第21話 決意
何も見えない。何も聞こえない。目の前全てが闇であった。冥界だろうか、とにかく自分は今意識だけで、ここが現実ではないことはすぐにわかった。
痛みだけだ。痛みだけが、ボルクスをこの世界に留めている。痛みがあるから生きているという実感を得られる。だがそれ以外には何も感じられない。
最後に見た景色はモードレッドが自分の頭を両手を組んで殴りつける場面だ。故に自分の死を疑ったが、痛みは感じる。
激痛だ。全身の筋肉をズタボロにされたような痛み。刺すような鋭い痛みも、殴られたような鈍い痛みもいろいろな痛みを感じる。
ラミエルを耐えきった後は、後ろを振り返ることはなかった。リズのためでも、レアのためでもなく、自分のためだけにモードレッドと闘ったからである。二人の無事を確認したいという気持ちより、モードレッドと決着をつけたいという闘争心が勝ったからである。
もしかしたら、完全解放のラミエルに耐えれたのは自分だけだったのかもしれない。二人の前に立ってはいたが、ラミエルの余波で消えてしまったのかもしれない。それでいて結局、モードレッドに殴られ、気絶させられたのだから、やはり、自分は負けてしまったのかもしれない。全力を出して、今まで自分ですら気付かなかった、隠された自分の力を出し切って、その上で負けた。悔しかったが、なぜか清々しくもあった。
二人が気がかりだ。結局俺は二人にとって英雄になれたのだろうか、ケイローンの弟子として、立派にやれたのだろうか。
やがて、身体じゅうの痛みが、ほんの徐々に、少しずつ、少しずつ和らいていった。痛覚だけではなく、体の他の感覚も戻ってきていた。
自分が何か暖かくて、柔らかいものに包まれているのがわかった。
瞼がひたすら、錆びてくっついたように重い。苦労しながらゆっくりと瞼を開ける。
最初は見るもの全てがボヤけていたが、徐々に、視界に映るものの色や輪郭がはっきりしてくる。
見知らぬ天井。少なくともリズの家ではない。身体も上手く動かせない。鉛のような重さを感じる。身体中に残る痛みに耐えつつも、首と目線の動きだけで、辺りを見回す。今いるのは木造の、最低限の家具が置かれた部屋だ。
隣のベッドにはレアが寝ていた。その寝顔を見た瞬間、心の底から安堵できた。あれほどの激闘、ボルクスが最後に見たレアの姿は傷だらけで、今にも死にそうな姿だった。しかし、今は傷もなく、顔色も良い。寝息も立てている。悪夢にうなされているようには見えない。魔女ではない、人間としての生をちゃんと守れたんだと、レアの寝姿を見て思った。気づけばボルクスはレアの方を向いてベッドに腰掛けていた。
しかし、ボルクスはよくよく考えれば、レアという人間をよく知らない。救出の際に多少会話を交わしたが、あれは急を要する事態というか成り行きで会話したのであって、面と向かって、お互いリズの友人として、会話したことにはならない。そしてリズはレアの話も外見も盛りがちだ。だが、こうして寝顔を見ていると、例の魔法特殊加工のレアの似顔絵はまんざら盛っているわけではないように思えた。
こうして二人っきりになるのも最初で最後かも知れない、レアと何を話すべきだろうか。そんなことを考えている内にレアがムクリと起き上がり、大きく体を伸ばす。
「あ、おはようございます。ボルクスさん」
寝ぼけまなこのレアはまるで、何もなかったようにニコニコして、まるでいつもの日常が始まりましたと言わんばかりの、同居人にするようなふにゃふにゃの挨拶をした。
聞きたいことは山ほどある。話したいことも山ほどある。しかし、何よりもまず優先して言うべきことがあった。
「ああ、おはようレア」
ボルクスもレアと同じように、努めて平常を装い、薄く笑みを浮かべて、挨拶を返す。レアが無事ならリズも無事だろう。
「いやあ~、よかったよかった。リズが回復魔術をかけ続けて、傷が完全に塞がっても一週間ずっと眠ってましたから、もうどうなることかと思いましたよ」
レアが元気そうに笑い、颯爽とベッドから立ち上がる。ベッドの横にある机の、果物が多く入った籠の中から、リンゴを取り出した。
