悪魔
prologue
神族の皇女アークと魔族の皇子メシュアの婚礼の儀が行われた。これにより、世界で、神族と魔族の同盟が成立した。
「セト参ります。必ずや悲願を果たして。」
「レノ参ります。必ずや。悪魔を討ち滅ぼして。」
同じ日、神族の皇子セトと魔族の皇女レノは、旅立った。この世界で、悪魔と呼ばれる存在。ホモサピエンスサピエンス、通称、ヒト族を滅ぼさんとして。
first
この世界には、様々な種族がいる。しかし、その中で、最も、醜悪で、劣った存在がヒト族であった。彼らは賢く、道具と言語を使い、発達させた。それは、他族にも、見られる。ヒト族の劣等性が何かと言えば、その種族の本質であった。彼らは、太古、ある種の猿から、枝分かれして、進化した。その種の猿は、野蛮であった。暴力的であったと言っても良い。暴力的というのは、狩りをして、肉を喰らうとかということではなく、他の猿と比べて、本能的に攻撃性が強かったと言えよう。そして、その猿から、進化したヒト族も、根本的には、同じ系統の生物であった。
彼らは、祖先の猿より、多少は、脳が進化しており、自分たちの攻撃性を管理していた。しかし、根本的な性質は、他の種族と比べたら、圧倒的に、下劣であった。
世界は、多種族で分割統治されていた。しかし、ヒト族と他種族との間で、反発が起こり、戦争に発展した。
種族間戦争では他種族に比べて、ヒト族は、圧倒的に優位に立った。それは、彼らの種族的性質に起因するところが多かった。彼らは獰猛で狡猾で、集団を組んで、襲いかかってきた。ヒト族の前に、他種族は窮地に陥った。個々で抵抗し、隠れ住む種族もあった。
「ヒト族の思うようにはさせない。」
他種族の中で、最も、高貴で気高い、神族と魔族が手を組み、ヒト族討伐を、最後の希望とした。
second
「ヒト族は、魔法は使えないが、強力な火器を使う。」
集団的工業技術がヒト族の特徴であった。彼らは、その方向に文明を発展させた。
セトとレノが目指しているのは、ひとつ国である。
「ヒト族は、数が多い。首領を討伐しても、誰かが、他に首領になる。講和を目指しても、彼らは、ずる賢く、抜け駆けをする。」
「本当に、どうしようもない種族だな。」
「しかし、放っておくことはできない。殲滅するに越したことはないが、他種族の血を根絶することは、大地が禁じている。ヒト族は、そのような掟、意に介しては、いないだろうが。」
「そもそも、私たちに、ヒト族を殲滅できる力などあるまい。セト。」
「ああ。だから、ヒト族を討伐するポイントは、環境にある。ヒト族の集団は、環境に適応する能力が強い。しかし、種族本来の環境に耐える力は、私たち、他種族に比べると惰弱だ。彼らは、ほとんど種族本体として、抵抗能力を備えていない。その能力のほとんどは、彼らの作った道具によるものだ。」
「直接、ヒト族を相手にするのではなく。環境を変化させてやればよい。」
「そうだ。レノ。大地には悪いが、それしか、私たちの道はない。」
セトとレノは、ひとつ街に着いた。
「毒化。」
レノが、魔法で、川を毒化した。
「よし、これで、明日の朝には、街は、騒ぎになるだろう。」
「この程度の毒で大丈夫なのか?」
「ああ。私たちならば、気分が悪くなるぐらいだが、ヒト族にとっては、命を奪うものだろう。」
セトとレノは、近隣の田畑の作物も、ヒト族が気が付かない程に毒化した。
「今日は、このくらいにしておこう。レノ。疲れただろう。」
「ああ。若干な。」
夜の内に、二人は、山岳の洞窟に潜み、セトの結界で守られながら、夜を明かした。
third
「敵のスパイが、川に毒を流したようです。死傷者は増えていますが、水の摂取を禁じたことで、歯止めがかかるかと思われます。」
