いになってしまう。憎まれるかもしれない。
私は罪を償うと決めた。自分に罰を与えると決めた。けれどそれでも、彼に真実を知られることだけは嫌だった。
だから一刻も早く、この屋敷を、彼のそばを、離れたかった。縁談がやってきたことで、私は自分がずっとそう思っていたことにようやく気がついたのだ。
けれど貴族の中でも最底辺の男爵家の娘である私に、手頃な縁談がすぐに舞い込んでくるとは限らない。
もしかしたらお父様は、私に婿を取らせて分家を継がせようとするかもしれない。そうなったら、ずっとケヴィンから離れられなくなってしまうかもしれない。
だから、未来の夫の女癖が少々悪いことには、この際目をつぶろう。そう判断して、ケヴィンに言い返す。
「愛人のいる貴族なんて、珍しくもないわ。どうしてあなたは私の縁談の邪魔をするの」
「ですが、あの方は本当に……貴族としての表の顔と、平民のふりをして町に繰り出している裏の顔が、まるで違っているのです」
ケヴィンは言い辛そうに言葉を濁している。どうやらジェラルド様の裏の顔は、品行方正とはとても言えない、かなりひどいものらしい。
でも、それでも構わなかった。ジェラルド様と結婚する、それが私の最後の罰になる。それでやっと、解放される。そんな気がしたから。
「話はそれだけかしら。だったら戻るわね」
素っ気なく答えて、彼に背を向ける。そのまま立ち去ろうとした時、いきなり腕をつかまれた。
「……君が不幸になるのを見過ごすなんて、そんなのは嫌だ!!」
子供の時と全く同じ口調で、絞り出すようにケヴィンが叫ぶ。その声は、とてもまっすぐで、私の胸をひどく打つものだった。
「先に、ジェラルド様のことを旦那様に話したんだ。でも『ハリエットが彼のことを気に入っているのなら……女癖が少々悪かろうと、私が口を挟むことではないしなあ』と言われてしまって……」
それも、仕方がないだろう。ケヴィンは、あくまでも使用人の一人でしかない。主君の縁者になるかもしれない者の悪い噂を強く言い立てるなんてことは、許されないのだ。
ゆっくりと、ケヴィンが私の前に立つ。私の腕を、しっかりとつかんだまま。その手は、明らかに震えていた。
「……どうか、聞かせて欲しい。君はジェラルド様のことを、愛しているのか。だとしたら俺は、このまま黙って引く」
ここは、うなずくべきところだ。でも私の口をついて出たのは、別の言葉だった。
「わたしは、不幸になるべきなの!」
その言葉が思いもかけないものだったのか、ケヴィンの手の力がゆるむ。
彼の手を振り払って、走り出した。屋敷に着くまで、私は一度も振り返らなかった。
三日後、またジェラルド様と会う機会があった。彼はやはりとても優しくて、紳士的だった。
けれどケヴィンに告げられた言葉は、まだ私の心に引っかかっていた。だから、勇気を振り絞って尋ねてみた。
「ジェラルド様には……誰か、心に決めたお方など、おられなかったのでしょうか。私が横から割り込んだのでなければいいのですが」
その問いに、ジェラルド様はひときわさわやかに笑って、首を横に振った。
「いいや、そんなものはいないさ。おかしなことを聞くお嬢さんだね」
「それでは……あなたの元に嫁いだら、あなたは私だけを愛してくださるのでしょうか」
「ああ、もちろんだよ」
彼の背後に控えていたメイドたちの表情が、わずかにくもる。けれどそれを見るまでもなく、私にも分かった。
ジェラルド様は、嘘をついている。彼は私を愛することはない。彼に嫁げば、私は間違いなく不幸になれる。ケヴィンに言い放った通りに。
過ちを犯し、そしてそのことを白状することすらできない私には、似合いの結末だ。
そう思いはしたものの、胸が苦しくてたまらなかった。涙をこらえるので精いっぱいだった。