「つまり一週間も、ボルクスさんは何も食べていなかったんです。お腹が空いたでしょう? 私がリンゴ切りますから、食べてください」
椅子を引いて、ボルクスの寝ているベッドの傍に座り込む。机から皿と小さいナイフを取り出して、ショリショリとリンゴの皮を綺麗にむき始めた。
「一週間もか……レアは大丈夫なのか? 俺がモードレッドにやられてた時、レアは一人で闘ってたんだろ?」
「わ、私は大丈夫なんです。四日前には目を覚ましましたから」
レアは何故か決まりの悪そうに目を逸らし、妙に早口で返事をした。
「私は……ただ一方的にボコボコにされたわけですから、大怪我をしたようなもんなんです。ボルクスさんは私と違って、ちゃんと闘ってましたから、大怪我をした上に、体をギリギリまで酷使して、とてつもない疲労感があったはずですから、目を覚ますのが、私より長くなってしまったんです」
レアが困ったように笑いながら頬をかき、自分を卑下した。その様子をじっと見つめ、その言葉をじっくり嚙みしめる。ボルクスは時間にして数秒黙っていたが、レアにとっては耐え難く、重い沈黙だった。気まずくなったレアが何か話そうとする前に、ボルクスはゆっくりと口を開く。
「そうだとしてもだ……レア」
ボルクスは神妙な目でレアの名を呼び、真っ直ぐ見つめる。
「ありがとう、レアのおかげで俺は助かった。元々は俺がレアを助けるはずだったのに」
リンゴの皮をむく音が、止まる。
「レアがモードレッドに立ち向かってくれたおかげで、リズに回復させてもらう時間ができた。俺は救われたんだ。レアと、リズに」
ボルクスの双眸が力強い光を宿す。
「だから、あんまり卑屈にならないでくれ。あの状況において、他でもないこの俺自身は、はっきりと救われたと、恩義を感じている。それは紛れもない事実だということを覚えておいて欲しい」
ありがとう。とボルクスは改めて言い、レアに向かって笑みを浮かべる。レアが手に持っていたものを全て机に置いて、ボルクスに向き直り、真剣な表情をする。
「……わかりました……でも……それを言うなら、私の方こそお礼を言いたいんです……」
レアの口から出たのは、上ずったような、震えたような変な声だった。
「ありがとうございました……私を、私を助けてくれて……とにかく……本当に……意識が戻って良かったです……リズには既にお礼を言いましたが、ボルクスさん……ボルクスさんに……こうして伝えたかった……」
言葉を紡ぐ度に、声の震えが増し、顔が熱を帯び始める。レアは自分がなぜいつものように、ボルクスと喋ることができないのか、わからなかった。
「……一回顔を洗った方がいいかも」
会話の途中で指摘するほど、気になる何かが顔についているのだろうか。レアが自分の顔をペタペタと触り、不思議そうな顔をする。
「なんでそんなこと……あれ? 私、どうして……なんで?」
困惑しているレアの顔がさらに赤くなる。自分でも、自分の情緒がよくわからない。なぜ目からこぼれるものがあるのかわからない。だが、これは寝起きだからという理由でこぼれるものでもなかった。
レアは、ボルクス先に目が覚め、同じ部屋で起床と睡眠を繰り返す中、ボルクスが目覚めたらどんな声をかけようかと、ずっと考えていた。何を話して、何を聞くべきだろうか、どういう風に感謝の言葉を伝えればいいだろうか、ボルクスが目覚めて、初めて顔を合わせる人間が自分だったらどうしようか。ボルクスは自分のせいで死にかけたのだ。生死の境を一週間も彷徨う原因を作った人間である自分と、ちゃんと話をしてくれるだろうか。
最終的にレアはボルクスに心配をかけまいと、過度な持ち上げはず、変に下に出ることもなく、平静な態度で居続けようと、リズの友達なら、自分の友達として、リズと接するように普通に会話をしよう、という結論に達した。
しかし、やはり目の前であんなにも死闘を繰り広げ、生死の境を一週間も彷徨っていたボルクスが目を覚まし、礼を言われたことで胸にこみ上げていた感情が溢れ、涙となって頬を伝った。自分とリズを紛れもなく救った、目の前の英雄の何気ない会話ですら、ただひたすらに尊かった。ありがたかった。
レアが溢れ出る感情が抑えきれずに、ボルクスに飛びついた。
