第2話 竜殺し再誕
大量の追手から逃げている時は耐え難い絶望感と無力感で心が押し潰されそうだった。あの男がそれを吹き飛ばしてくれた。代わりに沸いて出たのが一抹の不信感と不安、あの男は敵か味方か。
信用できるのか、できないのか答えの出ない二択を選ぶ中で気を失う寸前の光景を思いだし、そこから判断材料を探す。大丈夫か、という声は底抜けに優しい声だった。
しかしそれは、打算ありきのものではなかったのか。そんな疑惑が拭えぬほど、少女の精神は追い詰められていた。
彼が私に声をかける時、どんな顔をしていたのだろう。暗くてよく見えなかったが、せめてそれさえわかれば。声音とは裏腹に追手達と同じような、獲物を見つけたケダモノのような目をしていなければよかったが…。
藁にも縋るような考えで泥のように眠った。精神はどうであれ、身体は休息を求めていた。
初めに、少女の意識だけが目覚めた。体も瞼も未だに重い。耳にはグツグツと何かを煮る鍋の音が聞こえてきた。そこから感じられる暖かさが、ほのかに心地よい。自分の身体には、何か柔らかいものが布団替わりに掛けられている感触がある。
ゆっくりと上半身を起こし、瞼を開けて周りを見渡す。岩天井と岩壁、洞穴の中で眠っていたのだと、まだ起きかけの頭で理解する。
「気がついたか…」
焚き火のそばに追手二人を瞬殺した男が平たい石を椅子にして座っていた。朝日に照らされたその顔の下半分には大量の食べカスがへばりついていた。その足元には仕留めたと思われる大量の、イノシシやらオオカミやらの動物の骨が転がっている。布団替わりに体に掛けられていたのはその皮だった。横になっていたところ以外に足を置く場所がない。何をどうすればその体の中にこれだけの量が入るのか、男の体積を確実に超えるであろう肉の量、ありえんくらい大量にある。一つの村単位で宴でもした後のような量である。森の生態系を丸ごとぶち壊したかのような所業に少女はドン引きした。
「食うか?」
男は手に持っていた何の動物のどの部位か、よくわからない骨のついた肉を見せた。
「いえ…」
「そうか…」
男が少し寂しそうに答えると、鍋の中をかき混ぜる。胸焼けするような肉の焦げる匂いが漂う中でその鍋から出てくる匂いは少女の食欲をくすぐった。
「これは食え」
そう言いながら男は木の皿に鍋の中身をよそい、匙と一緒に差し出す。具材は森の中でとれるキノコやら山菜なでどである。意外にも肉がない。
「安心しろ。素材は生で食っても大丈夫だったやつしか入れてない。調味料は昨日ぶちのめした奴らが持っていたやつだ。最低限食える味にはなったと思う」
少女は恐る恐る皿と匙を受け取ると、一口、スープを口に運ぶ。ほんのりしょっぱい。気絶していた時間を含むと丸一日以上、何も口にしていない。体中が栄養を求めていた。よく噛んで飲み込むと死にかけの身体が蘇ったような確かな満足感が得られた。その一口を皮切りに体にさらなる栄養を送り込むために少女は黙々とスープを口に運んだ。
「食べながらでいい、聞いてくれ。といっても俺の方にも聞きたいことが山ほどある。君は誰なのか、なぜ追われていたのか、ここはどこなのか。俺がなぜここにいるのか、昨日の奴らがさも常識のように語っていたことも、あのマークも騎士団とやらもなにもわからん。まるで異世界に転移したような気分だ」
少女はスープを飲み干して、空になった皿を脇に置くと、男の方に向き直り、恭しく自己紹介をする。
「私は、リーゼロッテと申します。リズとお呼びください。…その…あなたの名前は?」
男は名前を聞かれると嬉しそうに腕を組み、鼻息をフンと鳴らす。
「俺の名はボルクス。大神ゼウスとスパルタの王女レダの息子にして、ディオスクロイの片割れ」
ボルクスの名に反応しリズの瞳孔が小さくなり、ボルクスの全身をねっとりと見回す。青く逆立ったツンツンの髪、切れ長の目に長い睫毛、すらっとした鼻にがっしりとした顎、青白い衣の上からでも十分に分かる鍛え上げられた筋肉、即ち美丈夫。ボルクスの姿形とリズの記憶の片隅にあるもの、両方を頭の中で比べ合わせながら、震えるような声で呟く。
