第27話 到着
否応なく目の前に立つ者が魔王だと思い知らされた。
ジャンヌと目が合い、顔をひきつらせたアンナの脇腹にとてつもなく早い何かが衝突し、吹っ飛ばされた先で高く土煙と瓦礫を舞い上げる。
「思い上がるなよ雌犬、貴様ごときが如何に力を振り絞ろうと魔王の力の足下にも及ばぬ。不意を突こうが貴様の振るう刃が魔王の命に届くことなど絶対にない」
明確な怒気のこもった女の声と、土煙ごしでもはっきりとわかるほど、冷たく鋭い殺気がアンナに降り注ぐ。魔王ジャンヌの声ではない。
喉の奥から血が吹き出し、脇腹を抑えて、よろよろと立ち上がる。何かが当たった脇腹を見ると、打撲があり、どうやら蹴られたのだとアンナは理解した。
晴れてきた土煙の向こう、人影は三人、ジャンヌとイフリート、そして今アンナを吹っ飛ばしたのは新手の女だ。ジャンヌを守るように前に立っている。
この場において一番奇妙な出で立ちだった。白い衣を身に纏い、頭から悪魔のような小さい翼が生えている。顔の上半分は仮面で覆われていたが、鼻や口だけでも、麗人と思わせるには充分、良い形をしている。
「レラージェ、あんまり痛めつけないでちょうだい。アンナちゃんにはいっぱい、やって欲しいことがあるんだから」
ジャンヌにそう言われると、レラージェは僅かに殺気を引っ込めたが、相変わらずアンナを睨みつけていた。
ジャンヌが友人の名を呼ぶように舌に乗せたレラージェという名前も、悪魔の名前であるとアンナは知っていた。
そして何より、レラージェという悪魔も底が見えないほど強かった。この場に現れた時に食らわされた蹴りには全く反応できなかった。
三人、アンナが刺し違えてでも倒せない人物が三人も目の前に立っている。一人づつ闘っても勝てない、相手が力を本格的に見せる前に、何より自分の体が悟っていた。足の震えも、手の震えも止まらない。
「惨めだな」
レラージェが吐き捨てた。アンナは何も言い返せない。
「どうせ貴様にはもはや何もできない。去れ、助けてもらえない神に祈りながら、この島のどこかでビクビク怯えながら干からびていけ」
レラージェに、何も言い返せない自分に、どうしようもない怒りを覚えた。
その怒りを届かせずとも、ぶつけたかった。アンナはほとんどヤケになりながら、思い切り袈裟斬りをして斬撃波を放つ。
アンナが出来る限りの力を込めて放たれた斬撃波を、一番アンナに近い位置にいたレラージェがいとも簡単に、片手で防いだ。
レラージェは斬撃波を受け止め、四散させた手のひらを見た。多少痛み、痕は残ったがすぐ消えるだろう。大きく鼻息をつき、アンナの方を見たが、その姿はすでになかった。わずかに、自分達から走って遠ざかる足音が聞こえる。アンナはレラージェの言葉通り、逃走したのだ。逃げた先を想像しながら、ジャンヌが小さく笑った。
「かわいいわねアンナちゃんは」
レラージェだけでなく、ジャンヌとイフリートもアンナの逃げた方角を見ていたが、誰一人として追いかけようとはしない。
「ジャンヌ、誰かがこの島に侵入した形跡を発見した」
レラージェの言葉に、炎の方を向いて座ったジャンヌが首を傾げる。名前を呼ばれていないイフリートも二人の会話に意識を向けていた。
「おかしいわね、ゼパルが負けてしまったのかしら」
ゼパル、ジャンヌに仕えている悪魔である。厄介な能力を持つ故に、イフリート、レラージェはおろか、ジャンヌでさえ、まともに闘えば倒すのに手こずる悪魔だ。故にそう簡単に倒されるとは到底思えない。
悪魔ゼパルをジャンヌはこの島の港に配置して、上陸してこようとする騎士を追い払う、番人の役割を与えていた。
