第40話 悪意の始動
「ギャッ!?!?」
ジャンヌが絞められる鶏のような甲高い声を出して、一瞬だけ魚のように跳ね、口から水を噴水のように吐き出した。目の前には空が広がり、背中には柔らかい砂の感覚がある。身体は動かないし、ビリビリと痺れる感覚がある。
「お〜生きてた〜、よかった〜」
ジャンヌの足元から、安心したボルクスの声が聞こえてくる。二人はちょうど、キング、クイーン、ジャックのトランプの柄のように、斜めに並んで仰向けになって砂浜に倒れていた。
「『生きてた』って、普通溺れかけた人間に電撃なんか浴びせる!?」
ジャンヌは首すら動かせず、空に向かって声を張り上げることで、ボルクスに抗議の意志を示していた。
「大丈夫だって、俺も何度か自分で自分の雷浴びたことあるから」
ボルクスは雷霆拳や、雷血流を鍛錬する過程で何度もしたことをジャンヌにケロッと伝えた。
「そういう問題じゃないでしょ!? ったく今どういう状況なのよこれ」
ジャンヌが、意識が途切れる直前の光景を思い出す。確か自分は海の底に向かって沈んでいたはずだ。
「いや〜、雷血流を解除してから、反動で身体に物凄い負担がかかってさあ、その状態でジャンヌを抱えて泳いだもんだから、もうこれっぽっちも体に力が入んないの! さっきの起こすための雷でマナもすっからかんだ!」
ボルクスは少しでも体の疲れを紛らわすため、変なテンションになっていた。ジャンヌは呆れ果て、自分一人だけわめいても無駄だと思い、息をつく。
「奇遇ね、私もゲーティア使ったから似たようなもんよ」
「なんだそうか! ウケる! ワーッハッハ!」
少し前まで激闘を繰り広げた相手に対して、声を上げて笑った。そんなボルクスにジャンヌは神妙な声を投げかける。
「……何で私を助けたの?」
ジャンヌの問いに、ボルクスの笑い声がピタリと止まる。
「ジャンヌがあの子供を助けた理由と同じだ」
「何よそれ……」
口では悪態のようなことを言いつつも、ボルクスが平然と言い放ったその答えを、ジャンヌはゆっくりと飲み込む。
「……ありがとう」
ジャンヌはそう言いながら、ほんの少しだけ表情を緩めた。しかし直後、自分の置かれている状況に頭が回り、複雑な心境になった。
「助けてくれて嬉しいけど……この後、私はどうせまた封印されるか……殺されるか……魔装か、使い魔辺りになるわね……」
殺される、ようするに処刑と、マシューが持っていた、悪魔の身体自体を武器にした魔装、アタランテとアキレウスがなっていた使い魔はわかったが、一つよくわからない単語があった。
「封印……?」
自然と頭の中に引っかかった単語をボルクスが呟いた。
「忘れてちょうだい」
口が滑ったことを自覚したジャンヌが、早口で忠告するように言った。封印という言葉の意味を正確に話すことは、自らの素性を、魔王となった因果を話すことになる。この事実は知っているというだけで、聖十字教に消されかねない。
「私はどうなってもいいから……レラージェを、レギンレイヴのことを頼めるかしら……私じゃ結局、あの子に何もしてあげられなかったから……」
「レギンレイヴ……あの仮面を被った女か」
レギンレイヴという名前を慎重に舌に乗せ、レラージェという名前と頭の中で比較するボルクス。自らの本当の名前であるボルクスと、悪魔としての名前であるモラクスとの関係性が頭をよぎる。
「そう、レギンレイヴは真名で、レラージェの方は魔名よ」
やっぱりか、と心の中でボルクスは呟き、ジャンヌの次の説明を待った。
「あなたとは別の神話体系の、戦乙女という種族の出身なの。私たちにはレギンレイヴの同族を探すという目的もあった。彼女も他の戦乙女たちも、みんな今の時代では悪魔化されたことを知ったから、悪名でもなんでも広めて、向こうから見つけてもらおうとしたの」
「……」
「あなたにこんな頼みごとをするのは本当に勝手だけど……お願い、代わりに戦乙女を探せとは言わないけど、レギンレイヴだけは……」
ジャンヌの声は次第に切実さを帯びていった。リズとレアの時とはわけが違う。かなり遂行するのが難しい頼みごとだったが、ボルクスの思考は既にどうやるか、という方法を探っていた。モードレッドに丸投げするのは論外。しかし、あの二人の協力があれば可能かもしれない。レラージェと同じく、あの二人の処遇についてジャンヌがどういうことを望んでいるか、聞く必要もあった。
「ゼパルとイフリートは?」
ボルクスの出した名前に、ジャンヌは少し沈黙した。レラージェのことで思考が埋まっていたからだ。義理一つでここまで付き合ってくれるとは思わなかった。ゼパルにも労いの言葉を言わなければならないと、ひしひしと感じた。
「あの二人は……」
多分、ジャンヌが何も言わなくても、何かの拍子に上手く、しぶとく生き残りそうな、自分がいなくてもなんとかなるような、肝の太い印象のある二人だった。一応ボルクスにその後を頼んでもいいとは思った。
「私が使ってあげよう」
