表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雨冠  作者: 雪尾 七
第二話
7/15

1.芽吹きの雨

 水器は、種を埋めた地面に撒こうとして両手に掬った水を、再び桶の中に戻した。濡れた手を袴で拭いながら、まじまじとその地を見る。

 昨日までは真っ平らだったそこに、小さな双葉がひとつ、生えていた。


「あの種が、変化したのでしょうか」


 今までの水やりは、この葉を生み出す儀式だったのか、と思い至る。

 花ではなく葉っぱだったことに少しがっかりしたが、眺めていると、可愛く見えてきた。ふっくらとした丸い葉が、世界でいちばん健気な形に思える。天に広げた双つの葉は、小さい身ながら、めいっぱい太陽の光を受け取ろうと背伸びをしているみたいだ。

 水器はそれをしばらく見つめてから、丁寧に摘み取った。


「ミツ様!」

 双葉を手に、水器はふわりと浮いて梯子段を飛ばし、社の戸口から顔を出す。

 奥で瞑想していたミツは、水器の声に瞳を上げた。

 現世の皮膜を探るように、瞳が焦点を探して彷徨う。


「見てください! 葉っぱが出来ました」

 水器は、その彷徨う瞳に映るように、ミツの視界いっぱいに、双葉を差し出した。

 ミツは、水器が手にしているものを確認するように、ゆらりゆらりと尻尾を揺らしながら目を細めていたが、その正体に気がつくと、瞳を大きくして立ち上がった。


「ミツ様?」

 ミツは水器から双葉を受け取ると、小走りになってそれが生えていたところまで行く。水器もそれに続いた。後ろから覗くと、ミツは双葉を生えていた場所に植え直している。元通りになったところで、ミツは手の甲で額をおさえた。ふう、と息をついて胸を撫で下ろしている様子だ。


「取っては、駄目だったのですか?」

 後ろから、おそるおそる水器が問うと、ミツがやさしく肩を叩いた。

 植え直された双葉を見る。

 生えてきたのを見つけたときに比べ、瑞々しさが失われているように思えた。

「また水をやれば、元通りになりますか?」

 ミツは悩むように耳を垂れた。


 次の日には、双葉が新しく二つ、生えていた。

 今度は摘み取らず、ミツの袖を引いて来て見せた。

 ミツは水器の頭を撫でてくれる。

「でも、最初の双葉は元気がないのです。水もちゃんとあげたのに」

 水器が声を落として言った。

 種を埋めることを教えてくれたときのように、ミツが何かを示してくれることを期待したけれど、ミツは水器の頭を撫でただけで、社の中に入ってしまった。


 水器は、元気のない双葉を見やる。

「僕のせいで、ごめんなさい」

 許すとも許さないとも、双葉は言わない。

 双葉の声を聞くには、きっと別の条件が必要なのだろう、と水器は思った。ミツは知っているのだろうか。けれども、教えてくれそうにはない。


 舟の気配に、水器は顔を上げる。

「花緒かな」

 水器は表に回って、舟の着く岸まで見に行くことにした。

 小宮との話を隠れて聞いた日以来、花緒の姿を見ていない。

 水器もしばらく集落に行っていなかったが、花緒のほうでも社に姿を見せなかった。水器がミツの社に雨宿りをするようになってから、花緒がこれだけ社を訪れないことはなかったので気になっていたのだ。