「違う、侵入者はこの島の港から上陸したんじゃない。北部にある崖をよじ登って侵入した。崖の下に小型のボートがあるのを見つけた。危険な地形で島民も滅多に立ち寄らないから、発見が遅れてしまった。すまないジャンヌ」
ジャンヌは数秒沈黙した後、冷静に状況を分析し、レラージェに言葉を返す。
「……別にいいわよそれくらい。侵入者は何人くらい?」
「私も直接姿を見たわけじゃないから、正確な人数はわからない。でもボートの大きさからして、そんなに多くは乗れない。当てずっぽうだけど、侵入者は多めに見ても五人だと思う」
「ふーん、そのボートはよく調べた? 何か侵入者の身元がわかるような手がかりはあったの?」
「調べたけど、何もなかったよ。ボート自体は何の変哲もない、漁村ならどこにでもあるようなやつさ」
「この島からは誰も出してないけど、ゼパルが港にいることだし、流石に外部がこの島の異常事態を、全貌は掴めないけど、何となく気づいたかしら。馬鹿で身の程知らずな冒険者が遊び半分の怖いものみたさで来たのなら、放置しても何の問題もないんだけど……イフリート、どう思う?」
炎を見たままのジャンヌが、声だけをイフリートに向ける。イフリートが恭しく体をジャンヌに向け、荘厳な声を出した。
「ガリア島が何かしらの勢力に占拠されたこと、それにより島民が人質に取られている状況を想定して、天導騎士団が少数精鋭を差し向けて来た可能性もあります」
「それよねー、警戒すべきは。向こうの用意した少数精鋭が私たちにとっても雑魚だといいんだけど……」
ジャンヌが至極面倒くさそうに、息を吐く。イフリートがそんなジャンヌの様子を見ながら、話すタイミングを見計らって続ける。
「上陸したのが騎士団であれば、恐らく奴らの優先事項は、生存者の捜索、保護でしょう。上陸した時間によっては今既に島民と接触し、我々の情報を聞き出しているかしれません」
レラージェはこの島に外部の人間を侵入させたことを、自分の落ち度と思い込み、激しく後悔していた。叱られた犬のように沈んだ声と、弱弱しい目でジャンヌを見る。
「ジャンヌ……」
ジャンヌが顔をレラージェの方に向けて、励ますように、軽く笑った。
「レイン、そんなに落ち込まないで。私たちも少数精鋭よ。上陸したのが誰であろうと、ギッタギタにして、この島の哀れな負け犬の群れに加えてあげましょう」
レラージェは無言でこくりと頷く。
「なんにせよ、侵入者が煙を見てここに来る可能性はあるから、私は残るわ。あなた達はゼパルも加えて三人で、侵入者を探して頂戴、見つけたやつが倒せそうだったらそのまま倒してもいいわよ。ただ、強そうだったらマナを高めて位置を知らせること、わかった?」
レラージェとイフリート、二人の悪魔がそれぞれ頷き、この場から一瞬で消えるように、各々の目的に向かって走り去る。
「さて、どうなることやら……」
ジャンヌは再び、燃え盛る炎に視線を戻し、ぼそりと声を地面に落とした。
無力、その言葉がアンナの胸に鉛のように重くのしかかる。魔王ジャンヌを前にして、何もできなかった。自分が必死で鍛え上げだ力も魔王にとっては無いものに等しく、相手は全く本気を出していないにも関わらず、塵芥のようにあしらわれた。
このまま、この島はどうなってしまうのであろうか、答えの出ない問が頭の中を何度も駆け巡りつつ、アンナは魔王ジャンヌから逃げ続ける。誰も追ってこないことを確認しても、そこしれない絶望感がアンナにはあった。何をどうやっても魔王は愚か、その配下の三人の悪魔には勝てそうにもない。
