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Myth&Dark  作者: 志亜
Devils and Daemons
47/54

第46話 これが報いだというのなら


 ジャンヌに持ち掛けられた魔女判別の審判とは、水審であった。両腕を縛り、足に重りをくくりつけ、水中に投げ込み、体が浮上してくるかどうかで、魔女を判別する審判方法である。


 湖に突き出た桟橋の上に、ジャンヌが両腕を後ろに縛られたジャンヌが立っている。マシューにやられた傷はまだ完全に癒えていない。


「清浄なる水は、邪悪な魔女を拒み、身体を浮き上がらせる」


 その背中に、湖のほとり立ったマシューが声をやる。そのさらに背後には、ジャンヌの死を見世物として、鬱憤を晴らす娯楽として楽しむような、邪悪な好奇に満ちた民衆が、畑の作物のように立ち並んでいる。


 今まで散々守ってもらった恩義など、そういうものを彼らが感じることはない。義理も道理もわきまえない。それどころか今まで魔女を逃していたいたとマシューから聞かされ、一瞬でジャンヌは、神の、正義の名の下に、惨死を迎えて然るべき存在になった。昨日まで英雄だともてはやしていたジャンヌを、今に至っては魔女と、大罪人として心の底から死を願っている。


 彼らにとって、目の前で魔女が焼かれようと、全ては他人事なのだ。自分が当事者として魔女の汚名を着せられない限り、ただただ、与えられた情報を鵜呑みにして感情の矛先を決める。この時代はそんな愚かで気まぐれな連中が大半だった。


 民衆を騙した魔女が溺死する様を、今か今かと待ち望む民衆の視線が、ジャンヌの背中の一点に注がれていた。


 子供の頃のジャンヌは、そんな目を向けられることを心底恐れてはいたが、自分が死ねば、大事な人を救えると思えば、意外にもそれほど恐怖を抱かなかった。


「故にジャンヌ、お前の死体が浮いてこれば、それを魔女の証として、私たちは残りの魔女を全て火炙りにする。逆に死体が湖底に沈めば、お前に対する魔女としての嫌疑は誤解として扱い、地下の人間を全員、解放しよう」


「足の重りは外しておくが、マナは絶対に使うな。公正な判断を下すためにもね」


 ジャンヌが、湖面を見た。無慈悲なまでに青く、暗い底が大穴のように待ち構えている。


 初めから、安穏とした生など諦めていた。ライラに語った夢も、決して叶わないと悟っていた。こんな末路はライラと約束したこととは、自分のために生きることとは真逆だ。ジャンヌは今、他人のために命を捨てようとしている。


 マシューにグリムと逃げているのが見つかってから、ライラとベスとレインには会っていない。三人を、死なせたくなかった。殺させたくなかった。私が幸せになれなかった分、幸せになってほしかった。


 ライラは、私の命と引き換えに助かったと知ればらどんな顔をするだろうか。ベスは、私が死んでも大丈夫だろうか、いつまでも泣きやまなくなってしまうのではないか。グリムを死なせてしまった私を、レインは許してくれるだろうか、これで償いになるだろうか。心残りは無数にあるが、今はあの三人が、私抜きでもたくましく生きていくことを、信じるしかない。


 神よ、どうか私の願いを聞いてください。私の大事な人たちを、生かしてください。あなたの名の下に、私の愛しい人たちを殺させないでください。あの子たちは、私が自分よりも幸せになることを願っている魂なのです。


 なぜ彼女たちが辛い目に合うのですか。この世界を、人間を作っておいて、なぜこの世には目を覆いたくなるほどに悪意が蔓延っているのですか。あなたを信じている人間が苦しんでいるのですか、人間を、この世界を見捨てたのですか、なぜ……なぜ……。


 決意を固め、ぐっと桟橋を踏み締めて、ジャンヌは湖に飛び込んだ。水飛沫が高く舞い上がり、ジャンヌの体が、底へと沈んでいく。


 自分の死に方次第で、大事な三人を救える。ただ溺死するだけでは、水死体が、湖面に浮いてしまう。何としてでも溺死した後の死体が、湖の底に沈んだままにしなければならなかった。


