第39話 人の心に寄り添う術
アンナは広場から離れた場所で闘いつつも、徐々に、その意図がバレないように、広場の中に戻ろうとしていた。
しかし闘っている最中、島全体が異常な気象の変動に見舞われ、二人が闘っている場所も例外なく、暗雲が空に覆われ、突風が吹き、豪雨が降り注いだ。
自然と二人の闘う手がいったん止まった。急激な天候の変化に不自然さを覚え、眉根を寄せるアンナの前で、レラージェが空を見上げ、雨粒を顔で受けながら、何かを察したように笑い出す。
「これは……ゲーティアか……これを使うほどの相手とは珍しいが……こうなった以上、あのボルクスという騎士も終わりだな」
フン、と鼻で笑い、ジャンヌの勝利を信じ切っているレラージェに、アンナは特に焦ったり、ゲーティアに露骨に怯えたりすることはなく、真顔で返事をする。
ゲーティアは厄災王という二つ名を持つほどに強力な悪魔だと、恐れらていたが、アンナはボルクスが負けるとは少しも思わなかった。
神聖書の中で仰々しく、読む者に恐怖を与えるような描写をされた悪魔より、自分の回復魔法を認めてくれたボルクスの方が、よっぽど信じられた。
そこにいるという実感があった。頁に書かれた文字列よりもよっぽど、胸の内が満たされるような言葉をもらった。ボルクスの勝利を信じる理由はそれで十分だと思った。
「だからなんだって言うんですか、察するにジャンヌが奥の手を出したくらいでしょう? ボルクスさんの断末魔が聞こえてきたわけでもないのに、勝手に負けたと決めつけるのはやめてもらえませんか?」
アンナの返事に、レラージェの口元が不快感に歪み、白い歯を剥き出しにして、襲いかかった。大鎌を軽く振り回し、周囲の木々をものともせず切り倒しながら、アンナをも切り裂こうとしている。
「いちいちムカつくやつだ。貴様が今生きていられるのは、貴様の聖職者としての人物像が、聖十字教徒どもの精神支配に利用できると、ジャンヌが判断したからだ! そうでなければ、お前の首なんぞとっくにこの私がはねてやったんだ!! あの騎士もイフリートを倒すほど強かったが、ゲーティアを解放したジャンヌに勝てるはずがない!!」
やがて豪雨、暴風の他に雷鳴が轟くようになった。しかし、アンナは雷の音にも光にも、激昂しているレラージェにも、少しも臆することなく、レラージェの怒号に、怒鳴り返し、大剣を振るって反撃した。
「私だってボルクスさんを信じています! あの方が、あれほど強い方が負けるはずありません! 相手がイフリートだろうが、魔王ジャンヌだろうが、ゲーティアだろうが、何でもないような顔して帰ってくるんですよ!」
木々の間を行き交いながら、アンナの大剣が、レラージェの大鎌と何回もぶつかり合う。どちらも身の丈よりも大きい得物であるため、衝撃音や飛び散る火花が凄まじい。
「ほざけえぇぇぇ!! 唯一神信仰の次は英雄信仰か!? 貴様のボルクスへの信頼も! 唯一神ジェネシスへの信仰も! 貴様の抱える観念はどれもこれも無根拠かつ楽観的なものだ! 所詮自分一人の力で生きることのできない弱者が作り上げた虚構だ!」
レラージェの怒りと共に、攻撃が苛烈さを増していく。防御にもかなりの負荷がかかり、手、腕、肩が悲鳴を上げ始めた。
「例え虚構であったとしても! 私にとってはすごくすごく大事なものですから、絶対に壊させはしません! ボルクスさんが魔王ジャンヌを倒すように、私もここであなたを倒します!」
「貴様ごときの力が……この私に敵うかあぁぁぁーー!!」
レラージェが肩の筋肉を全力で使い、大鎌を円盤のように回転させるように投げた。回転は凄まじいスピードで、アンナの肉眼では逆に遅く回転しているほどに見えた。
早く、鋭い音を立てて風を切り、丸鋸のように回転しながら迫ってくる大鎌を、アンナは大剣でなんとか受け止めた。
しかし、大鎌の勢いと重さが凄まじく、踏ん張ってはいたものの、身体が大剣ごと押され、ずるずると二つの線上の足跡を残しながら、後ろに滑っていく。
長い距離を滑り、大鎌の投げられた勢いは止められ、アンナの立ち位置もこれ以上押されて後ろに滑ることは無くなった。しかし大鎌の回転自体はまだまだ収まっていない。回転が自然と止まる前に、アンナの両腕が筋肉の酷使によって千切れそうだった。
「この場所は……!!」
背後に熱を感じ、振り返ったアンナは絶句した。いつのにか、背後には火が迫っていた。
