第48話 怨恨纏いし悪霊王
海底が大きく激しく上下に揺れた。モラクスの靴底がマシューの腹を強く圧迫し、ぐしゃぐしゃにする。マシューは前の飛び蹴りと今の踏み付けで明らかに負傷し、血反吐のように黒い液体を吐いた。自分が受けた致命傷を、ストックした悪霊を身代わりにして回避することが出来るマシューに、モラクスの攻撃は明確にダメージを与えている。
「ぐうぉあああああアアア!!」
「貴様のドブのような魂の息吹も今日までだ」
マシューの血反吐が顔面にかかってもまばたき一つすることなく、モラクスはマシューの苦悶している顔に、容赦なく拳を振り下ろした。
「がばっ……!!」
力を溜めて、全体重をかけた拳が、隕石のように降り、マシューの顔面の形を歪ませ、血が喉奥に引っかかった呻き声を出させた。海底が地響きのように揺れる。
海水が、モラクスの足元を濡らす。モラクスの攻撃によって穿たれた海が、元の形に戻って来た。海中に取り残されないように、モラクスはマシューを海底に残して上に飛んだ。
露わになっていた海底が海水に飲み込まれ、マシューの姿とともに完全に見えなくなった。
その様子を静かに見るモラクス、その眼前に、マシューが海中から浮かび上がって来た。顔面から血を流しながら、モラクスを厄介とみなして、睨んでいる。
「俺の攻撃を前に、命のストックは無駄だ。貴様が悪霊を何百人、何千人、抱えていようと、そいつらを身代わりにはできん。俺はお前の魂に直接干渉することができる……」
モラクスは元々、自我に目覚めたボルクスの力の一部で、実体がなかった。ボルクスの身体から生まれた、ボルクスではない魂である。そんな特殊な出生故に、魂に直接干渉するという能力を、生まれ持ったのだった。
「かつての戦乙女と似たような能力か、だがそれだけで勝った気になるのは自惚れがすぎるぞ」
「俺がやりたいのは、勝ち負けを決めるような闘いじゃない……」
モラクスが顔に悪意を滲ませながら、手の平をマシューに突きつける。
「一方的な蹂躙だ……!!」
モラクスが、手の平から大きな雷の球を放った。そのまま凄まじい速さで、真っ直ぐ進んだ雷の球は、マシューの身体をすっぽりと飲み込んだ。
「苦しめ……!」
モラクスが、手の平を握りしめる。すると雷の球が、激烈な雷光と雷鳴を出して、中にいるマシューを言葉通りに苦しめた。
「ギィアアアアアアアアア!!!」
「便利なことに魂にも痛覚はあるようだな。貴様を甚振るのはさぞかし愉快だが、貴様が手駒にした悪霊達……いや、霊魂達が生前抱えた苦痛には到底足らん」
激しい雷に焦がされていくマシューを、モラクスは満足そうに見つめる。
「もっと悶えろ……! もっと血反吐を吐け……! 豚のような声を上げて哭け……! それが魔女狩りの犠牲者への、何よりの慰霊だ……!」
雷の威力がだんだんと、強くなっていく。眩しい雷光の中、マシューは苦しみながらも、口から悪霊の群れを吐いた。
モラクスが雷を止める。黒い泥の津波のような悪霊の群れは、モラクスの姿を完全に飲み込んだ。
「フハハハハハ! 生前抱えた苦痛? お前もやはりジャンヌと同じで、吐きそうなほどに甘いことを言う! その甘さ故にお前は悪霊をどうあがいても倒せんはずだ! 悪霊の因果を知っているのならなぁあ!! 二度目の死を迎えた魂がどうなるかなぞ、誰にも分からん!」
悪霊の群れが、体中に噛みついてくる。しかし、モラクスはこれといって抵抗せずに、何の戦意も持たずに、ただ自分の視界を埋め尽くす人間の霊魂を見た。その目には、悪魔とは思えない、憐みの色があった。
自分の身体を飲み込む大量の悪霊は、彼らは、憎悪や怨嗟の塊ではない、かつてはただ、人として、自分の人生を、懸命に生きようとした、純粋な人間だったのだ。彼らを雷で消滅させることはできる。だがそれは、苦しみを終わらせる救済なのか、魂を打ち砕く抹殺なのか、モラクスにはわからない。
「中途半端な理想を持って闘うからそうなる。せいぜいもがいてろ」