「成功しました…」
「なんて?」
「いえ、何でもありません。まずは先ほどの質問すべてに答えます! どの質問からにしますか?」
どの質問から、ボルクスは頭の中でリズの言葉を反芻すると数秒間考えた。
「なぜ俺はここにいる?」
リズもその質問にどう答えたらいいのか、考えた。答えはかなり複雑で、どう説明すればいいのか決めあぐねていた。
「驚かないでください。なぜあなたがここにいるのか…私は貴方を、悪魔として召喚しました」
「…」
ボルクスの目の前も頭の中も心も全部真っ白になった。困惑という言葉すら生ぬるい衝撃の言葉に何もかもが打ち砕かれたような感覚だった。
「ですが私は、あなたの出自については把握しています。大神ゼウスの御子であり、アルゴナウタイに参加していたことも…そして最期にイダスとリゲルと闘って…双子座という星座になったこともちゃんと知ってます」
リズの言葉で、ふとボルクスは我に返った。一気に飲み込もうとせずに自分のわかることから理解していこうと決めた。
「じゃあなぜ悪魔と?」
そこが一番ボルクスにとって気になることである。英雄として後世に語られるために兄カストルと一緒に死を選んだにも関わらず、悪魔として語られるとは、自分の人生を全否定されたにも等しい。
「今の世界ではそうなっているんです…やはり最初に私のことを全て話したほうがよろしいでしょうか? 質問はその後に」
「頼む」
リズは一呼吸置くとボルクスの理解が追い付くように、ゆっくりと話し始めた。
「私にはレアという友達がいたんです。どんなときも一緒でした。財産は残されていたものの、両親を早くに残した私は同じような境遇のリタと一緒に暮らしていたんです。彼女はいつしか未知の世界と上古の歴史に憧れを抱き、冒険者になりました。私もそんな彼女に憧れて、同じように冒険者になりました。二人で一緒に自分たちの知らない世界の、生き物であったり、文化であったり、歴史であったり、色々なことを絵や文字で記録して、本にして売って…それを生業にして生きていこうって二人で決めたんです」
リズの言葉が次第に熱を帯び始める。
「最初に出そうとした本は大昔の双子の英雄についての物語でした。雷神の不貞によって生まれて、黄金の羊の毛皮を探す船旅に参加して…最期には星となった英雄の話」
「え? 俺?」
「はい、私がたまたま文献の残された遺跡を発見しました。ですが…そのせいで…本を出版しようとしたせいで…レアが処刑されることになりました」
「…」
「私にも…最初は何故死刑になるのか訳がわかりませんでした。たった一冊の本で死刑だなんて、絶対におかしいと思いました。決して特定の人物や物事を貶める内容ではありません。大昔の文献とそこから推測される事実を客観的に記しただけのもので、何の主義主張もありません」
「しかし、問題はこの国の国教…アルマ神聖帝国の宗教、聖十字教でした。約1000年前磔刑台にかけられて処刑された後、三日後に復活した神の子を開祖とする宗教です。聖十字とは神の子にあった十字の傷のことです。昨日の二人が見せたものはそれを元とするシンボルマークです」
「聖十字教は一神教です。原則として他の神と宗教の存在を認めません。私も遺跡を発見するまでそれらの存在すら知りませんでした。文献は何千年も前のもので、双子の英雄の親の雷神を始めとする多くの神々への信仰は既に失われているものだと思いました。」
「一神教の邪悪さを見誤ってました。大昔の物語、失われた信仰であろうと、聖十字教は私とレアを悪と断じました。天にある双子座はカインとアベルを模したものでそれ以外は全てまがい物であると。私が文献を見つけたにも関わらず、レアは一人で全ての責任を取るつもりでした。だとしても、私は死刑なんて全然納得できません」
