第26話 魔王ジャンヌ
整った顔立ちが歓喜の形に歪み、炎に照らされ、橙色に染まる。色白の肌も、名馬のような銀髪の長い髪も、炎の光を受けて橙色に染まる。揺らめく炎の最も濃い部分よりも濃い、血のような真っ赤な瞳だけが橙色に染まらず、その色のまま赤く光り、目の前の燃え盛る炎を映し出している。
「んーんー、実に綺麗な景色だわ~。この景色を見られただけでも無駄に長く生きた甲斐があるってものよね~」
銀髪の女、魔王ジャンヌが手に持った酒瓶をあおり、中身のワインをぐびぐびと飲み干す。ジャンヌの目の前には巨大な炎の塊がごうごうと音を立てて燃え盛り、黒い煙が空を切り裂くように、天高く昇っている。
「どうしてこんなことを……」
この島で生まれ、この島で育ったシスターアンナはただただ、自身の無力感に苛まれ、誰に聞くでもなく、ただただ跪き、嘆くように地面に声を落とした。
目の前で焼かれているのは聖十字教の聖典である神聖書が大量に焼かれている他に、この島に伝わる聖十字教の守護聖人、ピエールの肖像画や石像、聖人としての話が描かれた本、身に着けていたとされる遺物など、この島に点在する、聖十字教と聖人ピエールに関連するありとあらゆるものが、この島の中で一番大きい広場のど真ん中に集められ、燃やされていた。
いつもは人の往来で賑わうこの広場も、今は数人しかいない。この島にいた者は皆、魔王ジャンヌを恐れてどこかに隠れている。
目の前の女が魔王ジャンヌだということは疑いようもなかった。部下と合わせてたった四人で、この島に駐在している天導騎士団の人員や、たまたま居合わせた冒険者など、全ての戦力を伝承通りの水と氷の魔術を使って再起不能まで追い込んだのだ。
「どうしてね……いってなかったかしら? ねえイフリート」
ジャンヌが首を傾げ瞳だけを動かし、燃え盛る炎の傍にいる男を見た。広場にかき集められたものに火をつけて燃やしたのはこの男、イフリートだ。一見人間の男に見えるが、その名前は悪魔を示す。炎を自在に操り、敵対したあらゆるものを燃やし尽くすという伝説をアンナは知っている。その伝説に違わず、燃料も木材も、何かしらの火起こしの動作すら見せず、集められた全てのものを炎で包み込んだ。その中には石像、銅像など、燃えにくい材質でできたものがあったにも関わらず、これもわけのわからない方法で瞬時に火をつけ、集められたものは巨大な炎の塊に飲み込まれた。
この男は終ぞ闘う姿を見せなかったが、立ち姿だけで、恐ろしいほどに強いと、全く隙が無いと、瞬時に理解させられる。ジャンヌとどっちが強いかわからないが、強さの底が見えない。こんな奴があと二人もいるのだ。
ジャンヌの視線を受けたイフリートは無言で首を振った。騎士の格好をしているが、天導騎士団ではない。見たこともない鎧が動きに合わせて小さく、カチャリと音を鳴らす。ちらりとアンナはその姿を見たが、その表情は一切の感情を感じさせない。空虚な瞳が炎の色に染まっている。
「そう……言ってなかったわね」
炎が巻き上げた小さい煤がジャンヌの髪に降り積もる。目を閉じながら、髪を手ですき、煤を取り払った。この挙動だけを切り取れば、目の前の女は魔王とは思えないほどの人間味と、自分の身だしなみに対する気遣いが見られるのだ。だがそれ故になお、アンナは魔王ジャンヌに対して恐怖を感じている。
「嫌いなのよ、唯一神ジェネシスも、その信仰も、馬鹿の一つ覚えみたいに盲目的に信じている信徒も、大っ嫌い。だから、ジェネシスの信仰を完膚なきまでに叩き潰して、神の存在を完全に否定したい。だから、焼くのよ。魔女狩りの時みたいに、人間を直接焼かれないだけ、ありがたいと思いなさい」
ジャンヌを見上げる。いつの間にかその辺にあった瓦礫に座り、足を組んでいた。
アンナはジャンヌの姿を、顔を見る度に言いようのない、底知れない不安と恐怖が心の中に渦巻くのだ。疑う余地は一切ないが、本当に魔王ジャンヌならその年齢は数百歳あたりだ。しかし、目の前の女性は一八歳である自分と同じくらい若く、喋り方や仕草や立ち振る舞いも、聖書の中で出てくる魔王のような要素はなく、見た目相応のものだ。アンナにとってはたった一つ、力だ、常軌を逸した力のみが目の前の女を魔王たらしめている。