 足だけを必死で動かし、水の冷たさに体温が奪われながらも、湖の底へと体を沈めていく。自分の体を、湖の底に固定するような、重りのような何かがが必要だった。


 泳ぎ続けたジャンヌの眼前に、湖の底が迫ってきた。見えているものは砂と小さくて滑らかな丸い石、それら以外目立ったものはない。





「浮かんでこない……」


 ジャンヌが飛び込んでから、しばらくした後、マシューが首を傾げた。とっくに溺死した死体が浮かび上がってもおかしくない時間だったが、何も浮いてこない。


「おかしいなぁ〜、この湖は何かが引っかかるような形じゃないのに、桟橋の裏にも浮いてきた様子はないなぁ〜」


 マシューの訝しむ言葉に、民衆がざわざわと騒ぎ始める。


「おい話が違うぞ! 俺たちは魔女が水審で無様にもがいて溺れるさまを見にきたんだ! 湖の底で溺死したって何も面白くない!」


 群衆の中の一人が不満を訴えた。それを機に、不平不満の空気が伝播していく。ジャンヌが重りもなしに沈んでしまったという動揺から、死ぬ様を見物できなかったことに対する不満へと群衆を支配する空気が変わっていく。


「あっ! そっかぁ! なんだ勘違いしてた!」


 マシューが、手を叩き、何か納得したような顔をした。


「魔女は水に沈まないんじゃなくてぇ、清浄な水は、邪悪な魔女を溺死させるために、身体を沈めるんだった!」


 凶悪な笑みを浮かべながら、マシューは今までの審判を、ジャンヌの行為を、まるで無意味にするような言葉を平然と吐く。

 

「いや~、いかんいかん、私ともあろう者が、土地によってすっかり魔女の判別方法が違うのを忘れていた」

 

 首を振りながら苦笑するマシューに、群衆の視線が集まった。


「ようするにだ。ジャンヌは魔女、そういうことだ」


 その言葉をわかりきっていたとでも言わんばかりに、群衆が騒ぎ出す。聖十字教には人間が魔女であるかどうかを、真に見極める方法などない。審判は茶番、ジャンヌがどんな行動を起こし、どう答えがでようとも、結果は初めからわかっている。魔女の汚名を着せることを、神の名も下に殺すことを、正当化するためだけの茶番。


「ジャンヌが魔女だったならば、地下の人間たちも全員、例外なく悪しき魔女だ! 我々は神の御心のままに、正義を成そう! 今すぐにでも焚刑の準備に取り掛かろう!」





 

 全ての悪意の下に、焚刑の準備は迅速に行われた。レインがそれを許すはずはなく、抵抗を行い、三人で逃げ出そうとしたが、マシューの力の前には何もかも無意味だった。


「おお! しかと目に焼き付けよ、民衆よ! これが悪魔の血を引く者の末路である! 今ここに神に背く悪しき存在を焚刑に処し、主への贖罪とする!」


 積み上げられた薪塔に囲まれて、一本の杭のような磔刑台にライラが縛り付けられている。


「さあ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ!」


 集まった民衆がまるで祭りのような異様な熱気を持ちながら、ライラに向かって殺意の言葉を合唱して、拳を振り上げている。ジャンヌに注がれていた悪意が、早く焼かれて死ねという、邪悪極まりない願望が、愚かで悪しき民衆から、今はライラに注がれていた。


 ライラの眼前にはこの上なく醜悪な光景が広がっている。目に映るのは全て、人でなし、ろくでなし、悪意と殺意が群を成して、今度はライラが焼かれて悶え苦しむさまを今か今かと待ち望んでいる。他者に対する慈悲や優しさという感情が完全に抜け落ちた目。明らかに人間ではなく、悪趣味な見世物に向けるような視線。ゲラゲラと笑う口は、三日月状に歪み、地中の虫のような白い歯を、無慈悲な色に染めている。


 それらを一身に受けても、死の気配が間近に迫っても、それでもなお、ライラはジャンヌを信じ続けていた。


「怖くない、怖くない、ジャンヌが絶対に助けてくれる。ジャンヌが死ぬわけない。今すぐにだって来てくれるはずよ。大丈夫、大丈夫、ジャンヌは強いから、ジャンヌは凄いんだから……私は死なない、死なない……約束したもの、二人で幸せになるって……」


 ライラが俯きながら、細い声を必死に絞り出し、自分自身を勇気づけている。


「グリムだって、あんなに元気だったんだから、あんなに強かったんだから、絶対に死ぬわけない。グリムが、私がこんな風に死ぬことなんて、許しはしないんだから……」


 走馬灯のように、自分を救ってくれるかもしれない、ジャンヌとグリムとの思い出を振り返る。顔や声、話し方、どんなことを話したか、二人の人物像と、さまざま出来事が頭の中を駆け巡る。


「やだよぉ……! ジャンヌ……グリム……!! やだぁああああ……!!!!!!」

 