「本当に良かったです! 意識が戻って! こうやってお礼が言えて! 私も、リズも助けてくれて! 本当に! 本当にありがとうございました! ボルクスさんがいなかったら私は! 私はぁ~!」
嗚咽交じりの濁った言葉はやがて意味をなさなくなり、号泣へと変わった。すすり泣くようなリズと違って。レアは思いっきり、感情のままになくタイプだ。
ボルクスに抱きついてわんわん泣き続けるレアの声が部屋中に反射し、響き渡る。ボルクスは黙ってレアの背中をさすり、泣き止むまで付き合おうとした。
だが急に、ドアが割れんばかりの勢いで開かれた。立っていたのは顔面蒼白で息切れしているリズだった。レアの泣き声が聞こえ、もしやと思い、全速力でこの部屋に向かってきたのだ。ボルクスの顔を見たリズが荒い呼吸さえ止め、一瞬で顔から表情が消える。
「よう!!」
呑気な声を聞いたリズが状況を理解すると、瞬時にボルクスに飛びついた。二人分の体重を受けたボルクスが短く呻き、ベッドに押し倒される。リズは珍しくせきを切ったように、レアと一緒に声を上げて泣いている。療養服が二人の涙と鼻水でべちゃべちゃになった。
「みんな……! みんな助かった……! ボルクスさんも、レアも、私も……! 良かった……! 本当に良かった……!」
自分が救った二人の人間の体温を、腕の中に熱いほど感じた。ちゃんとやれたかどうかはわからない。もっと上手い方法があったのかもれない。だが、この二人はここに生きている。部屋の外がどうなっているのかわからないが、二人が周囲を気にせず大声で泣き続けているということは、少なくとも、ここは安全なのだろう。三人で力を合わせて逃げ延びることができたのだろう。自分の言葉も、リズとの約束も、自らが自らに課した責務も守れた。
リズとレア、二人の無事な姿を見て、ようやく、ボルクスの胸の内にさまざま感慨が湧いた。
「二人とも、いろいろありがとう……心配かけたな……」
痛くならないよう、ほんの少しだけ力を込めて、二人を抱きしめる。二人の体温を感じて、今もなお生きているという実感が湧いた。この二人を助けることができたのだと思った。
「よう、モテモテじゃねえか。死んだかとおもったぞ」
いつの間にかベルガが、音もなくドアの近くに立ってニヤニヤしていた。その頃にはリズとレアも大分落ち着いていたので空気を読んでくれたのだろう。
「混ざるか?」
「や、やんねーよバカ!」
「リズから聞いたぞ! 協力してくれたんだってな! ありがとう! ここはもう邪馬斗か?」
ベルガが手をひらひらさせながら、首を振る。
「ちげーよ。ここは邪馬斗じゃねえ、リズがボルクスとレアを連れてきた時、二人とも死ぬ一歩手前まで、ボロボロにやられてたからな。船の上じゃ何が起きるかわからねえから、邪馬斗に行くのは一旦待って、ここに匿って治療した。ここはアタシ個人が見つけた地図に載ってねえ島だ。だから、ここなら天導騎士団に見つかりっこねえし、安全だ」
「ベルガもいろいろありがとう!」
「まだ早いぜ。アタシの協力はこれからだ。一週間後、ここを発つ。ボルクスもレアも体がなまってるだろうからな、その一週間は船団のお荷物にならねえために、身体機能の回復と、最低限、船上で生きる上で必要な知識と技術の習得に専念してもらうぞ。回復魔術は傷しか治さねえからな。二人が完全に回復して、準備できたら、すぐにここ、ベルガ島を出発する」
ボルクスは返事をすることもなく、ベルガから、リズとレアの方へと視線をやった。ベルガと喋っている途中で離れ、今は濡れタオルで顔を拭いたり、鼻をかんだりしていた。ベルガの方を見向きもしない。
「わかった。ありがとうベルガ。超助かる。俺一人じゃ亡命の手助けなんて絶対無理だ」
「今さらそんなん気にすんなって! それより聞かせてくれよ。最上級騎士とやり合ったんだって? 黄金級冒険者の中でもそこまで骨のある奴なんていねえぞ? ちょっくら聞かせろよ」
「あっ! ずるいですよベルガさん! 私まだほとんどボルクスさんと話してないんですからね! 自己紹介だってまだなのに!」