それでも、希望を捨てるわけにはいかなかった。今の自分にはまだ背にして守るべき存在がある。それを前に絶望することはおろか、弱音を吐くことなどもってのほかだった。奥歯を強く噛み締め、顔中の筋肉に力を入れ、負の感情が表情に滲み出るのを押しとどめる。決して弱みを見せてはいけない存在がある。背にして守るべき存在がある。アンナは今、ジャンヌからはある程度離れて木立の中を通る道を走っていた。
「おやおや、魔王ジャンヌ様に歯向かう愚か者がここに一匹、これは見過ごせませんな」
アンナの前に木立の中から人影が三人、道を塞ぐように現れた。この島滞在していた冒険者だが、彼らは魔王ジャンヌが、この島の天導騎士団を瞬く間に、いとも簡単に戦闘不能に追い込んだのを見ると、闘うことすら放棄して、島中を逃げ回った。魔王ジャンヌは彼らが自分に抵抗する意志が無いと見ると、歯牙にも掛けなかった。
冒険者は剥き出しにした上半身を、胸の中心で交差するハーネスベルトをつけている。
三人が、アンナの全身を舐め回すように見る。口ぶりからしてジャンヌの部下のように振る舞っているが、ついさっきアンナはジャンヌから逃げたばかりだ。時間的にジャンヌに命令をされて差し向けられたとは思えない。
ジャンヌは確かに、自分の前から逃亡した冒険者を追うことはなく、歯牙にも掛けなかったが、自分に到底敵わないとすぐさま判断して逃げる冒険者の背中を、唾棄すべきものとして睨んでいた。その厳しい視線をアンナも見ていたので、ジャンヌがわざわざ、冒険者を自分の手駒にするとは思えなかった。
「前々からムカついてたんだよなぁ〜この女。神のみ言葉とかいうクソの役にも立たねえ綺麗事ばっかり言いやがるからよ〜。今のこの状況もその綺麗事で切り抜けられるかどうか、試してみようぜぇ!」
目の前の冒険者は魔王ジャンヌに忠誠を誓ったわけでもなんでもない。魔王の名前をダシに、日頃溜まっていた鬱憤を晴らしたいという、手前勝手な動機でアンナを襲おうとしている。
「あ、あなたたちは自分が何をしているのかわかっているのですか!?」
アンナが怒鳴りながら、下卑た表情を浮かべる三人の冒険者を見回す。
「恥を知りなさい! 闘わずして魔王ジャンヌの犬になるなど、冒険者としての誇りはないんですか!? 道義や道理をまるっきり弁えないその生き方が畜生以下だとは思わないんですか!? 神から与えられた命に相応しい生き方をしようとは思わないんですか!?」
「てめえだって神の犬だろうがぁ雌豚ァ! そのカスみたいな綺麗事ほざく口を引き裂いて頭真っ二つにしてやるぜぇ!」
「おもしれー女! こいつこの状況で信仰を捨ててないらしいぜ! 神なんざ存在すらしねーのによぉ! ギャハハ!」
「他のシスターどもはとっくに気づいてるぜ! 魔王ジャンヌが来てから、この島の天導騎士団はクソの役にも立たなかったからなあ! 聖職者の神への恨み言なんざ飽きるほど聞いてきたぜ!」
荒くれ者の冒険者が斧やら鉄球やらの武器を取り出しなが、ゲラゲラと道化を見るように愉快そうに笑う。
「ぐへへ! もう我慢できねえ! ここでやっちまおうぜぇ!」
アンナは顔をふせ、ただひたすらに奥歯を噛み締めた。自分の故郷をこのような状況に変えた魔王ジャンヌが、魔王ジャンヌの襲来に乗じてこのような暴挙に出る冒険者が、そして魔王ジャンヌの足元にも及ばなかった自分の無力さが、自分が強ければこんな事態にはならなかったのにと思うと、何よりも口惜しい。
荒くれの冒険者三人が、アンナに飛びかかる。アンナは目を伏せたままだ。柔らかそうなシルエットの女の体に、無骨な鉄で作られた武器が容赦なく突き立てられようとする。
振るわれた武器のどれもが、アンナの体どころか、服すら傷つけることはなかった。