 衣を翻して、水器は社の裏手から表のほうへ回る。

 舟の主が花緒ではないことはすぐに分かった。

 乗っているのが男だったからだ。

 けれども、先日、晴天を祈りに来た男とは違う。彼よりも若い、青年だった。少年と言い換えても良いかもしれない。


 見覚えがあるように思って、青年が舟をつなぐ横で、じろじろとその顔を観察していた水器だったが、彼が、花緒と仲良く遊んでいた青年だと気がついた。

 名も呼ばれていた気がするが、そちらは覚えていない。

 青年が舟をつなぎ終えて歩き出すと、水器は先回りをして社の中へと戻った。


「男の子が来ますよ」

 ミツの隣に正座をしながら水器が言った。

「前に、花緒と遊んでいるのを見たことがあります」

 花緒の名前に、ミツの視線が一度水器に向けられる。けれども、階段のきしむ音に、すぐに視線は前へと戻された。

 手を打つ音が、快活に響く。


『花緒に認めてもらえますように』


 飛び出した名前に、ミツの肩が小さく揺れたのを、隣にいた水器は見逃さなかった。そっと見上げるけれど、そこに表情の変化は見られない。

 青年は、そのひと言の祈りだけを告げると、階段を下りていった。


「認めるってどういう意味でしょう?」

 水器は疑問を口にしてみたけれど、返ってくる答えはない。

 ミツは静かに座ったままだ。水器はそわそわと膝を動かして、たまらずに立ち上がった。

「ミツ様。僕、集落へ行ってきます」

 告げた水器に、ミツは黙って頷いた。


 駆け足で社を出ると、青年はちょうど舟に乗り込んだところだった。

 水器はふわりと跳んで、同じその舟に着陸する。

 青年は、花緒よりも舟を漕ぐのが速かった。ぐんぐんと風を起こし、力強く舟を運んでいく。

 水器は風に攫われる髪をおさえながら、青年の顔を観察した。


 ミツとは対照的だな、と思う。

 ミツが月なら、彼は太陽のようだ。

 日に焼けた肌に、勝ち気そうな瞳、短く刈られた髪は刺々しくて触ると痛そうだ。額にはうっすらと汗が浮いている。


 霧を抜けても、視界が晴れない。空も湖も灰色をしていた。

「おおい、黄石きいしー。どこ行ってたんだよ、探したぞー」

 目を凝らせば顔の確認できる距離に舟が見えて、そこに立っている男がこちらに手を振った。


「すみません。ちょっと昼寝してたら舟が流されてて」

 青年も手を振って答えた。

「黄石」

 水器は口に出して、青年の名前を記憶する。

 黄石がミツの社を訪れたことは、仲間には言いたくないらしい。水器は鼻を鳴らした。嘘をつく奴、と心にとどめ置く。


 黄石は手を振った仲間のほうへ舟を寄せた。

 最初は気づかなかったが、他にも二艘の舟がいる。それぞれ、二、三人の男を乗せていた。黄石が一番年若のようだ。彼が舟に一人なのは、他の舟よりも小ぶりだからなのだろう。水器の体が小さいから居場所があるが、大の男がもう一人乗ると、身動きがとれないに違いない。


「黄石、波を立てるな。魚が逃げちまう」

「すみません!」

「お前は落ち着きがねえよ。花ちゃんが心配すんのも分かるわ」

「しかしなあ、村一番の悪たれが、村一番の器量良しを嫁にもらうことになるとはなあ」

「もう悪たれではありません」

「そうかい? ついこの間も、チビたちと一緒にうちの鬼姫に雷落とされてたじゃねえか」

「いや、それは、その……」

 口ごもる黄石に、男たちが笑う。


 そこへ、ぽつり、と雫が落ちた。

「あれ、雨……?」

 薄い雲から、ぽつりぽつりと雫が落ちてくる。

「にわか雨だな。すぐ止むだろ。たつが嫁さんを鬼とか言うからだぞ。本物の雷まで呼び寄せていないだろうな」

「おいおい声がでかいよ。嫁に聞かれたらどうすんだ」

「はっはっは。そんならもっとでかい声で言わないとな。お、どうした、黄石?」

 身を乗り出して水面を見る黄石に、一同の視線が集まった。


「あ、いや。大きな魚が、舟の下を抜けていった気がして」

「へえ。ここの主かな」

「間違って釣りあげるなよ。罰があたっちまう」

 黄石の見たと言う魚を、男たちもひと目見ようと身を乗りだしたが、雨粒に波紋を描く水面みなもは、その影も幻のように遠ざけてしまったようだった。





 周囲に人の気配がないことを確認して、ざばり、と水器は水面から顔を出した。急な雨に、慌てて湖に飛びこんで、泳いでここまで来た。集落を走る水路だ。

 岸辺に上がって、ぶんぶんと頭を振って、袖も振ると、水は水滴になって空気に散り、水器の上に濡れた気配も残さない。


 すぐ頭上には、灰色の雲がかかっている。

 山の上には青空が透けて見えたので、雨はすぐに上がってしまいそうだ。

 周囲を見回した水器は、見慣れた竹林を見つけた。考えずに泳いでいたら、体が自然と、慣れた道をたどっていたらしい。


「ちょっと、覗くだけ。せっかく、ここまで来たのだし」

 誰にともなく言い訳をして、水器は竹林の中の庵へと向かった。

 雨は弱く、音も立てない。

 ただ静かに竹の葉を湿らせ、薄く白いとばりを辺りにめぐらせる。

 水器は、その静寂を乱さないように、音を立てずに竹垣の上まで跳んだ。


「あ」

 けれども、そこで思わず静寂を破る。

「あら」

 同じく静寂を裂いて届いた声に、水器は息を止めた。息を止めても、姿は消せない。雨が降っているのだから。


「久しぶりですね」

 微笑む小宮に、水器はほっと息を吐き出した。あんなに綺麗に微笑んでいるのだから、水器が来たことに怒っていないし、困ってもいないに違いない。顔を合わせられずにいた時間が、幻のように溶けていくようだった。


