第50話 この身と命と聖十字にかけて
底なしの悪意の真正面に、マシューの攻撃から子供たちを庇うために、アンナはマシューの前に立った。
「もう……止めてください」
アンナは死ぬかもしれない恐怖に必死で耐えながら、毅然とした声をマシューに叩きつけた。
「よせシスターアンナ! 話の通じるやつじゃない!」
マシューはこの期に及んで、アンナの言葉を虫からの足掻きとして楽しみ、いつでも殺せるにも関わらず、どんな言葉が出るかを待っていた。
「私は神の僕として、あなたに命じます。その人々を解放してください」
アンナは、神への敬虔さや、どこまでも人のためを想う生来の優しさから、ダイモーンの全霊顕現がいかに邪悪な構造で形作られているのか、マシューが自らの鎧としている霊魂が、生前どんな恐怖を味わったか、どんなに苦痛に満ちた死を迎えたか、どんなに人としてただ幸せに生きたかったを、直感的に理解していた。
「神の僕……?」
首をコキリと傾げたマシューは、次の瞬間、空気が震えるような笑い声を上げた。
「フハハハハハハ!! 俺の前に出てきて大真面目な顔でそんなことを言う愚者がまだこの世にいたとはな!」
アンナに指を差したマシューが、ここぞとばかりに神と聖十字教に対する悪意を、賢しらに並べ立てる。
「貴様の主がいったい何をしたか! 人間を信仰で支配し、人間の心を恐怖で蝕んだ! 人を魔女として焼き殺し、死後の尊厳すら踏みにじることを是としたのだ! そして殺戮に殺戮を重ねた果てに、ジャンヌという魔王を生み出した!」
アンナは反論すらしようともしない。
「空虚で醜悪な、何の役にも立たない、家畜以下の存在である神を、未だに本気で信じているとは……今のお前を見ると、腹の底から笑いが止まらん」
マシューの前に立っても、信仰を嘲笑われてもなお、アンナは臆することなく、立ち続ける。
「知っていますよ。かつて、神の名の下にどれほどの血が流されたか……」
弱々しくも、はっきり聞こえる声を、アンナは喉の奥から絞り出した。
「それでも……それでもなお……私は聖職者ですから、聖十字と、この身命にかけて」
その声音が慈悲と決意の色に染まっていく。悪霊となった人間の霊魂への想いが、無意識の内に、一筋の涙となり、頬を伝った。
「一人でも多く、救ってみせます」
アンナがひざまずき、祈りの姿勢をとった。マシューの前に、完全に無防備な姿を晒したが、攻撃がくることはなかった。それどころか、マシューのマナが少し減ったようだった。
「!? 身体が動かん……」
マシューの体表から、黒い人魂が、悪霊が出てきた。自分たちと同じ時代の修道服を着ているシスターアンナの姿を見て、悪霊たちは救われると思い、表に出てきた。彼らはどこかで尾ひれのついたジャンヌの噂を聞き、真の救済を信じていた。裁きから逃れ、生き延びた魔女がどこかにいると、希望を持っていた。
彼らを魔女として殺し、悪霊へと変えたのは、確かに当時の聖職者だった。しかし、ただ純粋に、悪霊となった人間が生前味わった、恐怖と苦痛を想うアンナの祈りと涙に、悪霊たちが救いを見出した。永劫続くと思われた魂の幽閉が、死後も続く苦しみが目の前の修道女の祈りによって終わると信じ、害意を持たずに、アンナの下に集まった。
「邪悪には屈しませんよ。私たちは……!!」
他の悪霊たちもつられて反応し、次々と出てくる。ダイモーンの力の根源である負の感情が一時的に薄れたことによって、マシューの体の動きも制限された。
ダイモーンの全霊顕現を倒す活路は、敬虔なシスターアンナの祈りにあった。ジャンヌに下らぬ儀礼と唾棄され、レラージェに激しく拒絶された祈りこそが、マシューを倒す活路を切り開くものであった。
「カス以下の偽善者の分際で……!! 私の道具に手を出すんじゃない!!」
体が動かなくなった理由を知ったマシューは、すぐさま自らのマナで強引に表に出た悪霊を支配し、引っ込ませた。マナを放つのではなく、直接叩き潰そうと、マシューは拳を振り上げる。
「その信仰ごと潰れて死ね……!!」
