第47話 モラクス誕生
一瞬で流れ込んではきたが、大量の、長い長い記憶だった。四肢を切り落とされた状態で、泥濘の中をもがくような、そんな感覚だった。
しかし、ボルクスがジャンヌの記憶を垣間見たのは、ジャンヌの意図したことではなかった。ジャンヌの目的は別にある。
「頭が……痛え……割れるようだ……!!」
ボルクスが立ち上がり、頭を抱え、急激な頭痛に苦しみながら、身体をフラフラさせた。
「この期に及んで、何をした……?」
眉根を寄せたマシューに、ジャンヌは身体の痛みをこらえながらも、不敵に笑う。
「ゲーティアの力を全てボルクスに注ぎ込んだわ。何が起こるかわからないけど、少なくとも、これからあなたに、やりたい放題に暴れられるよりかは遥かにマシ」
「最後の最後で他力本願か、悪あがきにしても最低の類だぞ」
マシューがジャンヌの行動を、くだらないこととばかりに見下し、鼻で笑った。しかし、何らかのマナの変動もあり、ボルクス自身には興味を示し、目を離さなかった。
「うおおおおおおお…………!!!」
尋常ではない苦しみに、唸り声を上げるボルクス。抱えてる頭がひび割れて、内側から何かの光が漏れ出した。
「!!」
ジャンヌとマシューが、同時に目を見開く。ボルクスの頭が破裂するように割れて、謎の光があふれだした。
光の中から、ボルクスと同じ輪郭を持った人影が、姿を現した。
光が収まり、徐々に浮かび上がってきたその姿は、ボルクスと瓜二つであった。
まるで双子かと思うほど、背丈も体格も、顔つきもそっくりであったが、髪の色は月光のように白く、瞳は凝縮させた血のように真っ赤な色に染まっていた。
ボルクスの頭が割れて飛び散ったように見えたが、何故か頭は無事で、今は再び地面に転がり、意識を失っていた。
ボルクスから出てきた人物は、空を見た後、自分の両方の手の平を無表情で見つめ、握ったり開いたりを繰り返す。
「……何者だ?」
警戒したマシューが、低く短く、ボルクスと瓜二つの人物に問いかけた。
「俺の名はモラクス」
モラクスが、ピクリと反応し、マシューの方を向いて答えた。その後、マシューに手の平を向けて、低く、悪意のこもった言葉を吐く。
「貴様の末路だ」
そう言いながら、モラクスは、口の端を吊り上げて、静かに笑った。ボルクスと瓜二つでありながら、ボルクスが決してしないような、冷血さを感じさせる笑みであった。
モラクスが笑みを浮かべた瞬間、マシューに向けた手の平から鮮烈な雷を放った。
「こいつ……!!」
極大な柱のような雷のエネルギー波は、忌々しく呟いたマシューの姿を飲み込み、海を真っ二つに割りながら、水平線の向こうに突き抜けていった。
巨大な、山のような水飛沫が上がり、マシューが海深くへ沈む。
マシューの吹っ飛んだ先を睨みながら、モラクスは手を下した。ジャンヌはその光景を呆気に取られて見ていたが、近づき、まるで騎士のように跪く。
「ジャンヌ様」
「ひゅっ!?」
まるで自分が主君であるかのように、モラクスに名前を呼ばれたジャンヌは、自分でもよくわからない変な声が、喉から不意に出てきた。
ジャンヌにとって目の前のモラクスは、まるで自分に意見を具申するかのような忠実な騎士に見えた。
「私は決して敵ではありません。これからあの男、マシューの存在全てを終わらせてきます」
ボルクスと瓜二つの顔と、ほとんど同じ声で騎士のように振る舞われ、ジャンヌは変な気持ちになり、敵の敵が見方とは限らないという警戒心が、どこかへ行ってしまった。
「わかったわ……あなたは、ボルクスとそっくりなようだけど、何者なの? もしかして、ゲーティアなの?」
マナはその万能性故に、たまに人智を越えた現象を引き起こす。自分の中からゲーティアの力が完全になくなったのを感じて、ジャンヌは、ボルクスと、ボルクスと瓜二つのモラクスに、慎重に聞いた。
敵ではないとわかって安心したが、正体不明ということが未だに薄っすらと不安ではあった。ゲーティアと聞かれたことを、モラクスは肯定も否定もせず、厳かに話し始める。
「私は貴方の願いと、ゲーティアの力と、ボルクスの力の一部が合わさって生まれた……悪魔です」
ジャンヌは、モラクスの言った言葉が抽象的すぎてよく理解できなかったが、最後に言った悪魔という言葉に僅かな躊躇を感じた。
「その男は、半神半人の突然変異として生まれました」
モラクスが、白目を剥きながら地面に転がっているボルクスを見るようにジャンヌに促した。激しい頭痛によって酷い顔になっていたが、まだ息はある。
「双子の兄が持って生まれるはずだった半神分の神性を、その男は持って生まれました。恐らく他の神話体系でも類を見ない稀有な突然変異です」
ジャンヌが冷静に、モラクスが語る一つ一つの言葉の意味を理解しながら、耳を傾ける。
「人の子として生まれたはずなのに、あまりにも神、それも父である大神ゼウスに近い力を持って生まれたボルクスを、ゼウス自身も、他の神々も、人間たちも、その成長を恐れました。アロアダイという前例もあり、赤子の内に殺した方がいいという提案まで持ち上がった程です」
「!!」
ジャンヌのボルクスを見る目が大きく見開いた。
赤子の内に殺す。善行も悪行も何もしていない内に殺すというのは、子供という存在に対して、将来性を見出し、慈しむ対象とするジャンヌにとっては最大限、忌むべき行為であった。