「それでは、今後の水の確保は、各家庭に、規定量の水を配布することにしたが、実際の水の確保はどうなっているのかな。将軍。」
「は。只今、隣街に、1万リットル給水車が3台向かっております。」
「1往復150戸分か。被災地帯は、おおよそ、3000戸。給水車は、一日、20往復はできるかな?」
「不可能かと。」
「10往復は頼みたいな。将軍。」
「善処します。」
大臣のデスクの電話が鳴り、横にいる次官が取った。
「大臣。緊急電話です。」
「私だ。…。それで、原因は?…。分かった。」
「どうかなされましたか?」
「街を流れる他の河川が、流れを止めたという。原因は、まだ、分からないそうだが、おそらく、上流で何かあったらしい。今、土木管理局が調査に向かった。」
「スパイの仕業でしょうか?」
「おそらくそうだろうな。何故、他種族の連中は、こうも、人々の生活を脅かすのだろうな?」
「彼らは、敵なのです。」
山岳地帯の奥には、セトとレノがいた。
「大地よ…。その厳かなる息吹を今、我が目の前で、見せよ。地崩。」
セトが魔法を唱えると、大地が揺れ、崖が崩れ、土が河川を埋めた。
「このくらいで良いだろう。そろそろヒト族が来る頃だ。我々も身を隠そう。」
土木管理局の職員が、調査に来ると、断崖に挟まれた河川の部分で、崩落が発生し、流れを堰き止めていた。
「これは、復旧には、しばらく掛かりそうだな。」
調査員たちは、ひととおり確認を終えた後、官邸に連絡した。
「…。そうか。分かった。」
「どうでした?」
「原因は、崖崩れらしい。突然の発生には、不審な点があるが、はっきりとは言えないということだ。」
「敵の仕業であるとすると、隣街が危険ですな。」
「すぐに手配しよう。」
「大臣。軍で、街道を封鎖し、近隣の捜索をしたいのですが。」
「許可しよう。非常事態令の発令も視野に入れる。今は、現行法での、犯人の捜索を指示しよう。警察庁長官には、私から言っておく。」
fourth
ひとつ国の街々には、非常事態令が発令された。街道は、軍と警察により、封鎖され、付近の山野に兵士が分け入り、不審者の捜索に当たった。セトとレノは、山岳地帯の洞窟に身を潜め、結界により、ヒト族の目から逃れていた。が、身動きの取れない状態には、変わりなかった。
「スパイと思しき者は、発見されていません。農作物への毒物の混入がみられましたが、それ以外に、撹乱行為も止んでいます。」
「相手は、厳戒態勢に、身を潜めているようだな。将軍。」
「おそらく。しかし、態勢を緩めますと、再び、撹乱行為に及ぶ可能性はあるかと思われます。」
「市民への、影響もある。厳戒態勢の維持は、あとひと月が限度と言ったところ。今月末には、解除の告知をせねばならなくなる。」
「それまでには。」
雨の季節になり、捜索は、難航した。
「セト。雨だ。これに紛れて、逃げよう。」
「逃げて、どこに行く。レノ。」
「山を越えたところに、竜族と森林族の隠れ里がある。三日も、歩けば着くだろう。」
「うまく行くだろうか。」
「行くもなにも、このままだと、飢え死にしてしまう。」
セトとレノは、世界樹の葉のマントを被った。
「擬態。」
レノが魔法を唱えると、二人の姿は周囲の色彩に合わせて、同化した。そして、雨降る森の中に消えた。
fifth
非常事態令は解除された。しかし、街道には検問所が設けられて、道行く人々が改められていた。
「政府は秘密裏に、地下組織の討伐を決定した。」
「まことですか。大臣。」
「ついては、我が軍からも、部隊の運用が明示された。その件で、明日、統合幕僚長が、極秘に街を訪れる。出迎えはしない。」
「分かりました。」