レアがぷりぷり怒って、ベルガを上目遣いで見る。可愛らしい小動物のような仕草にリズが薄っすらニヤけていた。ベルガもそんなに怒ってはいない。その様子にボルクスは息をつく。
「ベルガ、それについてはいずれ話す。……だから今しばらくは、リズとレアの二人と先に話がしたい。ベルガには聞かせられないこともある」
穏やかな声だったが目には強い光が宿っていた。その視線を受けたベルガが、何か納得したような顔をして、踵を返して部屋から出ていく。
「ま、そう言うんなら仕方ねえわな。邪魔して悪かったが、無事なようでアタシも何よりだ。三人で仲良くやりなよ」
三人でベルガの背中を見送る。しばらくして、ベルガが完全に遠ざかったのを待ってから、ボルクスはゆっくりと話し始めた。
「リズ、レア、まだ完全に無事になったわけなじゃいけど、とにかくこれで一区切りがついた。俺はベルガを信頼しているから、ひとまず今は安全だ。安全な場所で、二人の元気な顔を見られたことを俺は今、とても嬉しく思う」
リズとレアが、ボルクスと向かい合うようにベッドに座り、力強く頷く。
「俺から話したいこともあるし、リズとレアも聞きたいことがあると思う。……だからまずは、何から話そうか……」
ボルクスは天井を見上げ、話の切り出しを考えたが、何も出てこなかった。それがなぜか可笑しく、小さく照れるように笑った。その僅かな声を聞いた二人もなんだか可笑しくて、三人で笑い合った。
それからは、レアが中心になり、三人でいろいろ話し合った。一晩だけではとても話したいことを、全て話せなかった。一週間、体力の回復に努めながら、ベルガに航海の知識を教えられながら、空いた時間を見つけては三人で集まり、話し合った。
一週間後に邪馬斗に向けて出発し、ベルガの船団と合流し、船の雑事や力仕事をこなしつつ、航海の一か月間も、ボルクス時間を見つけて、三人で、リズと二人で、レアと二人で話し合った。
ボルクスに対するレアの自己紹介から始まり、リズがボルクスを呼び出してから処刑の日までの一か月、二人がベルガにどうやって気に入られたのか、リズから見たレア、レアから見たリズ、二人の思い出、ボルクスの正体、太古の神話の半神の英雄としての本人から語る素性、ボルクスの知る限りの神話の時代の世界、なぜボルクスから見てリズがレアを磔刑台から下ろした後、二人が揉めていたように見えたのか、モードレッドとの闘いでボルクスがマナの核を掴んで、急激に力を増した理由、そしてガスパーの使役していた二体の悪魔、ヴァプラとアガリアレプト、この二体がアタランテとアキレウスだったこと、二人を開放するためには、殺す以外の手段がなかったこと。いろいろなことを話し合った。
航海は順調に進み、ついにベルガの船団は邪馬斗へと到着した。自らの生まれた国から遠い遠い、異国の地に降り立った二人は、首の疲れすら忘れて、目線を四方八方に巡らせ、目に入る全てのものに釘付けになった。見たことのない景色、建物、植物、生き物、食べ物、服装、武器、気候、娯楽、伝統、信仰、神話、神々、文化。冒険者三人にとって全てが光り輝くほどの新鮮さに満ちていた。
三人はベルガの船団が滞在する一か月間、積み荷の上げ下ろしなど、人足として汗を流しながら船団のために働いた。仕事の合間を縫って、ベルガや船団の仲間に邪馬斗の観光案内をしてもらった。三人が助かったことを祝うために、ベルガが宴を開いたりもしてくれた。
ベルガは船団の仲間に三人の正確な素性を隠していたために、宴は四人だけだったが、時間を忘れてしまうほどに楽しかった。ベルガは自分の期待通り、ボルクスの話を聞いて、一挙手一投足で感情を表現して、まるで物語の中の英雄に憧れる、純粋無垢な子供のように目を輝かせていた。
笑った。何度も笑った。レアが処刑される日までの、暗雲の中をただひたすらに落ち続けるようだった日々、耐え難い絶望と恐怖が時が流れる度に色濃くなっていく日々、逃れようのない死の運命に精神が押しつぶされてしまいそうな日々、親友を失う恐怖で、心の中に慢性的な病のように巣食った焦燥感、不安、自分の無力さに苦しめられる日々、その中で心の底から感じることが出来なくなった喜の感情を、今日この日の、これまで表にだすことのできなかった分の感情を、埋め合わせをするかのように、遠慮することなく思いっきり外に出して、笑った。