 死の悪寒に体中の震えが止まらない。視界の大部分を埋め尽くす民衆から殺意が一身に叩きつけられ、心も体も命も、何もかも悪意の重さに押しつぶされてしまうような感覚がライラを襲った。


「嫌だぁぁぁぁぁぁぁ……!!!!」


 積み上げられて薪に火が付く。


 火炙りの犠牲者の死因は必ずしも炎の熱とは限らない。磔刑台の周りに薪を積み上げ、そこに火をつける形式では、燃え上がる炎の熱は犠牲者に長時間にわたり、苦痛を与え続けるが、やはりそれが死因となることは少ない。


 周囲の薪から生まれる炎は、激しい煙と熱風を吹き上げ、犠牲者を燻し、責め苛む。炎と熱風の中心に居る犠牲者は人体にとって有害な煙を吸い、咳き込み、悶え苦しむ。まともに呼吸ができなくなってもなお、身体は酸素を必要として、咳を繰り返し、やがて肺が傷つき、出血する。


 血の混じった咳を吐き、有害な黒煙に目と鼻、喉は焼け、炎の熱に体中の水分が奪われ、汗や涙が枯れ果てても、それでも、まだ犠牲者は死ぬことはできない。


 黒煙と炎の熱は人体に絶え間なく苦痛を与え続け、ゆっくりと肉を乾燥させていく。火炙り、焚刑は、聖十字教徒が異教徒、異種族を殺す際に積極的に使用した、人類史上最も残酷な処刑法の一つだった。聖十字教が世界の異教徒達から、邪教と呼ばれた一因である。


「燻製だ」


 炎の中でひたすら苦しみ続けるライラを嘲笑いながら見物し、マシューが低く呟いた。


「クックックックックハッハッハッハッハハフハハハハハハハハ……!!!!」


 マシューが大きく口を開け、両腕を広げながら笑う。民衆もただひたすらに、悪趣味で下劣な笑みを浮かべている。ライラが残酷な処刑法でじわじわと死にむかっていく様子を、まるでショーのように、歯を剥き出し、指を差して、ゲラゲラと笑っている。


 ライラを苛む火は、実に半日もの間、燃え続けた。日が落ちた頃にようやっと焚刑の炎も燃え尽きた。ライラを取り囲んでいた聖職者と民衆は、満足そうな晴れ晴れとした顔をしていた。


 ライラは、炭のように体が黒く染まり、全身を余すことなく外側からも内側からも炎で焼かれ、ギリギリで人の形を留めている。少しでも小突けば崩れてしまいそうな、そんな無惨な有様だった。






「ライラ……どうして……」


 群衆の背中を遠い場所から見ながら、ジャンヌは呆然と呟いた。火炙りにされたのがライラだと、根拠はないがジャンヌにはわかった。


 ジャンヌは湖の底に沈んでも、溺死することなく生きていた。傷だらけで両腕を縛られながら、深い湖の底に長時間沈み続けても、悪しき運命がそうさせたのか、ライラとの約束に対する執着していた故か、生きていた。傷だらけの身体で湖の底から、ゆっくりと時間をかけて、桟橋までジャンヌは這い上がった。


 その頃には湖の周りには誰もいなかった。死んではいなかったが、死んだとみなされても、同じことだと思った。碌に睡眠もとらず、傷だらけで、冷え切ったジャンヌの体は限界を迎え、桟橋に上がった瞬間、急激に意識が落ちた。


 意識が目覚め、立ち昇る黒煙を見た瞬間、ジャンヌの胸に底の見えない不安と焦燥が生まれた。誰かが焼かれている。その場所に近づくにつれて、不安と焦燥が大きくなっていった。


 集まった連中はジャンヌを死んだとみなしていたが、ライラは火炙りにされた。それを確信した瞬間、ジャンヌの心に、大きな大きな、いくら明かりで照らそうとも、底の見えないような穴が開いた。全てを飲み込むような邪悪な暗がりを持つ穴、それが徐々に、ジャンヌの心を埋め尽くしていく。


 自分が死ねば、ライラは助かるはずだった。自分の命に代えても助けるはずだった。これでは何のために、必死で沈んだのか、湖の底に自ら張り付いたのか、わからない。

 

「私、最後に何に祈ったの? 存在しないとわかってる神に祈った?」


 ジャンヌが誰に聞かせるでもなく、悔いるようにか細く痛切な声を落とす。


「これが……これが……祈りに対する報いなの……? あの子は……私の幸せを願ってくれたのに……生きていて欲しかったのに……私の……私の大切な……大切な人だったのに……」