「人間の母親とその夫が、その提案を許さず、特に母親は苛烈な勢いで反対しました。そのおかげでなんとかボルクスは殺されずに済みましたが、持って生まれた半神以上の力に、人生を振り回されてしまうことを、アロアダイの二の舞になることを人間の父母は懸念してもいました」
これはボルクス本人ですら、知り得ない情報である。ジャンヌがはモラクスの言うことを真摯に聞かながら、ボルクスの顔を見た。そもそも赤子の内に殺されずに済んだからこそここにいる。にも関わらず、ジャンヌはやはり赤子の内に殺すという提案が持ち上がったことに対して、非難するような考えと、殺されずに済んでよかったという安堵感を抱いた。
「そこで、神々はボルクスの半神分の力を、使われることのないように体内に封じました。その力が、悪魔として覚醒したのが今ここにいる私です」
ボルクスの身の上の話から、ようやくモラクスが自分の話をした。ジャンヌの視線が、ボルクスかモラクスへと素早く移る。
「ボルクスがこの時代に、悪魔として召喚されたことによって、神々による力の封印が弱まり、悪魔としての存在を確立しつつありました。恐らく、以前にも、この男は時おり、自分が悪魔であることに、頭痛を覚えていたことでしょう。神が信仰によって力を増すように、悪魔も他者からの認識によって存在と力を確立していきます」
ジャンヌが、ボルクスを見ながら、モラクスが受肉する直前の頭痛に苦しんでいた光景を思い出す。
「あなたがゲーティアを、モラクスに受け渡したおかげで、私はこうして、実体と自我と人格を得ることができました。ゲーティアは世界に災いをもたらす力、この私の力も父ゼウスの神性を受け継ぎ雷を操る力です」
「双方の力が共鳴した結果、ボルクスの封じられた力である私が、ゲーティアの力によって、悪魔という災いとして、受肉した。というのが、私の解釈です」
驚愕の新情報が、ジャンヌの頭の中に怒涛の勢いで流れ込んできた。とにかくモラクスという悪魔がどのようにして生まれたかという経緯は理解できたが、この現象はイレギュラー極まりない。
「あの男はあの程度では死なないでしょう。私は貴方の願いに応えるために、あの男の息の根を完全に止めてきます」
ジャンヌはゲーティアの力を注ぐ際、ボルクスにマシューを倒してほしいという、願いにも似た想いを託したのを思い出した。
モラクスが手をかざし、ジャンヌとボルクスに向かって、淡い光のようなマナを出した。ジャンヌは挙動とそのマナに、敵意を感じず、マナを受け入れると、身体がほんの少し回復したのを感じた。
ボルクスとの死闘で動けなくなったジャンヌの体が、今は僅かに動く。
「私のマナを少しわけました。できるだけ島民に被害が出ぬように闘いますが、相手が相手なので何をしてくるかわかりません。ボルクスを連れてどこかへ身を隠してください。あいつの、ダイモーンの能力はある程度知っています」
モラクスは既にジャンヌに背中を向けて、マシューが吹っ飛んだ先の海を睨んでいる。その言葉と背中に、ボルクスと同じ頼もしさを覚えたジャンヌは、例え相手があのマシューであっても、余計な心配などをする必要がないと判断した。
「……頼んだわ」
ジャンヌがモラクスに闘いを託す一言は、短く、重かった。ジャンヌは今、どうあがいてもマシューと闘えなかった。ライラとベス、グリム、の仇を討つことが出来なかった。身を掻きむしりたくような無力感を、その一言を口に出すと同時に、飲み込んだ。
モラクスは背中越しにその一言を聞くと、宙に浮かび、海面すれすれを、水飛沫を高く上げるほどのスピードで飛んで行った。
何の説明もなく凄い速さで飛行するモラクスに、ジャンヌは驚きつつも、ボルクスに肩を貸し、どこか安全な場所へ避難した。
これから自分が倒せなかったマシューと、激闘を繰り広げられるであろうモラクスを、ジャンヌは今、信じることしかできなかった。
モラクスが海の上を飛んで進み、やがて海の上に浮かんでるマシューと対峙した。かなり大きな雷のエネルギー波をまともに食らっていたはずだったが、ピンピンしている。
「興味深い現象だ。お前からはゲーティアの力を感じる。ジャンヌの悪あがきによって、ボルクスの力の一部が、偶然に枝分かれでもしたかな」
ほとんどモラクスが生まれた理由を言い当てたマシューを、モラクスは凄まじい殺気を向けた。モラクスとて、ジャンヌの過去を垣間見ていた。目の前の男を、生かしてはならぬという固い決意があった。
「外道の癖によく回る頭だ。が、俺の正確な素性の真実など、断じてお前に与えん。俺がお前に与えるのは……」
モラクスの殺気が一段と、凄まじいものになった。マシューが目を見開いた瞬間、モラクスはマシューの視界から消えていた。
「終焉だけだ」
冷酷で無慈悲な声が、マシューの頭上から降って来た。その声と共に、モラクスが頭上から、高速で落下しながら、飛び蹴りを放ってくる。
蹴りの速さにマシューは反応できず、まともに食らった。水飛沫が高く舞い上がりながら、モラクスの飛び蹴りの勢いは緩まることなく、なんと海を穿つように、海底に到達した。
深い海はモラクスの蹴りによって円柱状にくり抜かれたようになり、露わになった海底で、モラクスがマシューの身体を強く踏みつけている。
「俺の産声代わりに哭け外道、貴様の断末魔でこの俺という存在の誕生に色を添えろ」
モラクスが悪意に満ちた声をマシューに落とすと、踏みつけていた足を上げ、さらに強く靴底を叩きつけた。