冒険者三人は同時に宙に浮かび、目に映る景色は上下が反転している。アンナは見えない、どこに行ったのか、なぜこのようなことになったのか、目の前に起こったことに疑問を抱くまえに、反転した景色を最後に三人は意識を手放した。
「魔王ジャンヌには敵わなくとも、たかだか黄金級でもない冒険者三人くらい倒すのは造作もありません」
倒れた三人の冒険者をアンナ厳しい表情で見下ろしながら、声を落とす。三人に気づかれないほど素早く、アンナは両手剣を振りぬいていた。
「シスターアンナだな」
息をつくアンナの前に一人の金髪の男がどこからともなく現れる。一瞬、新手の襲撃者だと警戒したが、その者の服装を見て瞬時に状況を理解した。天導騎士団の象徴である白い制服を着ている。
「俺は天導騎士団の最上級騎士、雷天士のモードレッドだ。この島に魔王ジャンヌが復活したと思わしき情報を聞き、部下二人を引き連れて駆けつけた」
ああ、やはり神はこの島を見捨てなかったのだ。天導騎士団の最高戦力である四大天士、最上級騎士モードレッドを神はこの島に遣わしたのだ。
「ああ……ああ……ありがとうございますモードレッド様! やはり……やはり神は私たちを見放してなんていませんでした! まさか最上級騎士が救援に来てくれるなんて! これも神のお導きですね!」
アンナが深々と頭を下げて、何回も礼を言い、モードレッドをまるで救世主が降臨したかのように扱う。極度に張り詰め、精神を削っていた緊張感が一気に弛緩し、様々な感情が表情に溢れ出そうになったが、それでもぐっと奥歯を噛み締めて、我慢する。まだ、魔王ジャンヌという脅威はこの島から去っていない。
「しかし、この島にはどうやって入ったのですか? 港にはゼパルという名の、槍を持っている悪魔がいたでしょう? もしやもう倒せたので?」
気体の眼差しでモードレッドを見るアンナ、モードレッドは少し照れくさそうに視線を彷徨わせながら、真剣な表情をアンナに返した。
「残念だがゼパルという悪魔は倒せていない。それもこれも含めて、まず我々には話し合いが必要だ。この島の状況やゼパルという名の悪魔、魔王ジャンヌが本物かどうか、こちらが聞きたいことも山ほどある。まずはメタトロン孤児院で待機させている私の部下と合流したい。よろしいか」
モードレッドの返答にアンナは口を引き結び、無言で頷いた。そして、自分が気絶させた三人の冒険者を見下ろしながら、少し安心した声を出す。
「メタトロン孤児院は私が勤めている孤児院です。この三人も連れて行っていいでしょうか?」
哀願するようなアンナの声を聞き、モードレッドは冷ややかな目で三人の冒険者を見下ろす。
「俺は構わんが、こいつらはシスターアンナを襲おうとしてたんだろ?」
「その通りですが、この島が魔王の手に落ちた状況で、ここで気絶させておくのはあまりにも危険です。あなたに手伝えとは言いません。私が何回か往復してでも孤児院に運びます」
三人の冒険者の体格はどれもアンナより大きい。アンナが三人の内一人を背負おうとするのを見たモードレッドは一瞬目をつむり、息をついた。
「今は時間が惜しい。こいつらにかける慈悲など毛ほどもないが、俺も手伝えば往復なんぞする必要ないだろう」
そう言いながらモードレッドは地面に残っていた二人の冒険者を軽々と両脇に抱えた。アンナの表情がぱっと明るくなる。
「ありがとうございますモードレッド様!」
「卿でいい」
嬉しそうなアンナの声にモードレッドは照れくさそうに俯き、声を地面に落とす。幸い、二人は道中誰にも遭遇することなく、メタトロン孤児院に到着した。