 火炙りにされたライラの苦しみや最期を思うと、悲しみが、嘆きが、喪失感が止まらない。


「幸せになって欲しかった……いっぱい笑って欲しかった……ライラが死んでしまったのはどうして……? 私が最後に祈った神のせい……?」


 大切な人に幸福を、喜びに満ちた生を送って欲しいという願いを、人であれば誰であれ願うようなことを、ジャンヌも当然願った。しかし、その願いは魔女狩りという形でいとも簡単に踏みにじられ、蹂躙され、叶わぬものとなってしまった。


「どうすればライラは死ななかったの……? 私の大切な人は幸せになれたの……?」


 ライラが死に至った原因が、ライラの遺体を取り囲んでいる。ジャンヌにとって大事な、愛しい人間は、神の下僕を名乗る鬼畜どもの手によってこの上なく残虐、野蛮、外道極まりない処刑を科された。死も、それに至るまでの長い長い苦しみも、笑われて、はやし立てられた。


 その耳障りで不快な笑い声は未だなお、ライラに向けられ、ジャンヌの耳に薄っすらと聞こえてくる。ライラの死を嘲笑っている連中の背中を、ジャンヌは遠く見つめる。


「ライラの命を奪ったのが……魔女狩りと聖十字教なら……聖十字教さえ、あいつらさえいなければ、ライラが幸せになれたのなら……」


 ジャンヌが俯き、何かの感情に体が震えだす。


「聖十字教を滅ぼしてやる……!!」


 信仰心や敬虔さが深かった分、それらはライラの死によって、同等かそれ以上の深い絶望と憎悪へと転じた。


「ライラを殺した、ライラの死を笑った連中……魔女狩りを、笑って促した愚か者ども……」


 急激に吐き気を覚えたジャンヌは四つん這いになり、口から何かを大量に、勢いよく吐き出した。胃を満たすほどの量のそれは、湖の底にあった、大量の小さくて滑らかな丸い石だった。自らの死体を浮かび上がらせないために、ジャンヌは石を飲み込み、重りとしていた。


「一人残らず皆殺しだ……!! 惨死で贖え……!!」


 口の周りの吐しゃ物を拭きながらジャンヌは立ちあがる。その顔は今までジャンヌが戦場でさえ、浮かべたことがないような、悪意と憎悪を込めた凶悪な表情だった。


 信仰の下に行われたライラの処刑は、信仰から憎悪へと、正義感から悪意へと、ジャンヌを魔女として、魔王として覚醒させるには十分すぎるほどの、蛮行だった。


「ゲーティア……力を全部寄こしなさい」


 大切な人を悼む情念と、大切な人を裁き、殺し、その苦痛と死を笑い飛ばした人間に対する憎悪に、マナが応え、いくらでも湧き上がってくる底なしの殺意と悪意に厄災王ゲーティアの力も応え、ジャンヌを魔王へと変貌させる。


 ジャンヌの背中に、黒い輝きを放つ光の輪が現れる。本人は知らぬことであるが、ゲーティアの力を完全に支配下に置いた証であった。


 ゲーティアの力によって、暗雲が立ち込める。豪雨、落雷、突風が一瞬で、嵐として巻き起こり、ここら一帯の景色を飲み込む。


 ジャンヌが空高く浮かび上がり、ライラの処刑に集まった群衆を一望する。


 群衆が突然の空模様の急激な変化に、騒ぎ始めた。この現象も魔女の仕業か何かと決めつけて騒ぐ彼らを、ジャンヌは心底ゴミを見るような目で見下ろした。


「死ね……!」


 大樹のように雷を、群衆に向かって、アリの群れを踏み潰すかのように、一人も生き残ることが無いように、数発落とす。ライラの苦痛と死を笑い飛ばした愚か者の群れ、彼らを殺すのに、罪悪感はなかった。


 大きな音と光とともに、雷が炸裂する。断末魔がそこら中から起こった。雷が落ちた後の地面は、底の見えない奈落のような大穴が開いている。群衆は死体すら残さず塵となった。悲鳴を上げ、逃げ惑う群衆の動きが酷く緩慢に見えた。続けて雷を落とし、一人残さず消し炭にしていく。


 これしかない、悪魔の所業と呼ばれて然るべき殺戮しか、ベスとレインが生き残る方法はない。魔女狩りを終わらせる方法はない。何をしても、信仰の名の下に、ジャンヌが何としてでも生かしたい、大事な人間が殺されてしまう。