闘いながら、広場の中央まで戻っていた。背後の火は、ジャンヌが聖十字教に関する色々なものを焼いている火だ。大きく燃えて盛る炎の塊は、雨風の中にあっても、以前と変わらず燃えている。
ジリジリと、服の背中の部分が、炎の熱で焦げるほど、アンナは背後の炎と肉薄する。
「私は……私はここで負けるわけには……!!」
筋肉に負担がかかり、がくがくと両腕が震えるようになっても、アンナは力を振り絞り、回転する大鎌に耐え続けた。
「終わりだ」
冷淡な声だった。追いついてきたレラージェが大鎌の回転の速さをものともせず、大鎌の柄を掴み、アンナに切り掛かった。
レラージェの斬撃が命中したのは、大剣だった。一見攻撃を、防いだかのように見えた。アンナは傷つかなかったが、受け止めた衝撃で身体が後ろに飛んだ。火の中に、背中から倒れ込んだ。
焼けろ、とレラージェの口がそう動くように、アンナには見えた。身体が炎の塊に飲み込まれる。かつて魔王の勢力によって散々投げ込まれた、神聖書のように。
「ああぁぁぁぁぁ……!! 熱いぃぃ……!! 苦しい……!! 息が……!!」
炎に火を焼かれ、熱気を吸い込んだことで苦しそうな、死にそうな声が、炎の中から、上がってくる。
「ジャンヌのこともあるから生かしておいてはやるが……今後二度と私に生意気な口が聞けんくらいには痛めつけてやる……!!」
火の中で悶えるアンナを見下ろし、レラージェは凶悪とも呼べるような表情で笑った。
「良い眺めだ……貴様ら聖十字教は火炙りの刑が好きなんだろう? その身で味わう気分はどうだ?」
レラージェがより近くで、アンナの体が燃える様を見るために、炎の塊に無防備な足取りで近寄る。聖女が奮闘虚しく燃える姿を目に焼き付けるために。
「……!!」
アンナの身体が、炎に包まれながら飛び出してきた。熱さに耐えかねて、炎から逃れるために出てきたわけではない。タイミングを見計らっての、レラージェに対する奇襲であった。黒く汚れたその手には、抜き身で鈍い光を放つ剣が握られている。
「こいつ……!!」
完全に虚をつかれ、目を剥くレラージェ。アンナは聖剣を腰だめにし、体ごと体当たりのような勢いで、レラージェに突進した。体重の乗った剣がレラージェの腹に深く突き刺さる。
そのまま、アンナはレラージェに覆い被さるようにして倒れ、さらに深く、腹に剣を突き刺していく。剣が肉をズブズブとかき分け、レラージェが血を吐いた。血はアンナの身体を包む炎にかかり、ジュッと音を立てて、蒸発する。
アンナはレラージェの四肢が動かなくなったのを確認して、剣から手を離した。
それからようやっと、アンナは燃えている自分の修道服を脱ぎ捨て、アンダーだけの姿になった。頭巾も脱ぎ、アンナの豊かな青い髪が露わになる。
「な……んだ……これは……」
仰向けに倒れ、身動きのできないレラージェが、眼球だけを動かして、自分の腹に刺さっている剣を見た。
「それは……いわゆる聖剣です。祝福を受けた銀で製造され、悪魔相手には絶大な殺傷能力を持ち、この通り長時間火の中にあっても何不自由なく使えるほど、耐久性も優れています。この島に悪魔なんてほとんど出ませんから、普段は教会の奥に安置されていたのですが、ここまで運んだのは他でもないあなたたちです」
アンナが火傷によって変色した顔でレラージェを見下ろした。声も無茶な作戦を実行したことにより、消耗しきっている。
レラージェが記憶をたぐり、その剣を誰がいつどのように運んだのか、思い出そうとしたが、燃やしたものが多すぎる故に、結局わからずじまいだった。自分で運んだという墓穴を掘った可能性すらある。
「お前は……なぜ……焼かれたのに……私を刺せた……」
「私は燃える皮膚や熱気にやられた肺を、魔法で回復させながら、聖剣を探しました」
とはいっても、アンナも完全に傷を回復できたわけではない。インナーの隙間から露わになった肌には火傷の痕がいくつもある。
アンナが崩れるようにひざまずく。指を交互に交差させるように、両手を組み、目を瞑って祈りの姿勢をとる。
「神よ……どうか……」
この者に救いを、続けようとしたその言葉が、獣の咆哮のようなレラージェの声に中断される。
「祈るなあああぁぁぁぁー!! 貴様らの欺瞞と矛盾だらけの世界観を、他でもないこの私に押し付けるなあああぁぁぁー!!」
傷を負いつつも、丁寧に行われるその動作を見た瞬間、レラージェは烈火の如く怒り、叫び出す。アンナは突然の大声に驚き、体をこわばらせつつも、レラージェを見た。