それからの私は、ただぼんやりと日々を過ごしていた。少しずつ進んでいるだろう縁談の話に、目を背けて。
そんなある日、窓辺に小さな手紙が置かれていた。いつかケヴィンにもらったのと全く同じ字の、ほぼ同じ文面のものだ。指定された時刻だけが違っていて、『太陽が真上にきた一時間後』となっている。
それだけだったら、私はその手紙を無視しただろう。けれどその手紙には、驚くべきものが添えられていた。
古びた小さな指輪。そこにはまっている青い石は、ちょうど真ん中から割れたような形をしていた。そして紫色の別の石が、青い石に寄り添うようにして一緒にはめ込まれている。
きっとこれは、ケヴィンの母親の形見の指輪だ。紫の石は、きっとあの後に追加されたのだろう。私が割ってしまった、青い石の残り半分の代わりに。でも、どうしてこれが、こんなところに。
手紙に書かれた時刻まで、じっと指輪を見つめて過ごした。そうして刻限になると、私は指輪をしっかりとにぎりしめて部屋を飛び出した。
赤い木の下では、ケヴィンが待っていた。この前と同じ、優しい笑顔をたたえて。
「ケヴィン、これ……」
震える手で、指輪を差し出す。ケヴィンはそれを受け取って、ゆっくりうなずいた。
「ありがとう、君なら返しに来てくれると思った。少し形は変わったけれど、綺麗だと思わないか?」
戸惑いながらも首を縦に振ると、ケヴィンは黙って私を見つめた。それからゆっくりと、また口を開く。
「俺、考えてみたんだ。君の言葉の意味を。『不幸になるべきだ』なんて、どうしてそんなことを考えているのかを」
ケヴィンの青い目はとても温かく、まるで私を包み込もうとしているかのようだった。
「そうして、思い当たった。君は俺の指輪を壊してしまったことを、まだ気に病んでいるのかもしれないって」
どうして、そのことを。血の気が引いて何も言えずにいる私に、ケヴィンは優しく言った。
「君が指輪を壊したところを、たまたま見ていた騎士がいたんだ。彼は父さんにだけ、そのことを教えてくれた」
ケヴィンが目を細め、苦笑する。
「俺が知ったのは、一年ほど前かな。……俺がその事実を受け止められるようになるまで、父さんは黙っていたんだ。真実を知った時は、もっと早く教えてくれよって、父さんに詰め寄ってしまったよ」
私がしたことは、ずっと前に知られてしまっていた。恥ずかしさと恐怖に、頭が真っ白になる。
「え、ええ……あの、ご、ごめんなさい……私、愚か、だった……ずっと、後悔してた……」
必死に言葉をしぼり出す私を、ケヴィンは変わらず優しい目で見ていた。
「私……指輪がもらえなくって……かっとなって、あなたの大切な指輪を壊してしまった。だから、償いを……したかったの」
ずっと、胸の中にしまいこんでいた秘密。誰にも言えなかった言葉を、少しずつ口にしていく。
「でも、何をしたらいいのか分からなかった。だから……せめて、あなたの夢を支えようって……あなたが、立派な騎士になれるように、って……武具を磨くとか、それくらいしか、できなかったけど……」
「そうだったんだ。だったら、不幸にならなければいけないというのは、もしかして罰のつもりだった?」
泣きそうな顔で問いかけるケヴィンに、無言でうなずく。彼は、そうか、と小さくつぶやいた後、口を閉ざした。
それ以上何も言えずに、ただじっと彼の言葉を待つ。まるで永遠のように思えた時間のあと、ケヴィンが穏やかに言った。
「君は、気づいていた?」
突然の言葉に、何のことだろう、と面食らってしまう。ケヴィンはそんな私を見て微笑むと、懐かしそうな声で語り出した。
「指輪が壊れてから、君は俺を避けるようになっていただろう? そんな時君は、いつも辛そうな、ひどく悲しそうな顔をしていたんだよ」
そうだっただろうか。とにかくケヴィンの顔を見るのが辛くて、ひたすらに逃げ回っていた覚えしかない。