笑った。笑うために生きた。笑うために闘った。今この時のために生きた。今この時のために闘った。人間が、人間らしく生きるために闘った。理不尽に、悪意に、暴力に、抗うために、守るために、奪われないために、尊厳のために、意志のために、──そして、絶対に負けないために、各々が各々の闘いをした。
「ええ!? ボルクスさん、帰ってしまうんですか!?」
三人が邪馬斗に来て、一か月が経った。ベルガが帰るために港を発つ前、積み荷の最終確認をしていた頃に、自分の仕事が一通り終わり時間ができた頃、ボルクスはリズとレアを誰もいない港の端に連れて、不意に別れを告げた。
「ど……どうして? せっかくここまで来たのに……三人一緒に無事になったのに……なんで……? どうして……?」
レアがみるみる内に目に大粒の涙を溜め始めた。涙も感情も一気にあふれ出て、号泣しそうになった直前、リズがハンカチを取り出して、レアに渡す。リズは別れを聞いたときは驚きこそしたものの、やはりどこか、こうなることを知っていたようだった。
「レア、泣かないでください。ボルクスさんを、あまり困らせては駄目ですよ」
「だって……だって……リズは……寂しくないの!? 悲しくないの!?」
「私は悲しい!」とレアが濁った声で泣きながら、ボルクスに抱きついた。リズは瞼を閉じ、薄い唇から、達観したような、ボルクスを引き止めるられないと諦めたような声を出す。
「うすうす、予想はしていたことなんですよ。いつかこうなるんじゃないかって、まさかこんなにも早く別れることになるとは思いませんでしたけど……ボルクスさんの意志なら私たちに止められませんよ」
「ああ、すまな……いや、ありがとうリズ。わかってくれて」
レアにぎりぎりと力一杯抱きしめられたボルクスが申し訳なさそうに、目尻を下げる。
「なんで? なんでなの? なんでもう行っちゃうの? 教えてくれるまで離さない!」
駄々っ子のようなレアに、ボルクスは口をつぐんでしまった。帰る理由も個人的な理由だからだ。
「アタランテさんと、アキレウスのさんのことですね」
ずばり理由を言い当てたリズに、ボルクスは目を丸くした。そして、困ったようにレアに視線を落とす。
「ああ、そうだ。レア、俺はあの二人が悪魔使いの操り人形になっていた光景が、どうしても頭の中から離れなかった」
「……」
抱きついているレアを肩を掴んで引き離す。まだ泣き止んでいなかったが、抵抗はしなかった。そのままレアの肩を掴み、俯くレアを見つめ続ける。
「ガスパーの口ぶりからして、他にも悪魔使いがいるようだった。俺のかつての、アタランテとアキレウス以外の仲間たちが、同じように操られているかもしれない。悪魔使いに、聖十字教に意志も、思考も、言葉も、矜持も、尊厳も奪われて、まるで道具みたいに扱われて、殺しや略奪に意識もなく手を貸しているかもしれない。あいつらが一番したくないことを、させられているかもしれない。そう思うといてもたってもいられなくなった。早く、解放してやりたいんだ。生かすにせよ、殺すにせよ」
リズがレアの横に立ち、背中を優しくさする。
「レア、ボルクスさんは私たちのために闘ってくれたように、これから、かつての仲間のために闘おうとしているのです。だから、私たちに止める資格なんてありませんよ」
ボルクスが目を伏せ、申し訳なさそうに首を振った。
「いや、確かに最初はそういう理由だったが、前にも言った通り、最後の最後で闘った理由になったのは、俺の、負けたくないっていうちっぽけな、意地みたいなもんだ」
「ちっぽけな意地でも、私たちが助かった事実に変わりはありませんよ。私たちの救われた心は本物ですから。ここにありますから」
脳裏に一瞬、ケンの姿を思い出す。本人がいいと言うなら、それでいい。それ以上は何も言えない。
「だったらなんでもっと早く言ってくれなかったんですか!? こんなギリギリになってから……なんで今……」