顔も名画の中の美女のように、形が整っているが、憎悪と悪意に染められ、凶悪な貌を晒している。自分と同じくらいの年齢に見える女性が、いったいどのような出来事がその身に起これば、このような顔になるのか、憎悪と悪意を糧にこのような行為に至るのか、アンナには全く想像できなかった。それでも、魔王ジャンヌの所業を許すわけにはいかなかった。
「何これ?」
ジャンヌが一冊の分厚い本を拾い上げる。その十字の紋章がある表紙を見て、眉間にしわを刻み、忌々しく舌打ちをする。その本は聖十字教の聖典である神聖書だった。唯一神ジェネシスによる世界創造から、神の子を死と復活を得て、今現在の人間の歴史に至るまでの過程と、いずれ神を信じる人類は、神の子によって救済されるであろうという聖十字教的な教義と世界観が描かれている。
「そ、それは……!」
「なるほど、アンナちゃんのね~これは」
アンナが立ち上がり、その本を見てうろたえる。ジャンヌの持っている神聖書はアンナの私物だった。いつもは肌身離さず持っていたが、ジャンヌとの闘いの途中でいつの間にか失くしてしまっていた。それを今、偶然見つけられ、拾い上げられた。
神の敵である魔王が親切に返してくれるはずはない。あの表情を見て、自分の神聖書がどうなるかは容易に想像にがつく。
だが以外にもジャンヌは、アンナの神聖書が使い古されたものであると気付くと、片眉を上げてページをペラペラとめくり、簡単に中身を確認している。栞が幾つも挟まれ、紙が黄ばみ、ページの端が変色し、頻繁に説教などで引用される聖句には赤く線が引かれている。その神聖書をジャンヌは意外にも丁寧な手つきでめくっている。瞳もたまに上下に動かして、重要と思われる行を何度か読んでいた。
その間ジャンヌは一言も言葉を発しなかった。ごうごうとこの島の信仰の象徴を燃やす炎の音だけをアンナは聞き、静かに息をのむ。
あらかた中身を読み終えると、ジャンヌは神聖書を閉じ、一瞬目を閉じてから、無言かつ眉一つ動かさず、神聖書を炎の中に放り込んだ。アンナの神聖書は、アンナが子供の頃から何度も、内容を暗記するまで読み、生活の一部のようになっていた神聖書だ。それが今、ほんの一瞬で、軽い動作で火の中に放り込まれた。ジャンヌはアンナが神聖書に多大な愛着を注いでいることを知ってて火に投げたのだ。
言葉も出せず、呆然と神聖書が燃えているさまを見ているアンナを、ジャンヌは厭らしい目で、全身を舐めつくすように見る。
「茶番」
ジャンヌの口から、短く、低く、静かに言葉が漏れる。アンナには聞こえていたようで、ジャンヌをうっすらと涙を浮かべた目で、突き刺すような視線をやる。
「この洗脳書物に書かれているのは全部、茶番」
アンナはすぐさま反論の一つでもしてやりたかったが、底冷えするような恐ろしく低い声と、大穴を血で満たしたような瞳に真っ直ぐ見つめられ、口を噤むしかなかった。
「時代の節目ごとに宗教屋にとって都合のいいように書き換えられ、血肉と手垢にまみれた戦争の火種……記述を曲解してヴァイスこそが神によって作られた人間という俗説を作り、異教徒異民族を侵略、迫害、虐殺するのに虚偽にまみれた根拠に乏しい正当性と腐臭のする権威を与える道具……」
ジャンヌの瞳孔が点のように縮む。
「それが神聖書よ」
「こっ、こんなことが許されると思わないでください魔王ジャンヌ! 天におられる神は今のあなたの蛮行も、数百年前の大虐殺も、全てを見ておられます! 必ずや唯一神ジェネシスが貴様の所業に報いをもたらします! 我々の祈りが届き、いつかきっとその命が神前で裁かれる時が来るのです!」
アンナは心の中に残った勇気の灯を必死に絞り出し、震えながらもジャンヌを怒鳴りつける。
「必ずや、いつか、きっと……」
怒鳴りつけられたジャンヌは大して反応を示すことなく、無表情かつ抑揚のない声で修道女の言葉を繰り返す。
「実に確実性のない無責任で無根拠な言葉の羅列だわ」