アンナの頭上に、すり潰されそうな殺意が降ってきたが、マシューの拳自体は、振り下ろされなかった。
「今だっ!!」
矢のようにマシューの横から飛んで来たモラクスが、その勢いを乗せた飛び膝蹴りで、マシューを大きく吹き飛ばした。
期せずして、それと同時に、アンナに思い切りぶつかり、一緒にもみくちゃになって転がる人影があった。
「あんな化け物みたいなやつの前に出てくるなんて、馬鹿じゃないの!? あれだけの霊を全員成仏させるのに、一体何日かかると思うの!?」
攻撃はこなかったが、アンナの命を助けるため、マシューから強引に引き離そうとした、エリザだった。
エリザは一目見ただけで、マシューの凶悪さを本能的に感じていた。ジャンヌとその配下と違い、女子供でも、非戦闘員でも、自分の目的の邪魔となるなら容赦なく殺そうとする、悪意と暴力の線引きの無さ、その危険さを瞬時に感じ取った。ゲロすら吐きそうな感覚があった。
アンナを馬鹿と罵ったが、アンナを助けるためには、エリザもマシューの前に出るしかなかった。根源的な恐怖で竦む身体を、必死で動かした。アンナと違い、マシューの前に立ったわけでもなかったが、それでも、心臓が握りつぶされそうな感覚を覚え、息を荒くしていた。
「ありがとうございますエリザ。でもエリザも私のために、馬鹿になってくれたんですね」
「うるさいわね!」
そんな会話を背後に残しながら、モラクスはマシューを相手に、身体を限界まで酷使していた。
モラクスは既に雷血流になっている。このまま一気に勝負を決めるつもりだった。雷血流の超スピードでマシューに一瞬で追いつき、モラクスは怒涛の攻撃を浴びせた。
『行けるぞモラクス! やつはさっきのシスターの祈りによって全霊顕現の強度が著しく低下している! このまま一気にとどめを刺す!』
モラクスの体は今、ベオウルフの補助によって、半ば糸で操る人形のように、無理矢理動かされている。その状態でもなお、雷血流で強化した竜闘気による、猛連打を浴びせる。拳、肘、足、膝、頭突き、使える部位全てを総動員して、マシューを追い詰めていく。
「くたばれっ……!!」
しばらく連打を続けた後、渾身の力を込めて、拳を繰り出し、そのままマシューの胸を打ち抜こうとした。
しかし、寸前で拳はかわされ、マシューは上空に逃げた。
「もう充分だ……! 俺の天敵がいるとわかった以上、もうどうでもいい! この島ごと完全に消し飛ばしてやる!」
マシューが荒く息をしながら、闇色のマナの光球を作り出した。どんどん球は大きくなっていき、これまでの光球よりもはるかに巨大になっていく。
「あと少しだったのに……! セコイ真似しやがって……!」
怒りの形相で奥歯を噛み締めるモラクスに、ベオウルフは冷静な声をかける。
『モラクス、俺の全てを賭けた轟竜波を撃って、あのデカいのを迎撃する』
モラクスは初耳ではあったが、二人がこれまで同調して闘ってきた故に、二人のマナも同調し、一瞬で轟竜波のイメージが共有された。
轟竜波とはベオウルフの必殺技である。竜闘気を手に凝縮させて、一気に放出させる技である。
「ホントにそんなことができるのか!?」
モラクスはいつしか、ベオウルフと念で会話することを忘れていた。
『だが、そうすれば、魔装としての俺は粉々に砕け散るだろう』
「……!!」
『憐れむなよモラクス、元々、降って沸いたような二度目の生だ。こうやって、生前と同じように、誰かを守るために死ねるなら本望だ……構えろモラクス! 俺の全力を乗せて轟竜波を放つ! お前も気張れよ!』
「……よしわかった!」
覚悟を決めた男の前には、同情も憐れみも必要ない。モラクスは大きく頷いた。
ベオウルフが魔装となってから放つ、最初で最後のとびっきりの轟竜波だった。
マシューを見上げてながら、モラクスは、両手を腰の辺りに構え、闘気を集中させた。そこに、ベオウルフの強烈な竜闘気が上乗せされる。
『魔装として俺は散々、俺の意志は抹殺されてきたが、最後に、お前に出会えてよかった』
さらに雷血流を強くし、轟竜波を放つための闘気を強化する。