マシューが吐き捨て、悪霊の群の上を通り過ぎ、ガリア島に向かった。しかし、その途中で背中が砕かれるような衝撃を覚え、海上を吹き飛ぶ。
なんとか空中で静止したマシューが後ろを振り返ると、拳を固く握りしめたモラクスがいた。悪霊の群れは何処にも見当たらない。
「悪霊が消滅した気配はない……まさか……!?」
マシューの動揺を、モラクスは薄く笑う。
「飲み込んだ」
マシューは知らぬことではあるが、モラクスは父ゼウスに近い力を持つ。ゼウスは知恵の神メティスを飲み込んだという話がある。モラクスも似たようなことができて、悪霊を一切傷つけることなく腹の中へと封じたのだった。
「悪霊はどす黒い負の思念の塊だぞ!? ダイモーンでもないお前が、何の術も用いずにただ飲み込んで、無事だとでもいうのか!?」
「見てわからんのか? 俺はこんなにもピンピンしている」
「貴様を殴り倒せるほどにな」と静かに殺気を放ちながら、モラクスは殴りかかった。マシューは両手両足にバルベリトを装着し、二人は殴り合いを始めた。
竜闘気? とモラクスは口の動きだけで呟いた。竜の血をその身に浴びた者が発することのできる、強力無比な闘気、それをバルベリトが纏っている。
魔装バルベリトを身に付けたマシューは、モラクスと互角の近接戦を繰り広げた。バルベリトがマシューの基礎的な身体能力を大幅に強化している。膂力、拳と蹴りのキレがなどが段違いで、装着前とはまるで別人だった。
バルベリトは悪魔の身体を素材として加工した武器だと、マシューは言っていたが、バルベリトと、直に触れ合う内にモラクスは理解したことがある。バルベリトは悪魔といっても、魔霊、つまりは元々は英雄なのだ。
元は人を守った英雄が、悪魔として召喚された上に、物言わぬ魔装にされる。冒涜と呼ぶべき、卑劣で陰険さに満ちた、おぞましい行為だった。モラクスは、バルベリトをマシューから引き剥がすことに決めた。
モラクスはマシューの拳を受け止め、もう片方の拳も受け止めた。手四つの状態になった瞬間、マシューの顎を膝で蹴り上げ、強烈な握力で強引に、バルベリトをマシューの両腕からすっぽ抜く。
驚くマシューに頭突きを喰らわせ、後ろに吹き飛ぼうとする身体の両足を掴む。吹っ飛ぶ勢いを利用して、そのまま強引に両足のバルベリトも、引き剥がした。
その瞬間、バルベリトが独りでに動き、モラクスの両手両足に装着された。唐突に起こった現象に、バルベリトの着いた両手両足を見つめながら、モラクスは目を丸くした。
だが自分のものではない力が、強力な闘気が身体の内から湧いてくるのを感じ、この現象の原因も理解した。バルベリトの英雄としての名前も、頭の中に鮮烈に響く。
「どういうことだ……? バルベリトがこうも勝手な動きをするとは……」
「バルベリトじゃねえ、元の名前はベオウルフだ」
ベオウルフが本当の自分の名前を呼ばれたことに反応し、モラクスの両手両足が勝手に震えた。
『この時代に俺の本当の名前を呼んでくれる人間が現れるとはな、おかげでこうしてお前に語りかけることができたぞ』
喋った!? と心の中で動揺し、ベオウルフを見た。どうやらベオウルフが喋る時はカタカタと一人でに震えるらしい。
『ああ、言葉や名前ってもんには不思議な力がある。俺の声はお前にしか聞こえん。力を貸すぞモラクス。魔装としての俺を遠慮なく使え。あの男にはこれまで散々利用されてきた。今ここで必ずツケを払わせてやる……!!」
モラクスの頭に響いたベオウルフの口調には、並々ならぬ思いが込められていた。今、その思いに応えられるのはモラクスだけだ。
『なるほど……なら俺もあいつには聞こえんように、こうやって念で会話した方がいいな。ベオウルフ、この助太刀、本当に感謝する』
『よし! 共に闘うぞモラクス! あの男を生かすのはこの世の道理に反することだ! この俺の竜闘気、存分に使わせてやる!』