「…だからレアを助けるために必死で調べました。表には決して出てこない聖十字教の歴史と大昔の英雄の物語をより深く…レアに死刑判決が下された本当の原因はそこにあると」
「結論から言います。聖十字教に正義はありません。大昔の神々の信仰は失われたのではなく、他でもない聖十字教が闇に葬りました。一神教は私の想像を遥かに超えて醜悪な歴史を刻んでいました。自分たちの神と信仰を唯一無二の絶対と信じ、他の宗教や神々は存在すら許さず、唯一神に仇なす悪魔として扱いました。太古の神々もその血を引く英雄も、全て聖十字教では悪魔としての名前を聖書に刻まれて伝わっているうえに、彼らのなした偉業だけが聖十字教の聖人がなした偉業だと名前だけがすげ替えられたケースもあります。先ほど言ったとおり、今の双子座もカインとアベルを表したものでこの国のほとんどがそう信じています。逆にあなたは聖十字教では…モラクスという名前の悪魔です。これもこの国のほとんどの人間がそう信じています。」
「…それで俺を悪魔として召喚した。という台詞に繋がるわけか。ボルクスをもじってモラクスか、他のやつもそんな感じか?」
「はい…悪魔としての名前…魔名はほとんど蔑称に近いものです。例えば古代ペリシテ人が信仰していた最高神バアルゼブルは元々、気高き主という意味の名前でしたか、魔名はベルゼブルといい、糞の王を意味します」
「…モラクスの意味は聞かんことにする。なんか頭痛くなってきた」
「今の世界に伝えられている悪魔が元々は神か英雄だったなんて、恐らく聖十字教にとっては教義の根本すら揺るがす最も知られたくない真実なのでしょう…だからレアには処刑で口封じを…こんなのやっぱり納得できませんでした。だからレアが処刑される前に私は彼女を助けようとして…」
ボルクスの頭に流れ込む衝撃的かつ大量の情報、それを一つ一つ整理する。
「国がひた隠しにしている知ったらヤバいような、真実を偶然友達と知ってしまって、友達が命をかけて庇ってくれたけど、それを見過ごせなくて、助けようとしたけど脱獄に失敗して騎士団に追われて、追い詰められて土壇場で俺を召喚したわけか?」
「はい、そうです。…ですが正直やぶれかぶれでした。モラクスがボルクスさんであると聖十字教の歴史と文献を見て仮説を立てていましたが、その時はまだ確信がなかったので、言葉の通じない、化け物を召喚するつもりでした。騎士団に所属する悪魔使いはそういった悪魔を使役すると聞いたことがあったので」
「そういえば騎士団って何だ?」
「正式名称を天導騎士団といい、聖十字教直属の警察、軍事、治安維持組織です。私を追いかけていた連中はその末端の下級騎士です」
「なるほどな…大体わかった」
ボルクスが立ち上がり、身体全体をほぐすように伸ばしながら、洞穴の外にでて陽光を全身で浴びる。リズの方を振り返らないまま、会話を続ける。
「いかに清廉潔白に生きた善人であろうと、世に蔓延る悪意や理不尽ってのは容赦なく襲い掛かる。」
リズの方に振り向いて、真っすぐに視線を向ける。逆光。背負った朝日の光よりなおも明るく輝く鋭い眼光がそこにあった。
リズが、友達のレアのことを話す時は本当に嬉しそうであった。その様相にはボルクスにも身に覚えがある。自分が兄カストルのことを他人に話す時に似ていた。友達とも姉妹ともいえるような関係性にボルクスは懐かしさのあまり、目を細めて笑う。
「だから……」
「何処へ隠れたぁーーー!!!! 魔女めぇーーー!!! 姿を見せろーーー!!!」
二人の会話が突如、怒号によって遮られる。遠くから聞こえる声だが、あまりの大きさにリズは両耳を塞ぎ込む。ボルクスは大声が聞こえてきた方、上空に視線やる。
「俺の可愛い部下二人をよくも!! 下劣な魔術で傷つけてくれたなぁーー!!! 俺の前に出てきて、靴を舐めて詫びろ!! でなければこの森ごと焼き尽くす!!!」