「貴様らの信じる死後の世界など、絶対に御免だ!! 天国にだって行きたくない!! 魂が粉々に砕け散って、私の存在が全て何もかも無になる方がまだマシだ!! 私たちから全てを奪ったお前らの神の顔なんざ見たくない!! だからこの私に祈るなぁぁ!!」
体を剣に貫かれたにも関わらず、傷がさらに広がることを微塵も気に留めず、レラージェは大声でまくし立てる。アンナは祈りを止め、レラージェの怒りをただただ見ているしかぬかった。
「私たちは……私たちの魂が還る場所は……地獄でも天国でもない……ヴァルハラなんだ……みんなヴァルハラにいたんだ……お姉様たちも、お父様も、戦士たちも……みんなみんないたのに……お前らが……!! お前らの神が……!! 私たちから何もかも全部……!!」
やがてその声は悲痛さを浴び始めた。傷だらけの体で、無茶をして大声を出した代償が、遅れてレラージェに降りかかり、声がだんだんと細くなっていく。
「……わかりました」
レラージェの怒りの原因はわからなかったが、怒り自体は受け止めたように、アンナが低く声を落とした。
「本当は私も全部……わかっていたんです……本当は全知全能の、私たちを救う唯一神なんて……そんな都合のいいものはいないって……」
あれだけ信じる神をもの呼ばわりしたアンナに、レラージェは目を点のように丸くする。
「正直に言います。神の子や聖人たちの物語は信じていますが、神の存在自体は信じていません」
平然と言い放つアンナに、やはりレラージェは驚いたが、胸の内の疑問をぶつける。
「だったら……なぜぇ……!!」
アンナが、血走ったレラージェの目を見る。憎しみも敵意もなかった。
「それでも……私たちには神が必要なんです。人間は弱いから……誰かを失った悲しみに、耐えられないから……その悲しみを拭い去るために、神が居なくとも信仰が必要なんです、宗教とは……そういった人の心に寄り添う術だと、私は思います。弱い者が神への信仰なしで生きるには、この世界はあまりにも悪意や理不尽、暴力が蔓延っています」
アンナの静かな口調が、レラージェの胸の中で燃え盛る、怒りの炎を鎮めていく。
「私も両親に捨てられて、孤児院で育ちましたから、信仰のない生活なんて考えられないんです。この命は神……いえ、神の教えを受けた人間に拾っていただいたものですから、私は……私だけは信仰を捨ててはならないんです。聖十字教に生かされた私の命は……次の命に継がなければならないんです」
「……」
「聖十字教があなたにどんな仕打ちをしたのか、私にはわかりませんが、聖十字教には血生臭い歴史があることを知っています。あなたがそこまで拒絶するのなら、祈りはしません……」
アンナが組んでいた手を解く。
「祈りませんから……内緒にしてくださいね。私がさっき、あんなことを言ったなんて」
「私が言ったところで……他の奴らは絶対にいつものアンタの信じて……耳を貸さないだろうよ」
アンナが火傷を負った顔で少し、困ったように笑った。この女は自分が思っていたよりも遥かに芯が強い女だとレラージェは理解し、もうそれ以上何も言い返せなくなった。
確かに聖十字教徒には恨みはあったが、少なくともこの女にその恨みをぶつける気はなくなった。都合の良い聖典の中の美辞麗句だけ盲目的に信じているわけではない。時に信じる者の命すらかき消すという、聖十字教の闇も全て受け入れた上で、アンナは信仰を続けている。その器の大きさを、レラージェは深く心に刻み込んだ。
諦めたように目を瞑るレラージェ。アンナはゆっくりとレラージェの腹に回復魔法をかけながら、剣を抜いていく。
「!! 何を……!!」
「ジャンヌに……借りを返しているだけです」
何のことだ? とでも言いたげな表情をするレラージェをよそに、アンナは時間をかけて、剣を全て腹から引き抜いた。引き抜いている最中も、完全に抜かれた後も、回復させながらだったためか、痛みはほとんどなかった。
極度の肉体的疲労と火傷や外傷、そしてマナが底を尽き、アンナはレラージェの横に倒れ込んだ。
「……今の私ではこれが限界ですが……少なくとも、さらに傷が増えない限りは、お腹の傷はこれ以上酷くなることはないでしょう……お礼ならジャンヌに言ってくださいね」
アンナはそれだけ言い残すと、レラージェの返事を待たずに、無防備にも眠りに落ちた。
一方的に治療されたレラージェも、肉体が損傷からの回復を図るため、眠りを選んだ。
広場の中央の、アンナとレラージェの近くの炎が、三人の寝顔を照らしながら、燃え盛る。
イフリートのいびきが一番うるさかった。