英雄としての意志が、なさねばならないのことの認識が、モラクスとベオウルフの間で一致した。モラクスの闘気の量がベオウルフの闘気と合わさり、桁違いに跳ね上がる。
「私以上にバルベリトを使いこなすか……だが、無駄だ」
近接戦でモラクスに勝てる要素を失ったどころか、敵の手に渡っても、マシューは不吉な笑みを浮かべた。
「今さらお前がどうあがいたところで、私は止められんよ」
マシューがモラクスを指差し、指の先端が妖しく光った。何かの攻撃かと思い、モラクスは警戒したが、指先からは何も飛び出さなかった。
攻撃ではなく、何かの映像がモラクスの頭の中に送られてくる。
誰かの視界のようだった。景色には見覚えはあり、場所は恐らくガリア島だった。視界の主は走っている。走りながら、子供の背中を追っている。子供が転んで、こちらに顔を向けてきた。その表情から、視界の主が子供を襲っているのだと、モラクスは感づいた。子供の怯えが一際強くなった後、視界がぶつりと消え、元のモラクスの視界に戻る。
「お何をした……?」
子供がマシューの悪意に晒されていることに、モラクスは静かに怒りを覚え、刃のような殺気を放つ。
「私がガリア島の住民に憑依させ、他の人間を襲わせている悪霊の視界を、お前の脳に送りこんだ」
マシューは自分の頭を指し、モラクスに白い歯を見せた。
「私はな……今の時代に魔女狩りを復活させたいんだ。モードレッドから民間人の避難を任された際、表向きは命令を遂行しながら、バレないように悪霊を憑依させた。悪霊は取り付いた人間を言葉も意志も通じぬ異形の怪物へと変え、周囲の人間を誰であろうと、どれほど親しかった人間でも、無差別に襲う」
ひけらかすかのように語るマシューの言葉に、モラクスは目の色を変える。目の前の男を、改めて殺さなければならないと再認識した。
「本来ならモードレッドとジャンヌの勢力が共倒れになってから実行し、高みの見物をするつもりだったが、お前の存在自体が本当に予測不能だった」
肩をすくめるマシュー、モラクスがいなければ、自分の計画は何の滞りなく進んでいたのに、と無条件で信じているような挙動だった。
「生き残った人間は、私が悪霊を使ってこの騒動を引き起こしたとは死んでも気づかないだろう。ただ突然、昨日まで隣にいた人間が怪物と化したとしか、理解できんのだ。家族、友人、知人、隣人が何の前触れもなく唐突に怪物と化す……その恐怖に人間どもはいつまで正気を保っていられるかな……?」
モラクスが、ぎりと奥歯を噛みしめる。
「次は誰だ……? どいつが怪物になるんだ……? 人間どもは、俺が植え付けた恐怖を、自らの疑念によって際限なく肥大化させ、やがてかつての魔女狩りのように殺し合いを始める! この島の後は、本土の村や町でも同じことを繰り返し、やがて聖都すらも阿鼻叫喚に染めてやる……!」
余りにも邪悪さと、冒涜的な発想に満ちた計画だった。この男をこれ以上、断じて人の世に生かしておいてはならない。モラクスがそう心に強く刻む。
「させると思うのか、この俺が……」
モラクスが、両手を握りしめ、力を込める。
「私を倒したところで、悪霊は人間を襲うのを止めん。それどころか、統率を失ってより激しく人間どもを、襲い掛かるだろうなあ」
皮肉な笑みを浮かべるマシューの顔面を、モラクスは一瞬で距離を詰めて殴り倒す。
「だとすれば、なおさら貴様をいち早く、この世から完全に消滅させねばならん。お前を最速で倒してガリア島に戻り、住民を守る。それが今俺がなすべきことだ。さっきの話を聞いて俺の殺意が収まるとでも思ったか愚か者……!」
モラクスがベオウルフの着いた両手両足全てを駆使して、マシューの身体にダメージを重ねていく。
マシューがモラクスに言ったことには、嘘も混じっていた。マシューが死ねば、残された悪霊は少なくとも人間を襲うことを止める。悪霊はマシューの命令に機械的にに従っているだけで、統率を失えば動きが止まる。