憎悪と悪意に染められた貌が嘲笑にも染まり、くつくつとジャンヌが笑う。
「ねえ、それなら今の私は裁かれないのかしら? こんなにも非道な真似をしているというのに、今の私はなんで裁かれないのかしら? なぜ私のような歴史に残るほどの大罪人が今もなお生きて悪行を積み重ねているというのに、神は私を野放しにしているのかしら?」
手の平に顎を乗せたジャンヌが返答を待たずに矢継ぎ早に質問を繰り返す。答えが返ってこないことをとっくにわかっているのだ。
「そっ、それは……」
ジャンヌの思惑通り、アンナはどう答えていいか分からない。返す言葉に困り、下を向いてしまう。
「あーあーあーあー、言葉に詰まっちゃダメでしょ~」
ジャンヌが呆れるように首を振る。
「どうして黙っちゃったのかな? もしかして今、神の存在を疑ったのかしら? だとしたらジェネシスへの信仰なんて捨てた方がいいわよ~。捨てれば色々楽になるし、見えてくるものもあるわ」
俯いているアンナの顔を、ジャンヌは覗き込むように見て、楽しそうに語る。その視線に気づいたアンナが強い反抗の意志を込めてジャンヌを睨み返す。
「疑ってなどいません! 神は、我々を見捨てたりなんてしません! 我々の祈りは届き、あなたの邪悪な支配は必ずや終わりを迎えます!」
「祈りねぇ~、あなた達聖職者ってのは神になんとかしてもらおうっていう発想以外頭にないのかしら? この絶望的な状況を打破するための行動が、神に祈りを捧げる? 存在すらしない神に? バッカじゃないの?」
瓦礫から立ち上がったジャンヌがアンナのそばにしゃがみ込み、アンナの額に人差し指をぐりぐりと押し付ける。
「祈り……、祈り……、気に入らない言葉だわ、気に入らない儀礼だわ。自分が何かをなしうる力を持たないからって、神様お願いしますって? 祈りなんてのは、神には絶対に聞き入れてもらえない、図々しくて一方的な願望の発露を小奇麗に飾っただけの言葉よ。反吐が出る」
ジャンヌがゆっくりと立ち上がり、どこかへ歩いていく。
「だから、あなたがとるべき行動は祈りじゃない、そんなものは武器にならない、いくら必死こいてこの状況がいかに凄惨なものかを天に語ったところで、私たちが唯一神の裁きを受けて、倒されるなんてのはまずありえない。神は……唯一神ジェネシスは……初めから死んでいる」
アンナの足元に、何かが転がって来た。それがジャンヌがその辺で拾い上げ、無造作に投げた剣だとわかると、アンナは少し驚きながら、顔を上げる。ジャンヌは炎に体を向け、声だけを背後のアンナに向けている。
「それよそれ、それが武器。それを両手でしっかりと握って、この私に全力で突き立てなさい。祈りなんかよりよっぽど有意義で建設的で、勇気のある行動だと思うわ。別に今すぐじゃなくてもいい、不意打ち、奇襲、暗殺、いつだって襲ってきて結構よ。ひょっとしたら上手くいくかも、殺しきれなくても怪我を負わせて、弱らせることが出来るかも、あなたの行動に勇気づけられて、後に続く者が現れるかも……」
アンナが剣を握りしめ、ゆっくりと立ち上がった。
「神と神の子の存在も、聖書の言葉も、聖人の物語も、聖十字教の歴史も、あなた達子羊の信仰も……全ては幻想」
ジャンヌの真っ赤な瞳が炎の反射ではない、妖しい光を宿す。無防備に見えるジャンヌの背中に、アンナは力いっぱい、剣を投げる。
振り向くと同時にジャンヌは手刀で剣を弾く、しかし、攻撃は止まなかった。アンナが本来の得物、十字のマークが入った両手剣を、歯を嚙みしめながら、頭に振り下ろす。
凄まじい衝突音が鳴り、一瞬炎が形を変えて揺らぐ。ジャンヌは全体重をかけた渾身の振り下ろしを、片腕で受け止めていた。アンナは怒りに目を剥いているが、ジャンヌは涼しげな顔をしている。受け止めたといってもジャンヌは体のどこかに力を込めたようすはない。ただ、片腕を上げるという軽い動作のみでアンナの攻撃を受け止めた。
「例え幻想であろうとも……粉微塵に打ち砕いてあげる」
ジャンヌの口元が邪悪な弧を描き笑みの形に歪む。ひび割れた雲の間から見える月のように真っ白な歯を見て、アンナは本能的な恐怖を覚えた。