『お前と最後に、守るための闘いができてよかった。王として、英雄として相応しい闘いを与えてくれたお前には、幾ら感謝しても足らない』
マシューの光球の巨大化が止まった。
「消えてなくなれ……!!」
光球が、放たれる。
『モラクス、お前は生きろよ』
「ああ……!!」
モラクスの返事に、ベオウルフは大いに満足した。
ただ守るべき者の平穏のために、果敢に、恐れずに死に向かう英雄の姿がそこにあった。
『「轟竜波!!」』
二人の裂帛の掛け声と共に、巨大な竜闘気が放たれる。真っ直ぐ進んだ竜闘気は、マシューの放った闇色の球とぶつかった。
天地が割れるような衝撃と、物凄い音が島中に響き渡る。巨大な球体と、太い竜闘気が、大気を揺らしながらせめぎ合う。
「絶対に……!! 絶対に押し返してやる……!!」
モラクスの腕が、巨大な球との撃ち合いに、莫大な重量を感じ、感覚がなくなっていく。
「貴様ごときに……奪わせてたまるかぁあぁああ!」
それでも身体中の力を必死に振り絞り、ベオウルフと同じように全てを込めて、マシューの放った黒い球を、押し返した。
「お……押し返しただと……!?」
撃ち合いに負けた分、巨大な球の威力も上乗せされ、ベオウルフが命をかけて放った轟竜波が、マシューを飲み込んだ。
「ぐおおおあああああァァァアアアア……!!」
マシューが汚い悲鳴を上げ、竜闘気に、ぶち当たる。その悲鳴は存外長く、雷鳴のようにガリア島の空に響き続けた。
「はぁ……! はぁ……!」
モラクスの身体が限界を迎え、肩で息をしながら、うつ伏せに倒れ込んだ。雷血流の反動もあり、地に伏せたまま一瞬で気を失った。ベオウルフも、役目を終えたかのように、粉々に砕け散った。
「ここまで……私が……追い詰められるとはな……」
それでもマシューはまだ生きていた。だが、ベオウルフとモラクスの轟竜波によるダメージは大きく、身体がところどころ溶解したように傷ついている。モラクスを自分の手で直に殺すため、ガリア島に降り立ち、モラクスを見下ろす。
モラクスはマシューが完全に死んだかどうかを確かめずに気絶していた。
「う……!? やめろ……! まずい……! 貴様が……貴様が出てきてはならん……!」
マシューが大ダメージを負ったことで突然、苦しみだし、腹と頭を抑え出した。
苦しみながら、マシューは何か、小さいものを吐き出した。その何かは、マシューの身体から離れると、人の形になった。
「グリム……!?」
モラクスとマシューを追ってきたジャンヌが、吐き出された人の形を見て、驚愕の表情を浮かべながら呟いた。
ジャンヌだけでなく、レイン、ジーク、ボルクスまでもが驚いている。全員がグリムの顔を知っていたのだ。ジークフリートは、死後の魂を一度ヴァルハラに導かれ、そこでグリムゲルデと知己の中になっていた。
グリムが吐き出された勢いのまま、地面を転がり、静止する。
そこに、マシューが尋常ではない慌てようで、すぐにグリムに襲いかかった。
なぜグリムが出てきたかはよくわからないが、マシューにグラムを始末させるわけにはいかない。
四人がグリムを助けようと、走り出したが、グリムからもマシューからも遠かった。
「貴様の力は惜しいが、やむを得ん。ここで死ね……!」
マシューの魔の手が迫るその瞬間、グリムの瞼がパチリと開かれる。
「ボケエェェーーーッ!!」
グリムが絶叫と共に目覚め、身体を起こしながらマシューに強烈な裏拳を食らわせた。
「よくもこの私をあんな暗くて狭くてジメジメした場所に何百年も閉じ込めてくれやがったわね!!」
グリムはその魂の強靭さ故に、マシューに飲み込まれても、悪霊にならずにすんでいた。
「グリム……!!」
数百年ぶりの再会で、全く変わらないグリムの躍動を見たレインとジャンヌは、胸が熱くなった。
「レイン! ジャンヌ! ジーク! 地元の人! 久しぶりだけど話は後よ! この外道が食いものにした人間の霊魂、全部丸ごと引っぺがすわ!」
アンナの祈りがもたらした第二の活路、ヴァルキリーの中でも指折りの実力を持つグリムが、今ここに復活した。