「……指輪が壊れたのはとても悲しかった。けれどそれ以上に、君が泣きそうな顔をしているのは嫌だったんだ」
ケヴィンは手のひらの上の指輪を見つめ、小声でつぶやく。
「でも、どうしていいか分からなかった。そうして毛布をかぶってめそめそしてたら、父さんがこの指輪を渡してきたんだ」
そう言ってケヴィンは、指輪を掲げる。子供の頃、私に見せてくれた時と同じように。
「割れた石の破片をつなぎ合わせて、そのまま戻すこともできた。けれどこうやって別の石を加えることで、この指輪はより素晴らしいものになった。死んだ母さんも、きっと喜んでくれるだろう。父さんはそう言ったんだ」
ケヴィンの母は、若くして亡くなった。きっぷのいい、肝のすわった豪快な女性だったのをよく覚えている。
「……それよりも、自分の指輪のせいで息子がいつまでもべそをかいていると知ったら、母さんは怒り狂うぞ。墓の下から、お前の尻を叩きに来るかもしれない。そんなことも言われてしまってさ」
その言葉に、思わず笑いそうになった。とっさに取りつくろったものの、ケヴィンにはしっかりと見られていたらしい。彼もくすりと、嬉しそうに笑った。
「壊れたものは、もう戻らない。だから嘆くのではなく、前に進みたい。俺は、そう思ったんだ」
そう言って、ケヴィンは私に何かを握らせてきた。手を開くと、そこにはあの形見の指輪があった。
「これ、君にあげるよ」
「えっ、でも、これ……」
驚いて指輪を突き返そうとする私を押しとどめて、ケヴィンは静かに言った。さっきまでとは違う、やけに真剣な雰囲気だ。
「ここからは、俺の独り言だ。気に入らなければ、忘れてくれていい」
私から視線をそらして、ケヴィンは語り続ける。その横顔は、私が知っているものよりもずっと凛々しく、大人びていた。
「俺は子供の頃から、ずっと君のことが好きだった。でも俺と君では身分が違う。だから俺は、騎士になることにした。それもただの騎士じゃない。王宮騎士に」
王宮騎士とは、各家に仕える騎士たちの中から特別に選ばれた存在だ。爵位こそないものの、下級の貴族と同等のものとして扱われる。それだけに、王宮騎士になるための試験はとても難しいのだけれど。
「そうすれば、俺が君に求婚することだってできる。……俺がずっと頑張り続けていたのは、そのためだったんだ」
求婚。思いもかけない言葉に、胸が高鳴った。それも当然だ。あんなことをしてしまう前の私は、ケヴィンのことが大好きだったのだから。
「でも、君はジェラルド様との縁談に乗り気なようだった。もし君が本気で彼を愛しているのなら、俺は身を引こうと、そう思っていたんだ」
何も言えずにただ指輪を握りしめる。彼は小さく笑って、目を細めた。ほんの少しだけ、自虐的な笑顔のようにも見えた。
「ちょうど、王宮騎士になるための試験にも受かったところだったし。どうあろうと、俺はこの屋敷を離れることになる」
さらに思いがけない言葉に、息を飲む。ケヴィンは相変わらずこちらを見ないまま、言葉を続けた。
「でも……ジェラルド様は、君を幸せにできない。そして君は、ジェラルド様を愛していない。だから俺は、どうしても君を止めたかった」
ケヴィンの青い目が、ゆっくりとこちらを向く。こちらを射貫くような強い視線に、身動きができない。
「だから俺は、その指輪を作らせた。割れてしまった青い石の、残り半分で」
「作らせた……?」
「ああ。よく見て、それは母さんの形見の指輪じゃない。職人に頼んで、君のために新しく作ってもらったものだ」
ゆっくりと手を開いて、その中の指輪をまじまじと見る。はまっているのは青い石の残り半分と、淡い桃色の石だった。それに、指輪本体に刻まれている模様も全然違う。