「すまない……ベルガには伝えてあったが、俺はリズと、レアに何も気にさせることなく、三人で一緒にこの国にいたいと思った。未知だらけの邪馬斗を、冒険者としての醍醐味を、三人で一緒に楽しみたかっから……俺のわがままだ」
レアが何も言い返せなくなった。確かに前もって別れを告げられたら、三人で真に無事を祝うことなどできなかっただろう。あの国に帰るということは、聖十字教と再び向かい合うということだ。事前にそれをわかっていたなら、多少強引で浅はかな手段を使ってでも、ボルクスを引き止める自分の姿が容易に想像できる。
「リズとレアのことは本当に大切に思っている。でもこればっかり譲れないんだ。だから……ここで一旦、お別れだ」
一旦、その言葉にレアは顔を上げ、目を見開く。レアの肩から手を離し、海の方へと体を向けた。
「リズ! レア! 俺は聖皇になる! かつての仲間を解放するだけじゃねえ! 聖皇になって、聖十字教を丸ごと変えてやる! レアみたいな人間が二度と生まれないようにする! 俺と俺の仲間たちの失われた物語を、堂々と人前で語れるような国にする!」
遠く、水平線まで届くような大声を、ボルクスは別れの寂しさを振り払うように、張り上げる。
「だから……リズ! レア! いつか絶対帰ってこい! ……いや、必ず迎えに行く! レアの魔女の裁定なんぞこの俺が消し去ってやる! 俺が聖皇になった暁には魔女を二度と生ませない! それが俺の……野望だ!」
後ろに並ぶ二人を振り返ることなく豪快に、両脇に抱き寄せた。
「俺も寂しいが、俺のことは、迎えに行くまで忘れていてもいい! だから、この国で幸せになってくれ! 元気に、生きていてくれ! それが俺にとっての救いなんだ! 生きる意味になるんだ! リズとレアが、二人の存在そのものが、俺の野望を成就するための心の支えだ!」
「忘れたくても、そんなことできませんよ。私たちが生きている限り、この命がある限り、ボルクスさんのことは一生、心の中に残るんです」
「私もリズも、一生忘れませんから」
「……ありがとう」
別れを聞いた瞬間から堪えていた、抱き寄せられた時もくっと喉を慣らして堪えた。だがボルクスの寂しいという言葉を聞いて、ボルクスの熱を感じ、小さな感謝の言葉を聞いて、さらに強く抱きしめられたリズはとうとう涙をこらえることができなくなった。レアも再び声を上げて泣いた。
やがて、ベルガがタイミングを見計らってボルクスを迎えに来た。
ボルクスが船に乗るまで、三人は一言も言葉を交わさなかった。船に乗る直前、リズとレアが、ベルガに改めて感謝の言葉と別れの挨拶をして、一人ずつ抱きしめ合った。一週間と一ヶ月で随分打ち解けたようだ。
そして、ボルクスは二人をもう一度、まとめて抱きしめた。「元気でな」と二人の耳元に言い残すと船に乗り、二人に手を振ることもなく出航の準備を手伝った。
やがて、船が出て、港から遠ざかっていく。
「行っちゃったね…」
「レア……」
「なあに……?」
「笑いましょう。いつなボルクスさんが迎えに来た時、笑って迎えられるように、今から笑いましょう。ボルクスさんもそれを望んでるはずです。だから笑って、見送りましょう」
「うん……」
リズとレアが赤く腫れた顔で笑った。笑って手を振って、見送った。そして、声が届かなくなると、どちらともなく踵を返した。別れを惜しんでばかりが入れられない。二人には異国の地で、新しい生活が待っている。故郷とは何もかもが違うこの国で暮らしていく不安はあったが、ボルクスを思えば、大丈夫だった。
かくして、魔女の烙印を押され、処刑されそうになった少女と、それを助けようと、悪魔を召喚した少女。二人の少女と、二人のつながりは過去から蘇った悪魔によって守られた。そして、悪魔と二人の少女に新たなつながりが紡がれた。
これはその悪魔がかつての仲間を救うために、かつての仲間の尊厳のために、かつての仲間の遺志のために、そして自分の物語のために闘う話である。この悪魔はやがめその目的のために、その意志のままに聳え立つ巨悪、世界を焼き尽くさんとするほどのの悪意と激しい戦いを繰り広げることになるが、今はまだ、誰もにも語れることのない物語。
────序章・悪魔転生編 了