「時間は、決まっていないが、将軍も、明日は、空けておくように。」
「は。」
ヒト族は、密かに、他種族の潜伏情報を探った。一方で、セトとレノは、竜族と森林族の里にいた。
「神族と魔族の同盟のことは承知しておりましたが、ヒト族討伐のことは、初めて耳にしました。」
森林族の族長、エレノアと竜族の族長、バトスが、セトとレノと、今後の方策について、話し合っていた。
「私たち森林族は、このままひっそりと暮らしていければと思っておりました。」
「神王様と魔王様は、ヒト族は放ってはおけないと。今も、次第に、森林、山岳地帯までも、資源や燃料を求めて進出しております。」
「ええ。そうね。でも、私たちが、ヒト族を滅ぼすことはできませんわ。それは、大地がお許しになりませんもの。」
「エレノア殿の言う通りだ。セト殿。レノ殿。それに、我々には、もはや、ヒト族に対抗できる力は残されていない。」
竜族は、太古、恐竜から進化を遂げた者たちである。彼らは、知能と言語を得て、簡単な道具類も扱い、それに応じた簡単な産業も持っている。竜族も森林族も、伴に、狩猟採集生活を送って来た。しかし、それも、段々とヒト族の圧迫により、古来からの生活を縮小せざるを得なくなり、今に至る。
「いずれ、我々は、滅びることは確かであろう。今は、それを受け入れる期間なのだと思っている。」
「私も、バトス様と同じ考えですわ。」
エレノアとバトスは夫婦であった。元来、種族の王族は、他種族の王族と結ばれる。彼らは、子を成すことはない。彼らの目的は、繁殖ではなく、友好であった。それが、王族の役目であった。繁殖は、王族以外の同族たちが夫婦となり、行っていた。本来、それは、大地の掟で決まっていたことだった。しかし、ヒト族がそれに、異を唱えた。彼らは、種族の掟として、法を作り、その中で、婚姻の自由を説いた。そして、彼らは、ヒト族の王族同士が婚姻を結ぶことにした。そのことによって、ヒト族は、結束し、勢力を伸長させた。
「もはや、森林族と竜族で、残っているのは、我々のみ。滅びのときが来るまで、ひっそりと暮らすのです。」
もとより、セトとレノは、彼らの考えを尊重し、戦に駆り出すようなことをする気は、なかった。ただ、余りにも、彼らのことが、不憫で、今後の道を模索してみたかったのである。
里にひと月程、滞在したあと、セトとレノは、山の大河を越えて、ヒト族の街があるふたつ国を目指した。
sixth
セトとレノが、隠れ里に滞在している間、ヒト族は、諜報活動に勤しんでいた。
「南方の森林地帯に、獣族たちの巣があるようです。現地入りした諜報員も、所在を確認しています。こちらが、写真です。」
「うむ。これで、三つか。」
政府官邸では、秘密裏に、作戦が着々と進められていた。
「人、神、魔、竜、森林、獣、鳥、昆虫、樹木、軟体動物、精霊、鬼、野蛮。13種族の内、ヒト族を除いて、12。」
「先の大戦で、鬼、野蛮、精霊の3種族は、根絶が完了しています。従って、9。」
「そして、今回、発見されたのが、今のところ、獣、樹木、鳥の3種族。」
「残りは、神、魔、竜、森林、昆虫、軟体動物の6種族ですね。」
「昆虫と軟体動物は、構うこともない。それより、根絶すべきは、神と魔だ。先の大戦でも、彼らは、他種族をまとめて、抵抗を露わにした。今回の件も、魔法が絡んでいる可能性は、十分ある。」
「殲滅作戦は、やはり、同時に行うのでしょうか。閣下。」
「変更しても、問題ないかもしれぬな。君はどう思うかね。サチェル司令官。」
「彼らの根城を観察したところ、今回、3種族は、芋づる式に発見されました。その後も観察は、続けていますが、鳥、獣、樹木。この3種族は、お互いの他に、相互連絡はないかと思われます。」
