3.雷雨
柏手を打つ音で、水器は目を覚ました。
ミツはすでに身なりを整えて、綺麗に正座をしている。
『黄石のこぶが早くなおりますように』
響いた声に、水器は欠伸を途中で引っ込めた。
息を止めて、そろそろと格子戸のほうへ這い寄る。熱心に、まだ手を合わせてこちらを拝んでいるのは花緒だった。
ミツを振り返ると、綺麗な正座を崩さぬまま、瞳を閉じている。
やがて花緒は、背を向けて去っていった。水器は花緒の背と、中のミツとを交互に見やる。
ミツがうっすらとまぶたを上げた。
「ミツ様、あの……」
昨日のことを報告していないことを、水器は思い出して口を開いた。
けれどもミツは、水器の話を聞く前に頷くと、席を立って、社の裏手へ出る戸口へと向かった。話しかけた言葉を胸につかえさせたまま、水器もそれに続く。
「ミツ様、僕、昨日……」
追いかけながら口を開く水器にミツは静かに頷いて、湖のほとりに膝をついた。
その静謐な気配に、水器は口を閉じる。
鼻から息を吸い込むと、透明な水の匂いが胸に満ちる。
ミツの細い指先が、つい、と水面に触れる。
水の輪が、一重、二重、と広がっていく。
やがて水面が再び沈黙を取り戻すと、今度は湖の向こうから、呼応するように輪が返ってきた。
水器はその光景に目を瞠る。
水の輪を狭めつつ、ミツの指先へ吸い寄せられるように漂ってきたのは、一枚の緑色の葉だった。ミツは、手のひらでそれを掬い取る。もう片方の手で、水器を手招いた。
水器は未だ静謐に支配され、無言でミツの傍に駆け寄る。
湖から掬った葉を、渡された。水器は両手でそれを受け取る。
水器の両手と同じくらいの大きさの、円い葉っぱだった。葉についていた水滴がつう、と水器の手首を滑る。
「これは?」
水器が問うと、ミツは、す、と集落のほうを指差した。
「……黄石の傷に?」
ミツがうなずく。
「わかりました」
水器にとって、ミツの命が最優先だ。
濡れた葉を、大事に胸に抱えて水器は集落へ向かった。
空を、黒い雲が渦巻いている。
雨が降りそうなときには、水器の胸の内は晴れ渡っていたのだけれど、今は空の色と同じく、どんよりと重たく凭れている。
できるだけ早く、安全な社まで戻りたくて、水器は足を急がせた。
まだ朝なのに、夜になりそうな暗さだ。
雨の匂いが近づいている。
水器は、社に来た花緒の様子を思い出していた。
縋るような声だった。
怪我をしたのは黄石のはずなのに、花緒の方が痛がっているようだった。
その様子を見たミツの白い顔が胸を焼く。
どうしてだろう、と水器は唇を噛んだ。
社への願い事を叶えたはずなのに、誰も喜んではくれず、褒めてもくれなかった。
今朝方見た幸せな夢が、泡沫のように儚くなってしまう。
集落に着いてから、そういえば、黄石の家を知らないことに気がついた。
また一軒、一軒のぞこうかと考えていたら、ぴり、と空気が帯電するのを感じる。
大きな雷鳴が轟き、柱のような稲妻がそびえた。
小宮の、庵のほうである。
途端、空の栓を抜いたように激しい雨が降りそそぐ。
その間も、稲妻は空を割るような音を立てて、小宮の庵のある竹林に次々と鋭く刺さっていた。
「こりゃあひどい。姫様がお怒りだぞ」
「しばらく静かだったんだがなあ。おおい、そこの子供」
突然の雷雨に、外にいた人たちは騒ぎながら家の中へ入っていく。
「見ない顔だが、どうした? 濡れちまうぞ」
声の主が、こちらに足を向けたことで、ようやく水器は自分に話しかけられているのだと気がついた。いつの間にか、足も地面についている。
声の主は、先日の、晴れを願った男だ。
「……」
何と言って良いのかわからず、水器は黙って頷くと、その場を離れるために駆け出した。
常の雨とは違い、雷雨は水器を濡らした。
重たく顔にはりつく髪に視界を奪われながらやみくもに走っていたが、習慣から、竹林のほうへ勝手に足は向いていたらしい。
竹にぶつかりそうになって、水器は足を止める。
髪をかきあげて、視界を開けた。
「小宮……?」
そこは、雷鳴の中心だった。
庵は、稲光を受けて明滅を繰り返す。まるで、庵自身が雷を放ち、怒号を轟かせているようにも見えた。
雨のせいで、跳ぶことができない。この雨の勢いでは、竹を上るのも不可能なことだった。
ぐるぐると竹垣の周りを巡っていると、地面に近い部分の竹垣が一カ所、割れているのに気がついた。体を伏せれば通れそうだ。
水器は迷わず、ずるずると体を地面に引きずって竹垣の内側へ入る。
衣服はすっかり泥にまみれ、その上全身ずぶぬれで、ひどい有様だった。
こんなに雨が降っているというのに、庵の御簾は上がっていた。
「小宮?」
水器は引き寄せられるように開かれた庵の正面へ回る。
そこに、小宮は座していた。
「水器?」
伏せていたまぶたを彼女が上げると、細い雷の竜が、ぴり、と部屋を駆けた。