ドゴォォォン! とジャンヌの身体の横に、勢いを持った何かが隕石のように降りかかり、大きな音が発生し、砂煙も高く舞い上げられた。ジャンヌも衝撃によって、小石のように吹っ飛ばされた。
ボルクスの居た場所だ。そこに何かが、誰かが、真上から飛んできた。誰かがと判断できたのは砂煙の中、人影の輪郭が二つ、ボルクス以外にも誰かがいる。
人影が砂煙の中から出てくるにつれて、輪郭以外も露わになる。
「魂は私が餌として食らいこの私の力の一端に、身体の方は魔装として、他者を傷つけ命を奪うための形になってもらう。太古の英雄、その中でも指折りの実力を持つあの二人は、魂も身体も余すところなくこの私が使ってあげよう」
自らの計画を、嬉しそうに、楽しそうに、その声は語る。
「無論君もそうしてあげよう。数百年ぶりだねえジャンヌ、相変わらずの甘っちょろさには反吐が出るよ」
ボルクスの足首を掴んで引きずりながら、マシューがジャンヌの前に姿を現した。ボルクスは既にさっきの攻撃によって意識を失っている。
「マシュゥゥーーー!!! お前えええぇぇぇぇーーー!!!」
マシューの姿を見たジャンヌの表情が、怒りの形相となり、声帯が焼き切れるほどの叫び声を出した。
「そうそうそれそれ、そういう憎悪と怨嗟を聖十字教徒に対してもっと振りまけばよかったんだ。この島にはもっともっと死が溢れていると思ったんだがなあ。せっかく復活できたというのに、誰一人として殺していないとは、魔王の復活としては絵面が地味すぎる」
激しい怒りを前に、マシューは涼しい顔をして、飄々とした口調でジャンヌを見下ろした。
「そう、誰一人として殺せてはいなかった」
マシューが一段と低い声を出し、引きずっていたボルクスの身体を棒切れのように振るい、ジャンヌの身体に叩きつけた。ゴキ、と頭と頭がぶつかり合い不快な音がジャンヌとボルクスから鳴り響く。
ジャンヌが沈黙したが、それでもなお僅かに意識があることを確認し、言い聞かせるような口調で喋り始め、ジャンヌとボルクスの周りを歩き回る。
「聖十字教を、信仰を、神を否定したいのならば、お前は男も女も、子供も老人も、闘える者もそうでない者も、信徒であるのなら、なんの区別も例外もなく全てを殺し、屍の山を築き上げるべきだった。この島の信徒の屍の山を、神の不在の証明とすべきだった。今まで聖十字教が散々異教徒異民族を相手にそうしてきたように、同じように信徒の血と肉で世界を汚し、恐怖で信仰を塗りつぶすべきだった。神の名の下に聖十字教が繰り広げてきた虐殺以上の虐殺を、魔王ジャンヌの名の下に繰り広げるべきだった。惨たらしい歴史に、より惨たらしい所業で幕を引くべきだった。私ならそうする。聖十字教の何もかもを闇に葬り去りたいのならな」
低い声で平然と、己の邪悪さを、マシューは露わにしていく。
「それがなんだ。実にくだらん、くだらんなぁ~。あの時みたいのを期待していたのに、誰一人として殺さんという、クソの役にも立たない人間性を未だに持っているなんてなぁ~。聖十字教という世界最大の宗教を滅ぼしたいんなら、名も知らないどこぞのガキを、眉一つ動かさずに踏み潰して殺すような残虐性と冷酷さ鬼畜さを持ち合わせているべきだろ~?」
口が裂けるような凶悪な笑みを浮かべながら、マシューはぐりぐりとジャンヌの頭を踏みにじる。
「一人も俺の餌となる死者が出ていないのなら、それはそれでやりようはある。よく見ていろ。貴様のやり方なんかより、よっぽど効果的かつ効率的に、神の威厳を地に落としてやろうじゃないか。見物だぞ、物言わぬ神への信仰が生み出す人間どもの狂気は」
マシューは最後に、ジャンヌとボルクスから離れて内地の方を向き、込み上げるものを抑え切れないように、笑い出した。
笑うマシューの背後、ジャンヌの瞳が、かさぶたになりかけた血のような濁った色になり、横に倒れているボルクスの顔を見た。マシューの奇襲に何が起きたかもわからず、血を流しているが、痛みさえ感じる間もなく昏睡したような寝顔が仰向けになっている。
体に残された最後の力を振り絞り、ジャンヌは傷を労わるように、ボルクスの額にそっと触れた。
ジャンヌは例え自分が力尽きても、ゲーティアを含めた自分の全ての力をボルクスに受け渡すつもりであった。マシューは自分以上に、この上なく危険な男だ。野放しにしておけばレギンレイヴのみならず、全ての人類にとっての災いの種となる。
(優しい騎士様……お願いします……私の力も、魂も、存在に関する全てを差し上げます。だからどうか、立ち上がってください。あの子を守ってください。私を倒したように、あの男を倒してください。それが叶うなら、私はどうなっても構いません。だからどうか……願いを聞き入れてください……私の……私の騎士様)
大切な人を想う、誰かの懺悔にも似た言葉がボルクスの頭の中に流れ込んでくる。言葉と共に、想いと主に、誰かの記憶が一瞬で、大量に頭に流れ込んでくる。まるで自らがそこにいるような鮮明な記憶だった。
時間にしては数秒も満たない。だが、ボルクスは確かに、ジャンヌの記憶を見た。魔王が生まれた因果を見た。