「では、先に、この3種族をまとめて殲滅するか。」
「その方が、士気も上がるというものです。」
向かう先は、森林地帯であった。ヒト族の歩兵部隊が、3種族の隠れ里を、それぞれ、包囲し、同時に攻撃を開始した。彼らの種族は、2、3時間の内に、絶滅して、この世界から、永遠に姿を消した。
seventh
ふたつ国に到着したセトとレノは、同じように、まず、河川と田畑を毒化したあと、山岳地帯へ行き、大地を、崩し、河川を堰き止めようとした。が、山岳地帯の、急流地帯には、ヒト族の監視塔が建設されて、警戒に当たっていた。
「だめだ。河川を堰き止められそうなところは、すべて、監視の目が行き届いている。これでは、手出しができない。」
「しかたない。街へ戻るか。セト。」
「いや。このまま。次のみつつ国へ向かおう。川が毒となったことが、分かれば、ヒト族は、また、街道を封鎖し、野山を探索するだろう。そうなってしまっては、こちらが不利だ。」
セトとレノは、日が暮れる前に、山を越した。次のみつつ国でも、事態は同じだった。こうなってしまっては、もとより、セトとレノに、成せることはなかったと言える。その間にも、ヒト族は、他種族の隠れ里を発見し、着々と、殲滅作戦を実行して行った。
「閣下。ついに、見つけました。神族と魔族の根城です。」
「本当か!?」
「はい。先日、殲滅した竜族と森林族の生き残りの後を付けたところ、神族と魔族の隠れ里に行きつきました。彼らは、お互い傍らに潜んでいます。」
「でかした。それで、場所は、どこだ。」
「北の渓谷です。どうやら、付近一帯に、結界と擬態魔法が施されているようです。遠目からは、自然の景観にしか見えません。」
「すぐに、各部隊の装備を改めさせろ。作戦は、夜間に行う。行軍も夜間だ。夜間戦闘の準備を進めろ。」
「は。」
「あと、重火器砲兵隊も連れて行く。一個師団に砲兵大隊を二部隊連れて行く。全方位から、同時に、射撃を加えた上、殲滅する。サチェル司令官。魔法に対抗する術はなにかね?」
「は。圧倒的な重火器による攻撃です。」
「その通りだ。」
eighth
「射てっっ!!」
ヒト族による神族と魔族の包囲殲滅戦は、苛烈を極めた。
「世界よ。大地よ。唸りを上げよ。地波。」
地崩が、歩兵を呑み込んだ。隠れ里は、渓谷沿いにある。内部は、先ほどから、ヒト族の砲撃による火の玉が降り注いでいた。結界が張ってあるが、重火器の連弾の前には、意味を成さなかった。
「射て!!ありったけの砲弾を撃ち込め。」
「司令官!」
「なんだ!」
「ガルソン中隊長が、東側森林地帯への放火の許可を願い出ています。」
「目的はなんだ!」
「火中突撃です!火を放てば、やつらは、消火活動を始めます!そこを一挙に侵入します!」
「許可する!砲兵隊!照準を西に寄せろ!エイブラハム!!いるか!」
「ここです!!」
「先に神族から討つ!魔族に向けた砲の半分を神族砲撃に転換しろ!」
「は!」
エイブラハム砲兵隊長は、すぐに、指示を出しに走った。
「王よ。ヒト族は、東の森に火を放ちました。今、消火しています。」
「そうか。里への侵入は?」
「未だ、ありません。」
「…。」
神族の王ゼウナルは、思索した後、書をしたためた。
「アークとメシュアのもとへ、これを。魔王アキュロンのところへこれを。」
「はい。」
このとき、既に、ゼウナルは、死を予知していた。それは、先日、予言者が夢告した日が、今日であったからだった。しかし、己が死のうとも、種族は絶やさぬように願った。もはや、繁殖は、不可能であることは分かっていた。それだけの民をこの場から逃がすことは叶わない。ならば、せめて、一時でも、長く、種族の命が、この世界の上にあることを、ゼウナルは望んだ。