上空。ボルクスの頭上には大きな影があった。人ではない、竜だ。丸太のような胴体からは尻尾が長く伸び、四肢の先には巨大なナイフのような鉤爪がある。翼は胴体よりも横に大きく、竜のシルエットを何倍にも大きく、恐ろしいものにしている。竜の顎は上下に大きく開いている。燃え盛る炎が喉奥から漏れて出ており、今まさに真下に向けて放射されようとしている。
「『騎士の旦那様、薄汚い魔女の私にお慈悲を』と言ってこの俺に媚びろ!! 地面に這いつくばって泣いて命乞いをしろ!!」
竜の背中には人影が見えた。昨日の二人と似た格好、恐らく騎士だ。竜の首にはこれも大きさ首輪がかけられ、そこから鎖が伸びて騎士の手に握られている。竜は四足歩行のタイプで、体高、2メートルほど、生前にボルクスが仕留めた海竜に比べれば、それほど大きいサイズではない。翼がなければ熊より二回りくらい大きいくらいだ。
だが、竜は竜だ。騎士二人とは話が違うのだろう。大義そうに竜を見上げ、拳をボキボキ鳴らすボルクスをリズは引き止める。服の端を掴んだリズの顔は青ざめており、無言で首を横に振っている。ボルクスの服を掴んでいる手すら震えている。
「もう我慢できねえ!! 焼け焦げろぉ!! 阿婆擦れェ!!」
頭上の影が大きく動く気配がした。ボルクスはリズを洞窟の中へ、リズが反応できないほどの速さで突き飛ばすと、思いっきり膝を曲げて、垂直に飛んだ。
跳躍の勢いのまま、竜の頭を蹴り上げる。背に乗っていた男は、急に跳ね上がった竜の頭と、下から怒涛の勢いで飛んできた人影に驚愕した。
竜は一撃で昏睡し、今すぐにも落下しそうである。せめて、人影の正体を顔を目に焼き付けようと、人影の方を睨んだ。
しかし、目に焼き付くのは陽光のみ、逆光で黒く染まるボルクスは、空中で拳を振り抜き、騎士の背中にいる騎士をも一撃で気絶させる。
リズを突き飛ばしてから、竜と騎士を気絶させるまで、数秒にも満たない。
自分は洞窟の中に、突き飛ばされたのだと気付いたリズが、慌てて立ち上がり、外へ出ようとするが、目の前に巨大な物体が大きな音を立てて落ちる。
それが竜だとすぐにわかったが、逃げようとは一切思わなかった。仰向けだったからだ。自分を探していたであろう騎士も一緒に落ちてきて、竜の背中に下半身が下敷きになっている。意識はすでにない。
そして、ボルクスが竜の腹の上に落ちてきた。片膝と拳を支えにして着地し、竜の体が大きく揺れる。
「……だから英雄がいる」
まるで、何事もなかったかのように会話を続けるボルクス。竜の上に立つ太古の英雄を、自分の体よりも何倍も大きい体躯を持つ竜を一瞬で仕留めたボルクスを、リズはただひたすら無言で見上げていた。
階段を下るかのような足取りで竜の体から降り、リズへと歩み寄る。
「今の世界がどうであれ、俺は善良な人間が手前勝手な都合でゴミのように殺されるのは…どうしても許せない。英雄とはそんな人種だ」
「リズ、見返りはいらない。俺と父なる神ゼウスの名誉にかけて、女神コキュートスの名に懸けて誓おう。君の友達、レアは必ずこの俺が助ける」
コキュートス、古代の神話において冥府を流れる川を司り、ゼウスより神々を罰するという権能を与えられた女神である。
その名のもとに行われる宣誓、契約、約束などは例えオリュンポスの神々であっても、破れば絶大な苦痛を与えられる。伊達や酔狂でもない。その名を口に出す意味をリズもボルクスも完全に理解していた。
信仰が失われた今現在ではその権能に効果があるのかどうか二人とも分からなかったが、ボルクスは強靭な決意を表すこととしてその名前をだした。
「本当に…ありがとうございます…!!」
リズの心の中に巣食う絶望感、無力感や不信感までもが完全に吹き飛んだ。救世主とはこのような者のことを言うのだろう。
レアもきっと助けてくれるだろうという有無を言わせぬ信頼感があった。言葉だけでなく心までにも英雄のもたらす安堵感が澄み渡っていく。その感覚にリズは涙を流し何度もお礼を言った。