 彼らが、魔女狩りに怯えることなく、安心して平和に暮らすのに必要なものは、断じて聖十字教ではない。もっと具体的で凄まじく強い力を持った、神と違って実在する守護者が必要だった。


 どれだけ聖十字教徒から恐れられても、恨まれても、罵られても、魔女として、魔王として、ベスとレインを生かすために、ジャンヌは聖十字教を血の海に沈めることを決めた。魔女狩りの恐怖を、それ以上の殺戮と恐怖で、埋め尽くすことを決めた。


 集まった群衆を、言葉通りに皆殺しにした後、ジャンヌはライラの遺体に目をやった。死なせてしまった虚しさや、無力感を胸に抱きながら、そっと近づく。何か言葉をかけたかったが、何も出てこなかった。民衆も聖職者も殺しても、復讐を果たしても、ただひたすらに虚しさだけが心に漂う。


「ほら……やっぱり……ジャンヌは来てくれたでしょ……」


 死んだと思っていた、ライラの真っ黒な体が僅かに震えだし、焼かれてズタボロになった喉から、小さく今にも消えてしまいそうな声が出た。


「ライラ……ライラ……」


 微かな声でライラの名前を繰り返すジャンヌ。


「ごめんなさい……! 私のせいで……! 私がもっとしっかりしてれば……! あいつらさえいなければ……! あなたを……あなたをこんな目には……!」


 ライラがまだ生きていたのは、ジャンヌが思いもしなかった出来事だった。しかしそれ以上に、ライラを焼かれ、こんな姿にしてしまった自分の無力感に、ジャンヌは心を粉々に砕かれた。


「絶対来てくれるって、信じてたから……ずっと信じてたから……こうやって生き残れたの……」


 黒焦げで、虫の息になりながらも、ライラは涙を流しているジャンヌを励ました。


「ジャンヌ……謝らないで……泣かないで……ジャンヌが泣くと、私も悲しいの……」


 既に聖十字教徒を何人も殺したが、たった一人の友のためを想って泣く、魔王の姿がそこにあった。


「ジャンヌ……大好きだから……」


 ライラは、もう死んでしまうかもしれない。何もかも間に合わなかった。そう思うと、ジャンヌは胸が張り裂けそうな思いに、ただ毒のように苦しむしかなかった。


「!!」


 不意に、ライラがジャンヌを突き飛ばした。かなり強い力だった。黒焦げになる前の、少女の姿から出た力とは思えないほどだった。


「ジャンヌ……逃げて……私の中に……私じゃない何かがいる……!」


 ライラは頭を抱えて、必死に何かに抗うように、ジャンヌに訴えかける。


 誰だ、私の大事な友人をこれ以上苦しめる人間は誰だ。ライラを苦しめる張本人を、憎悪と悪意の振り下ろす先を、ジャンヌは血眼で、全神経を尖らせながら探す。


「ゲーティアの全霊顕現まで使いこなすとは……恐ろしいほどまでの凶悪な変貌だな……」


 張本人であるマシューがどこからともなく感心した口調で話しながら出てきた。


 ジャンヌが、何もかも貫くような殺気をマシューに向け、無言で手に負の感情から生まれる禍々しいマナを込めた。外道は素手で八つ裂きにしなければ気が済まない。


 ジャンヌが、怒涛の殺気を持って、マシューに向かう。黒く滾るような邪悪なマナを、込めた手がマシューの眼前に迫る。


「うそ……だ……」


 ジャンヌの顔からそれまで浮かべていた憤怒の表情が、一瞬にして消える。


 マシューは微動だにしなかった。ジャンヌの前には、まるでマシューを守るようにライラが立っている。


「マシューゥゥゥゥ!! 何をしたァァァァ!!」


 ライラが好き好んでこんなことをするはずがない。理不尽の極みとも言えるような光景に激昂するジャンヌを、ライラの、籠手のようなものが着けられた手が殴り飛ばした。


「アーッハハハハハハハ!! どんな気分だいジャンヌ!? 自らの手で大事に大事に生かしてきたメスガキに殴られる気分は!?」


 ジャンヌを指差しながら、あふれ出る感情のままに、マシューは愉快に笑い転げた。ライラがジャンヌを殴り続ける。


「そのガキには俺の悪霊を取りつかせて、魂を掌握した! 俺の意志一つで、どうとでも動く操り人形だ! 俺のために立ちふさがり! 俺のために闘う! お前の声に応えて正気を取り戻すなどという、都合の良い奇跡は万に一つも起こらんぞ!」