「さて…。そろそろか。」
その瞬間。ヒト族の放った砲弾がゼウナルの部屋を、直撃し、炎上した。次の瞬間には、ガルソン率いる中隊が、東の森を抜けて、神族の里に侵入した。
ninth
「魔王様。父は何と?」
魔族の里では、魔王アキュロンの前に、魔族の皇子メシュアとその妻で、神族の皇女アークが、跪いていた。
「ゼウナルは死んだ。」
「え…。」
「アーク。大丈夫か?」
「はい。メシュア様。」
「よく聞け。ゼウナルは、其方たちを、我に託した。ゼウナルは、ここで、其方たちと伴に、世界樹の下へ行くよりも、其方たちが、一時でも長く、この大地で生きながらえることを望んだ。我は、これから、その支度をする。」
アキュロンはそう言うと、残っている魔族の戦士たちを集めた。
「メシュア。アークを頼んだぞ。擬態。」
アキュロンは、メシュアとアークに魔法を掛けると、里の裏手から、川上へ抜けるように指示した。
「参るぞ。」
「おおう!!」
魔王アキュロン率いる魔王軍最期の突撃が行われた。その隙に、メシュアとアークは、戦場を抜けた。
「一匹でも多くのヒト族を、地獄の道連れにしてやろうぞ!!」
「おおう!!」
魔王軍の突撃は凄まじく、銃弾の嵐が舞う中、魔族たちは、剣を手にして、ヒト族たちを狩った。アキュロンと近衛剣士たちは、ヒト族の軍団司令部まで進撃し、その乱戦の中で、サチェル司令官がアキュロンの剣に体を引き裂かれて死んだ。しかし、援軍に来たエイブラハム砲兵隊長の率いる部隊の機銃弾を、体中に受けて、魔王アキュロンと近衛剣士たちは絶命した。
tenth
世界は、ホモサピエンスサピエンスの物になった。他種族で生残しているのは、少数の昆虫族と軟体動物族であった。もとより、彼らは、ヒト族に抗する力も術も知恵もなかった。元来、原始的であった彼らは、次第に退化して、元の昆虫や軟体動物の仲間として、自然に同化して行った。
「急流地帯で、崩落が起こったらしいな。」
「もともとあの辺りは、危険だったからな。」
人間の治めるひとつ国のひとつ街では、町の人々がそんな話をしていた。
「おい。政府から、また、河川の毒化の報せが出た。」
「またか。工業排水の汚染か?」
「分からないが、浄化が確認されるまで、断水するらしい。」
「それじゃあ、また、作物も毒化してないかの調査が来るだろうな。俺は家に帰って、待ってるわ。」
「おう。」
そう言うと、町の人たちは、自転車に乗り、街路を家路に向かった。人間の街では、年に何度か、山岳地帯での崩落や河川の汚染が起きる。それらは、大抵、土木技術や公衆衛生の発達によって、大事に至ることはない。しかし、町の人々は、時折、そうした原因不明の怪現象が起こる度に、その背景に、未知の自然的存在や力のことを噂するのである。
epilogue
北の果てに、人間の中では、変わった存在の人物が、独り歩いていた。彼は、人間でありながら、人間を嫌っていた。そして、人間と人間の文化を避けて、この北の果てへやって来たのである。
「はて。このような最果ての地にも、人間がおるとは。」
もう既に老人になっていたその人物は、旅の終わりに差し掛かったこの大地で、一軒の木と草でできた小屋を見つけた。その小屋は、古のおとぎ話に出て来る妖精の住処のようであった。
「もし…。」
老人の後ろに、およそ、今まで、見つけたこともないような神々しい人物が立っていた。その女性は、今しがた摘んできたであろう木の実の入った籠を腕に掛けていた。
「こんなところで道に迷われたのですか?」
「ええ…。」
老人は、その人物の余りの尊さに我が身を忘れて、つい偽りを述べてしまった。しかし、女性は、それを咎めるわけでもなく、老人を自らの小屋へと招待した。