「俺は今ここで、正式に君に求婚する。まだジェラルド様との話もそこまで進んでいないから、今ならまだ、俺が割り込むこともできる。……君が望めば、だけれど」
「でも……私は……償いが……」
なぜか、彼の申し出をすぐに断れなかった。そんな私に、ケヴィンは穏やかに声をかけてくる。
「君の償いは、もう終わったよ。指輪はより良い姿になり、俺は立派な王宮騎士になる。七年、君は苦しんだ。だから、もういいんだ」
「終わった……の?」
「ああ、そうさ。だからどうか、自由になってくれ。君の生きたいように、生きてくれ」
とても優しい声で、ケヴィンが言う。その凛々しい顔には、頼もしい笑みが浮かんでいた。
そっと視線を落とし、もう一度指輪を見つめる。それからおそるおそる顔を上げて、ケヴィンを見た。
「……わたし、は……」
持ってきた荷物を全てしまい終えて、部屋を見渡す。今日からここが、私の新しい自室だ。
「それでは、私は失礼いたします。また明朝参ります」
そう言って、中年女性が静かに立ち去っていった。私が一通りの家事を覚えるまでは、通いのメイドである彼女が頼りだ。
「掃除に、洗濯、食事の準備……覚えることは多いわね」
けれどそれは、決して嫌なものではなかった。罪を償うためだけに生きてきたあの日々より、ずっといい。
浮かれたような、そわそわするような気持ちに突き動かされるように、台所へ向かう。生まれ育った屋敷のものよりずっと小さなそこには、いい香りがうっすらと漂っていた。
火の消えたかまどに近づき、そこにかけられたままの鍋をのぞき込む。
野菜と肉を切って煮て、味を整えただけの簡単なスープがそこに入っていた。さっきのメイドに手伝ってもらって、生まれて初めて作った料理だ。もう冷め始めていて、油が表面に浮いている。
「もう、帰ってくる頃合いだと思うけれど……そろそろスープ、温め直したほうがいいかしら」
一応、火のおこし方は習った。でも、一人でできるだろうか。このスープは冷えたままでも十分に美味なのですと、メイドはそう言っていた。
いいや、やらなくてはならない。私たち二人の最初の夕食なのだから、少しでもおいしく食べてもらいたい。
メイドに教わった手順を思い出しながら、ぎこちない手つきで作業を進める。
「これをこう組んで……あとはここに、これを乗せれば……」
かまどの前にひざをついて薪とたきつけを組み上げ、それから火種をたきつけにそろそろと乗せる。その時、ぱちんと火花が跳ねた。驚いて体をそらした拍子に、後ろに転びそうになる。
「危ないよ、ハリエット」
すぐそばで、ケヴィンの声がした。どうやら彼は、転んで尻もちをつきかけた私を、後ろから支えてくれているらしい。
「あ、えっと、おかえりなさい」
「ただいま。それより君は大丈夫? 火は危ないから、気をつけて。慣れるまでは、一人でやらないほうがいいかもしれないね」
自分は火一つまともにおこせないのかと悲しくなってうつむくと、後ろのケヴィンが優しく笑った。
「今日の夕飯を温め直そうとしてくれたんだね? 嬉しいよ。ああ、いい匂いだ」
いつの間にやら、たきつけはゆっくりと燃え始めていた。スープが温まっていき、とてもいい匂いが台所に満ちていく。
私はそのさまを、ケヴィンに抱きかかえられたまま見守っていた。
あの日、私はケヴィンの求婚を受け入れた。もう許されてもいいのだと、もう幸せになってもいいのだと、そう思えたから。
両親にそのことを報告に行くと、お父様は驚きに目を丸くしていた。
けれど、お母様は明るく笑って「やっぱりこうなったわね。まさかケヴィンが本当に王宮騎士になってしまうなんて、思いもしなかったけれど」と笑っていた。
どうやらお母様は、ケヴィンの思いに気づいていたらしい。ケヴィンもほんのちょっと照れくさそうに、そしてそれ以上に誇らしげな顔で微笑んでいた。