 ジャンヌが、ライラを傷つけることは、絶対にできない。ライラは生気を失った目でただただ、ジャンヌを暴力を浴びせている。


「倒せまい!? 抵抗できまい!? お前が自らの死を代償にしてまで救いたかった人間だからな! 全霊顕現のゲーティアの力を少しでも使えば、死にかけのそいつの命は簡単に消し飛ぶぞ!」


 ライラの重い拳に、ジャンヌの傷が増えていく。守りたかった、救いたかった人間に、ジャンヌの身体がみるみるうちに傷つけられていく。


「俺が操ってるのがガキだからといって侮るなよ! 俺の魂の掌握とバルベリトによって、そいつは本来持っている以上の力で、お前を殴り倒す!」


 マシューの言葉通り、ライラは明らかに見た目以上の凄まじい膂力と速さの拳を振るい、ジャンヌを一方的に痛めつけていた。


 ライラの攻撃に耐え続けながら、ジャンヌは無理矢理、マシューに向かって手の平から、雷を放とうとして狙った。


「おやおや、それでもメスガキを使役する殺せば万事解決か? だが考えが甘いぞ」

「粉々にしてやる! クソ野郎がぁぁぁーー!!」



 マシューの方を見た瞬間、ジャンヌは再び感情を失う。


「はい、できるものならどーぞ」


 ライラだけでなく、ベスとレインまでもが立っていた。二人に何かしらの感情の色はない。虚な目をしてぼんやりと前方を眺めている。


 雷を放たない。二人の後ろにいるマシューを攻撃できない。当たってしまう。


「こいつらを殺すことは、お前の今までの人生を否定することだからなぁ~。お前はもうこれ以上、誰も、誰も救えやしない。そのまま惨めに、お友達の手でボロボロに果てていけ。それがお前に一番相応しい末路だ」


 マシューはジャンヌの躊躇いを手に取るかのように口角を高く吊り上げ、嘲笑う。


 ジャンヌはただ耐えるしかなかった。マシューを殺すためとはいえ、ジャンヌに、ライラを、ベスを、レインを、手にかけることなど、どうしてもできなかった。


 悪霊によって操られつつも、ライラの意識ははっきりとあった。自分の手に大切な友人を殴る感覚が、血を吐かせる感覚が、疑いようもなく伝わってきた。


 誰でもいい、誰か……誰か……今すぐ私を殺して。


 どうして私は友達の敵になっているの。どうして私は友達を痛めつけているの。


 ジャンヌは、私の幸せを願ってくれた人なのに、私のために泣いてくれた人なのに。


 私もジャンヌには幸せになって欲しかったのに、どうして私はジャンヌを傷つけているの、辛そうな顔をさせているの。


 私を殺しても良いから、誰でもいいから、今すぐ誰か、私を止めて。これ以上私にジャンヌを傷つけさせないで。


 悪霊によって強制的に動かさらているライラの体はどれだけ激しく動いても、疲れも痛みも知らず、長時間に渡り、ジャンヌを殴り続けた。ジャンヌはその間、うめき声一つ上げることすらなかった。






 やがて、他に伏せたジャンヌを、マシューが見下ろした。


「魔女狩りよりも、火炙りよりも、異端審問で行われるどんな拷問よりも、素晴らしく滑稽で、愉快な光景だった」


 マシューがぐりぐりと、ベスとライラを背にジャンヌの頭を靴底で踏みつける。


「お前はこいつらのためだけに、それほどまでに凶悪な成長を遂げたようだが……その因果は弱点にもなるというわけだ。他者を救いたいなどという人間性を残していた時点で、お前はどうあがいてもこの私には勝てん。そんな人間性とは甘さに他ならない。憎む者全てを皆殺しにできる力を持ちながら、その甘さが全てを台無しにする。魔女の救世主気取りで色気を出しながら、結局殺したのは民衆と下っ端の聖職者だけだ」


 ゲラゲラと笑うマシューの首に、後ろから不意に、刃か迫ってくる。


「ぬおっ!?」


 マシューがギリギリのところで刃をかわし、レインが舌打ちした。マシューの後ろから攻撃を仕掛けたのはレインだった。


「お前ごときの下賤な術で、この私が完全に操られるとでも思ったか!」

 