水器は小宮の姿に釘付けになる。
彼女の額には、赤い角が二本生え、長い髪も燃え盛るように真っ赤に変じていた。
瞳は金色に輝き、水器を睨みつける。
その姿は、まるで鬼のようだった。
「水器、よくも、よくも、花緒を傷つけてくれたね」
雷音に、地面が揺れて、水器は尻餅をついた。跳ねた泥が、頬にかかる。
「何のことですか?」
尻餅をついたまま、水器は尋ねた。怪我をしたのは黄石のはずだ。それも、水器ではなく、花緒が木槌で殴ってしまったせいである。水器は小宮が何か勘違いをしているのだと思った。
「しらを切る気か。それとも本当に理解していないのか。ああ、いずれにせよ許せはしないよ。私の可愛い花緒を傷つけたことには違いないのだからねえ」
雨がいっそう激しくなり、滝のように水器に打ちつける。真っ暗な空で吠える稲光が、水器の輪郭を消そうとするかのように白く全身を焼いた。事実、水器は自分の形が、圧倒的な小宮の迫力に圧されて霞みかけるのを感じた。
「ああ、腹が立つ。あの花緒の悲しそうな顔……。人の悲しみというのは、本当に美しい……。けれどねえ、私は私があの娘を悲しませたかったのよ。それを、突然湧いて出たお前のような稚魚に」
「花緒を、悲しませるつもりは、僕にはありません」
雷鳴にかき消されないように、水器は声を張り上げる。
小宮の金色の目が、水器を睨めつけた。
「そこが腹立たしいところなのだと、お前にはわからないのだろうね。無垢で、無知で、愚かな子。どうしてくれようか。その鱗を剥いでやろうか。それともこのまま雷で焼いてしまおうか」
座敷から、小宮が立ち上がる。
赤くふくらんだ髪をなびかせて、長い着物の帯を引いて、雷の子竜をぴりぴりと纏いながら、縁側まで歩くと金色の目で水器を見下ろした。
雷光に、頬が白く際立つ。赤い角が、雨の中でも燃え立つように輝いていた。
水器は息を呑む。雷に視界を焼かれそうで、それでも瞳を逸らせなかった。
小宮の瞬きをする速度、ゆらめく髪の軌跡、落とした吐息の行き先さえも見逃すまいと凝視する。
雷が、空と庵の間を貫く。
怒号のように、地面が揺れる。
水器は、爪先から、頭のてっぺんまで痺れたように感じた。
「水器? 気でも失ったか?」
微動だにしない水器に、小宮は細い眉を傾けた。
「……い」
「何?」
「美しい、です」
水器がまっすぐに小宮を見て言った。
「お前、この状況をわかっているのか?」
「状況? 僕が小宮に消されそうということでしょうか」
「怖ろしくはないのか?」
「怖ろしくとも、美しいです。いえ、怖ろしいからこそ美しいのでしょうか。常から美しいと思っていましたが、怒る小宮が今までで一番美しいと思います」
水器は小宮を見つめて言った。
今までで一番、彼女から目を逸らせなかった。まるで呪縛にかかったようだ。
それでも、抗う気になれない。
いつまでも見つめていたいと思う。
この雷鳴の檻に閉じこめられて、激しい雨に体を失いたい。
しかし、小宮の怒気は、水器の熱のこもった視線に吸い込まれるように、静まっていった。
「……呆れました」
小宮が長く息を吐く。角が消え、髪の色も元に戻り、さらりと肩に落ちた。雷雲も遠ざかり、雨も小止みになっていく。
「小宮?」
「興が削がれました。わからないものに怒っても、仕方がありません」
「はあ……」
水器は、気の抜けた返事をする。
小宮は片手を腰に当てて溜息をついた。
「でも、私があなたを許さないことに変わりはありませんからね」
「僕が、花緒を傷つけたということですか? 花緒は、どこか怪我をしているのですか?」
「それはきっと、雨のない時に水器の姿が見えないように、水器の目には映らないものなのかもしれません」
「そう、なのですか?」
水器は胸をおさえた。
突然、穴が空いたような空虚を覚えたけれど、特に変化があるわけではないようだった。
「見えるようには、ならないのでしょうか」
自分の姿が人に見えないよりも、それは、寂しいことだと水器は感じた。
「さあ、どうでしょうね。ミツ様に祈りにくる人たちの声を聞くことで、あるいは、少しずつ、見えるようになるかもしれませんね」
水器はそれで、黄石のことをようやく思い出した。
「小宮、黄石の家を知っていますか? 僕は黄石に薬草を届けに来たのです」
懐から、葉っぱを出して小宮に見せる。
「あら、そうだったのですか」
小宮の声が少し優しくなった。
「はい。ミツ様が渡してくれました」
「ああ、ミツ様が、ね。ええ、そうでしょうとも。ミツ様もお気の毒ですね」
「ミツ様が、どうかしたのですか?」
「言っても、あなたにはわからないことです」
小宮は笑みを浮かべて言ったが、水器にはそれが嬉しく思えなかった。
小宮が笑えば嬉しいはずなのに、と水器は首を傾げる。怒ってくれたほうが、嬉しかった。