そうして無事にジェラルド様との縁談を白紙に戻し、私は家を離れる準備を始めた。
今の私は、ケヴィンの婚約者だ。王宮騎士となるにあたって私の屋敷を離れる彼と一緒に、城下町に移り住むことにした。
私に甘い両親は、私たちの新居として屋敷を丸一軒買おうとした。けれどそれは断って、二人で住むのにちょうどいいくらいの小さな家を探してもらった。
ケヴィンが私のために王宮騎士になったように、私もケヴィンのために変わりたい。王宮騎士の妻として恥ずかしくないような、一人前の女性になりたい。
だからせめて、家事くらいはきちんとこなせるようになりたいと、そう思ったのだ。こんなことしか思いつかない自分のことが、ちょっぴりもどかしい。
「君、また料理の腕を上げたね。毎日君の手料理が食べられるなんて、俺は幸せ者だなあ」
ケヴィンは今日もそう言って、焼いた肉を嬉しそうに頬張っている。
けれど、あれはそこまでおいしくないはずなのだ。肉は少し焼きすぎてしまったし、つけ合わせの野菜は少々煮崩れている。
練習のかいあってどうにか一人で家事をこなせるようにはなったものの、まだまだ失敗だらけだ。
けれどケヴィンは、一度も私を責めない。それどころか、褒められてばかりだ。
私の家族は、みんなして私に甘い。そしてケヴィンも、私に甘いようだった。
「……毎日笑顔で手料理を食べてくれる人がいる。幸せ者は、私のほうよ」
小声でそうつぶやくと、ケヴィンがひときわ嬉しそうに笑った。
なぜか泣きたくなって、ごまかすように肉を一切れ口にした。
やっぱり、ちょっと硬かった。
そんな風に二人で暮らしていたある日、実家の両親から手紙がきた。
手紙を開いたとたん、家事はつらくないかい、いつでも屋敷を買ってあげるから、たくさんメイドを送り込んであげるから、遠慮せずに言うんだよと、そんな言葉が目に飛び込んでくる。
なんだかんだ言って両親は、私がケヴィンと暮らすこと自体は心配していないらしい。二人とも元気で、仲良く暮らしなさい、としか書かれていない。
微笑みながら手紙を読み進め、そして身をこわばらせる。そこには、ジェラルド様のことも記されていたのだ。彼は今、とんでもないことになっていた。
彼は愛人同士の喧嘩を止めようとして刺されたあげく、その事件が元で遠くの田舎に飛ばされてしまったのだそうだ。当主の座も、他の者に譲る羽目になったらしい。
もし私が彼のもとに嫁いでいたら、一緒に遙か遠くへ行く羽目になっていただろう。あるいは、喧嘩に巻き込まれて怪我をしていたかもしれない。
両親も『あんな男のところにお前をやらずに済んで良かった』と、ほっとしているようだった。
手紙を読み終えても、私は身動きできなかった。
私は今、幸せだ。けれどこの幸せは、何かがほんのちょっとでも違っていたら、きっと存在しなかった。そのことを実感してしまい、身震いしながら視線を落とす。
手紙を持ったままの、私の手が目に入る。その指には、青と桃色の石がはまった指輪が輝いていた。
私は求婚されてからずっと、この指輪を大切にはめていた。私の過ちと、その償いを忘れないために。そしてケヴィンと幸せになるのだという決意の証として。
しばらく指輪を見つめ、立ち上がる。笑みを浮かべながら、台所に向かっていった。
「さあ、今日の夕食の支度をしなくちゃ。ケヴィンがもっともっと立派な騎士になれるように、おいしくて栄養のあるものを作るんだから」
ぱたぱたという自分の足音が、軽やかに響く。七年分の重苦しい気持ちを、吹き飛ばすように。
読んでいただいて、ありがとうございました。
下の星などいただけると、今後の励みになります。
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