 レインが叫びながら、マシューを、ジャンヌのために殺さねばならない敵を睨みつけた。


 レインは自分の胸に手を陥没させるように突っ込み、黒い塊のような悪霊を取り出した。手を離すと悪霊は、マシューの下へと帰り、体は吸収された。


「自力で悪霊の支配を外した……? 興味深い……霊魂に直接干渉することができるとは……」


 レインの敵意をよそに、目の前で起こった現象に眉根を寄せるマシュー。


「だが、今さらお前一人が吠えて抵抗したところで何も変わらんぞ」

「ベス! 逃げろ!」


 レインが背後に残されたベスに叫ぶ。その声を受けて、ベスが茫然自失としていた状態から、ハッと意識を取り戻す。レインはマシューに襲い掛かる前に、既にベスに憑いていた悪霊を引き剥がしていた。


 ベスの身体にその行動によってつけられた外傷はない。戦場で命を落とした戦士の魂を、ヴァルハラへと導く。そういう役目を持つヴァルキリーだからこそ、魂に直接干渉することが可能であった。


「……!!」


 ベスは意識が目覚めた途端に、悪夢のような光景を目の当たりにして、一言も発せずに顔がみるみる青ざめていく。ジャンヌもライラも、ボロボロになっている。


 レインは背中越しでもわかるような、今までに見たことない殺気立った様子で、ライラを磔刑台まで連れて行った男、マシューの前に立っている。物心ついたばかりの子供の前が言葉を失うには十分すぎるほどの、あまりにも残酷で凄惨な光景だった。


 状況が、まるで飲み込めない。ジャンヌ、ライラ、レインが、全員心配だった。今すぐにでも全員に声をかけて、無事かどうかを確かめたかった。傷だらけでボロボロになって倒れているジャンヌとライラを、今まで自分がそうされてきたように、励ましてあげたかった。勇気づけてあげたかった。


 さまざまな感情を、表に出すことなく飲み込み、ベスはレインの言葉通り、踵を返して、走り出した。


 どこに逃げればいいのかはわからない。しかし、一刻も早く、マシューから離れなければならないというのは、レインの尋常ではない様子から察していた。


「ギャッ……!!」


 悲鳴とも何かの動物の鳴き声ともとれるような、ベスの声が聞こえた。声帯から出したというよりは、漏れたような呻き声だった。


 その声にレインが振り向くと、ベスは島の異常を察知して増援にきた天導騎士団に囲まれ、頭から血を流して、既に気を失っていた。


 駆けつけた天導騎士団は物事を判断する知性に乏しく、ベスの怯えた様子とオッドアイという外見的特徴から、神の下僕である騎士団に怯えるのは魔女に違いない、という短絡的思考で一瞬でベスを魔女と判断した。彼らの悪意と暴力は魔女と見做された子供に、容易に向けられた。


 ベスが怯えたのは、自分を地下牢に入れたのが天導騎士団だったからである。


「ベス……!!」


 倒れたベスを見たレインは大きく動揺し、マシューを前に致命的な隙を晒した。


「ぐぅおっ……!!」


 マシューがその隙を見逃すはずがなく、後頭部に強い衝撃を覚えたレインは、そのまま前のめりに倒れ込んだ。


「貴様ら…!! よくも、よくも、こんな……!!」

「やかましい」


 レインは地面に伏せても、恨みのこもった表情で、まだ何か罵詈雑言をぶつけようとしていたが、マシューによって頭を強く踏まれ、完全に意識を手放した。


「マシュー様、こいつらはどうしますか?」


 ぞろぞろと、ベスを取り囲んでいた天導騎士団の連中が、わかりやすくその場における戦闘の、勝者のように見えるマシューの下に集まった。


「金髪と黒髪のメスガキは、私が身柄を預かる。今日起こった惨劇の重要人物だからな」


 ライラとベスを見て、マシューは頭の中に邪悪な思惑を浮かべた。


「こいつとジャンヌは封印する。我々にとっては危険すぎる存在だ。下手に殺しても凄まじいほどの怨念がこの世に残り、人々の生活を脅かすだろう」


 天導騎士団の手前、マシューは醜悪な自らの本性を上手く隠しながら、厳格な口調で言った。






 マシューの指示と神の名の下に、ジャンヌとレインの封印の準備は進められた。

 

 二人が封印されることになったのは、ライラ達が囚われていた、例の地下牢だった。魔女を出したという理由で教会は打ち壊され、地下のあの牢屋だけが封印場所として残った。レインが封じられた詳細な場所は、かつて、グリムとレインがこの地下牢で、生活を共にした部屋だった。


「お前の魂に干渉できる力は、仕組みが全くわからんし、ダイモーンの能力とは相性が悪い、厄介だ。殺してしまった方が得策なのだろうが、それはそれでもったいない」


 剣が、まるで画鋲のように、レインの腹を深く貫き、そのまま背後の壁に突き刺さっている。壁に固定されて、捨てられた人形のように座り込んだレインを、マシューは見下ろした。レインがいる場所はかつて、グリムとレインが暮らしていた部屋だった。