悪霊が実体化して、他の生物や物体に干渉、人間に憑依するには悪霊王ダイモーンの力が必要であった。マシューの言ったことはモラクスの動揺を誘い、隙を作るためのブラフだった。
「一刻も早く貴様の存在全てを完全に打ち砕いてくれる!」
「こいつっ……!」
苦しい顔をしながら、マシューは何とか、モラクスの重い一撃をかわした。
モラクスの判断は間違ってはいない。マシューに冷や汗をかかせるには充分な、決断力と実行の速さであった。
「確かに認めよう、今の俺ではどうしてもお前に勝てんようだ」
ボロボロになりながら、マシューが笑う。強がりではない、自分の強さに絶対的な自身がある、強者の笑みだった。
「故に見せてやろう……! 魔女狩りの時代の総てを支配したこの俺の真の力を……! 悪霊王ダイモーンの全霊顕現をなぁ……!」
マシューの身体が闇の色に染まる。モラクスの口から、飲み込んだ大量の悪霊が吐き出された。悪霊を支配するダイモーンの力によって、マシューの方に引っ張られて、次々に闇色の身体に、悪霊が吸収されていく。
闇の色が人型から、グニャグニャと形を変え、球状に膨らんでいく。モラクスの背後や頭上からも、悪霊が飛んできて、闇の球へと飛び込んでいく。その悪霊の群れはマシュー邪悪な計画のためにガリア島の住民に憑依させていた悪霊だった。
星の数のような悪霊がマシューへと吸収されていく。邪悪な、どす黒い悪意に満ちたマナがどんどん膨れ上がっているのを、モラクスは感じ取り、警戒を強める。
闇の球がひび割れた直後、ガラスが壊れるような音と共に、爆発するかのようにはじけ飛んだ。中から、悪霊王ダイモーンの全霊顕現の状態となったマシューが、露わになる。
大きく赤い一つ目に、大きな二本の角が生えた、真っ黒な、異形の人型。禍々しい悪魔のような姿に、モラクスは苦戦を予感し、こめかみを嫌な汗が一筋伝った。
「私がこの姿になった以上、お前が私の魂を傷つけることは最早不可能だ。魂に直接干渉できる力があろうともな……」
モラクスが雷のエネルギー波をマシューにぶつけた。形態変化前なら確実にダメージを与えられる攻撃だったが、雷光がマシューの全身を余すことなく飲み込んでも、傷一つないマシューが姿を現した。
「無駄だ。この姿は聖十字教が生み出したあの時代の怨念そのものだ。私が数百年にもわたり、食らい続けた悪霊と、そいつらの抱える憎悪や怨嗟、憤怒や復讐心などの負の感情全てを人の形に凝縮したのが今の私だ」
それによって気づいた。ダイモーンの全霊顕現であるこの形態は、負の感情全てを、単純で物理的な、わかりやすい強さに変転させている。肉体の頑強さや、膂力の強さ、湯水のように溢れるどす黒いマナなど、形態変化前のマシューとは何もかも比較にならない。神話の怪物でさえ、ここまでの強さを持つ存在は少ない。
「私を倒すということは、あの時代の総ての悪意と狂気と欲望に打ち勝つということだ! 信仰と力を失った半神の搾りかすごときに、今さら何ができる!?」
勝てるかどうかはわからない、だがマシューの邪悪な在り方に、自らの信念と決意を言葉に出して、ぶつけずにはいられなかった。
「やかましい! 時代と宗教に便乗しただけのカスが! ジャンヌがどれほど、悪霊となった人間の霊魂を想い、安寧を願ったか……!」
モラクスが生まれて初めて対峙した敵は、神話の時代においても、神々と戦争を繰り広げるような、正真正銘の強敵であった。
だが勝ち筋はある。希望はある。この男は人の世に生かしてはならない邪悪そのものだ。この戦いを引いてはならない。この戦いを引けば、数多の人間が、マシューの悪意に晒され、この国は混沌と化し、果てには地獄となる。自らに命を与えてくれたジャンヌのために、断じてそんなことを許すわけにはいかなかった。
「人間の魂をどこまでも自分のためだけに利用するその愚かさと、貴様が踏みにじった尊厳の重さを! 骨の髄まで思い知らせてやる!」
義憤と決意を胸に、モラクスが、悪霊王ダイモーンのマシューに飛び掛かる。