「あなた。今、帰りました。このお方が、道に迷われたようで。」
「それは、難儀なことでした。このような最果ての地まで。」
小屋の中には、女性の夫であろう男性がいた。その男性は、妖しげな中にも、威厳と優しさに満ち溢れたような高潔な人物であった。
「どうぞ、こちらへ、なにもありませんが、暖炉の火で温まり下さい。」
「どうも、ありがたいことです。」
老人が暖炉の近くの椅子に腰掛けると、女性がカップにハーブティーを入れて持って来てくれた。
「あなたさまは、どこから来られたのですか?」
自分の分のハーブティーを飲みながら、男性が尋ねて来た。
「私は、ひとつ国から来ました。」
「それは、また遠くから。」
「はい。私は、人間というものが、つくづく嫌になったのでございます。人間に生まれた自分が恨めしくてなりません。」
「それは、また。」
「人間というものは、放っておいても、お互いに、善悪を掲げ、憎み、恨み、嫉妬し、攻撃する。私は、それが、嫌で逃げ出して来たのでございます。」
「それでも、人間にも、良いところがおありでしょう。どうぞ。」
男性は、ハーブティーを老人に勧めた。
「ありがとう。」
老人はハーブティーを一口、口にした。
「はあ…。とても、おいしいですね。このハーブティーは。」
「そうでしょう。妻が、野原に遊んで採ってくるのですよ。私は、このハーブティーを飲むことが、毎日の日課です。しかし、それも、今日で終わりになるようです。」
「それはなぜでしょうか?」
「寿命でしょうか。妻は、占いをするのですが。今日が、私たち二人の命日だそうです。」
老人は、何と言ってよいのか、言葉が告げずにいた。
「実を言うと、今日、あなたがここへ来るのも知っていました。あなたは、名をジョセフと言うのではありませんか?」
「全く、その通りです。」
「私たちは、最期に、あなたのような人に出会えてよかった。」
そう言って、夫婦は、ジョセフにお願いをした。それは、明日の朝になると、夫婦は、揃って、冷たくなっている。そうしたら、小屋の傍らに穴を掘って埋めてほしいと言った。
「代わりと言っては何ですが、この家は、あなたに差し上げます。家の傍らには、畑があります。井戸もあります。その井戸は、涸れることはありません。畑も、今年、作物を収穫すれば、何もしなくても、また、来年、生えてきます。近くに川があるのですが、あそこに掛かっている釣竿を使えば、毎日、決まった数だけ魚がとれます。家の中にある物は、何でも、自由に使って下さい。あと、近くの野原で、これと同じハーブを採ってきて、ハーブティーにして、毎日飲めば、病に倒れることはありません。それも、これも、あなたが、よろしければですが。」
ジョセフは夫婦の願いを受け入れた。
「ありがたい。それでは、あなたは、奥の部屋でお休みなさい。あと、そうだ、先ほど、あなたは、人間に厭気がさしたと言っておられたが、それでも、私たち夫婦は、あなたに会えて、うれしく思っていますよ。」
そういうと、夫婦は、向かいの部屋へと入って行った。翌朝、ジョセフが、目覚めると、向かいの部屋の扉は開いており、中では、ベッドの上で、昨日の夫婦が二人揃って、冷たくなっていた。ジョセフは、約束通り、小屋の傍らに穴を掘った。土は、柔らかくスコップの先は、すんなりと大地に通った。ジョセフが、二人の体に触れると、その体は、鳥の羽のように、軽かった。ジョセフは、穴の中に、夫婦を揃って、入れると、土で蓋をした。
その後、夫婦に言われた通り、ジョセフは、この最果ての地で、独り、夫婦の墓守をしながら、わびしく、慎ましく、残りの人生を暮らしたという。