 剣は封印用の魔法が施されたもので、レインの身体に一切力が入らず、何もできない。あれほどまでに殺意を叩きつけたマシューが目の前にいるのに、言い返すこともできない。


 マシューは、次にジャンヌに視線をやる。ジャンヌはどの部屋にも入れられず、ただ、通路の壁に、剝製のように飾られている。


 ジャンヌも、剣によって、壁自体に、全身を磔にされていた。ジャンヌの両手が頭上で交差され、そこを、一本の剣が、柄に近い部分まで貫き、壁に深く突き刺さっている。


 そこを支点に、死体のようにぶら下がったジャンヌの体を、大小さまざまな剣が貫き、後ろの壁に突き刺さっている。


「ジャンヌもだ。表向きには殺したことにして、秘密裏に支配下に置いた上で、私のために死ぬまで働いて欲しかったが、お前自身の力もゲーティアの力も、今の私だと持て余してしまうなぁ。ダイモーンの真の力を隠したまま、お前を飼うのは難しいだろう。他にも色々、天導騎士団でのこの地位を利用してやりたいことがあるからな」


 マシューの声ははっきりと聞こえるが、ジャンヌは睨み返すことすらできない。


「より長く、より激しく魔女狩りが続き、私がより力を増したその時に、また遊んでやろう。それまで精々、傷の舐め合いでもしていろ。散々同じようなことをやってきたこの場所はお前らの封印にはおあつらえ向きだろう?」


 そう言いながら、マシューが勝ち誇ったような足取りで出ていった。


 ジャンヌの胸の中にはただただ、ライラと、ベスと、グリムと、レインを救えなかった後悔と無念が止まることなく、泡のように湧いてきた。


「ごめんなさい、レイン。あなたを救えなかった。グリムも救えなかった。ライラとベスも……助けられなかった。二人とも……私よりも年下だったのに……」


 傷だらけで、息も絶え絶えになりながらも、ジャンヌは己の無念と後悔を響かせた。


「私が……私が愚かだったわ。私のせいで……この場所に……封じられることになって……本当にごめんなさい……レイン」

「……」

「この封印がいつまで続くかわからないけど……必ず……必ず……破ってみせるから。あなたも……自由にしてあげるから」

 

 その響きはレインにもはっきりと聞こえた。無念と後悔に苦しんでいるのは、ジャンヌだけではない。


「私にも……もっと力があれば……みんなを……助けられたのかもしれない、こんなことにはならなかったのかもしれない」


 グリムも己の抱いた思いを吐露する。


「でもジャンヌ、私がいる……だから、どうか、憎悪に……負の感情に呑まれないで欲しい。少なくとも私は、ジャンヌを恨んではいない。みんなもジャンヌが大好きだったから……」


 悔いるような口調から、優しげな口調へと変わっていく。


「私がいるから……ジャンヌ、百年でも千年でも……一緒にいるから……自分を責め続けないでくれ……」


 魔女狩りは、この後数百年続く。


 永劫に続くとも思えた長い長い地下牢での封印の中、レインの存在と会話はジャンヌにとって、暗闇を照らす灯火のような、救いであった。そのおかげでジャンヌは、狂気に、聖十字教に対する憎悪に呑まれずに、人間性も理性も失った化け物のようにならずにすんだ。




 ジャンヌは長い抵抗の末に、自力で封印を解くことに成功した。その頃には憎むべき魔女狩りもなく、それによる犠牲者もいなかった。だが滅ぼすべき聖十字教は存在していた。


 復活したジャンヌを前に、天導騎士団の悪魔使いが、イフリートとゼパルをけしかけてきた。イフリートが元英雄だと判明したのは、イフリートとレインが顔馴染みだったことが理由である。イフリートはヴァルハラに招かれた戦士の中でも最強であった。


 レインは、かつてグリムから教えられた方法で、魔霊であったイフリートに、正気を取り戻させた。本来、魔霊となった他のヴァルキリーとの対峙を想定して備えた知識であった。


 相変わらず聖十字教は、邪悪であった。他の神やその子孫である英雄を、その権威を貶めるために聖典の中で悪魔化させる、という一神教の仕組みは狂信と独善に満ちていた。悪名でも何でも広めて、今も存在しているかわからない、レインの姉妹を探すために、ジャンヌは再び聖十字教に牙を剥いた。


 そして現在に至る。


 

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