 水器は竹垣の内に降り立ち、縁側に腰かける小宮の前に近づいた。

「こんにちは。今日は、花緒は?」

「花緒に用事だったのですか?」

 慌てて水器は首を振る。水しぶきが散って、わたわたと小宮から少し離れた。


「違います。小宮に会いに来たんです」

 怒りん坊の花緒がいなくて嬉しいくらいです、という言葉はぎりぎりのところで飲みこんだ。

「私に?」

 一度では足りず、三度、水器は頷いた。

「あ、でも、花が、なくって」

「私は構わないわ。花は嬉しかったけれど、いつももらってばかりで申し訳なかったもの」

「花がなくても、小宮に会いに来て良いのですか?」

「もちろんよ。花がなければ駄目だと思っていたのですか?」

「駄目というか」

 水器は口ごもる。花があれば、小宮が微笑んでくれると思っていたのだ。けれども、花がなくても、目の前の小宮は微笑んでくれている。


「花がなくても、用事がなくても、会いに来てくれて嬉しいわ」

「本当に? どうして?」

 身を乗り出した水器に、小宮は笑って、空を見上げた。

 水器もつられて、同じ空を見上げる。顔に雫が注いで、水器はくしゃみをした。


「大丈夫ですか? 濡れないといっても、雨の中では寒いのでは?」

「平気です。そうだ、小宮は黄石を知っていますか?」

 自分を心配させることから話題を逸らそうと、水器は黄石のことを口にした。花緒と関わりがあるということは、ミツとも関わりがあるということだ。彼が何者なのか、知っておきたかった。願い事の件もある。


「黄石? ええ、知っています。もうすぐ婚礼の式があるの。花緒が忙しそうにしているわ」

「そうか、それで花緒はしばらく社に来ないのですね」

 やむを得ない理由があったことにほっとして頷いてから、水器は首を傾げた。

「その、婚礼の式とは?」

夫婦めおとになるのよ。一生を連れ添う誓いをするの」

 両手の指を絡めて、小宮はうっとりと言った。


「ずっと一緒にいるということですか?」

「そうね。ずっと一緒にいて、ずっと大事にするということよ」

「ふうん」

 わかったふりをして、水器は頷いた。

 一緒にいる、というのはわかる。けれども大事にする、とは一体どういうことだろう。


「小宮は誰かと夫婦なの?」

「残念ながら、まだそういう人には出会えていないわねえ」

「ふうん」

 にこり、と水器は笑んだ。

 小宮は目を細める。こちらは笑ったのではなかった。睨んでいる、に近い。


「あの、黄石は『花緒に認めてもらえますように』ってお祈りに来たのだけど、どういう意味でしょうか?」

 前髪を引っ張りながら、水器は話題を変えた。睨む小宮は、花緒よりも怖いかもしれないと思う。

「いけないわ。他人の祈り事を勝手に話しては」

「そう……? ごめんなさい」

 水器は肩を縮めた。

 小宮が手を差し出す。白い手が雨に濡れた。


「でも、ミツ様に縋りにいくほど、黄石が悩んでいたなんてねえ」

「花緒は、黄石を認めていないということ? 黄石のことが嫌いなの?」

「それは、私が花緒の代わりに答えるわけにはいかないわ」

 雨に触れていた手を戻して、小宮が言った。

「どうしたら、花緒は黄石を認めますか? お祈りを、僕、叶えたいのです」

「水器が叶えるの?」

「この間だって、お天気にしてくださいというお祈りを叶えました」

 それを水器が成したことだと、水器自身も認めているわけではなかったけれど、胸を張って言った。


「そうなの? すごいのね」

 水器は、雨が降っているにも関わらず、地面から、足がふわりと浮いたように思った。

「それに、僕、ミツ様のお役に立ちたいのです」

 ミツの花を全部摘んでしまったことは、まだ水器の心にざらざらとした砂を残していた。ミツへの頼み事を代わりに請け負えば、少しの償いになるのでは、と思っている。償いとはならなくとも、ミツに褒められれば嬉しいし、小宮に感心してもらえればなお嬉しい。


「でも、僕は黄石のことをよく知らないし、花緒は僕を見ると怒るし、困っているんです」

「まあ」

「小宮、教えてください。どうしたら、黄石の願いを叶えられますか?」

 水器は、社に来る人たちがそうするように、両手を合わせて頭を下げた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