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雨冠  作者: 雪尾 七
第一話
6/15

挿話 花の雨

まだ水器が社に来る前の、ミツと花緒の話。

 手桶から片手で水を掬い、はらりと撒く。

 水はまばらな雨となって白い花びらを滑り、白い砂地に吸いこまれて消えていく。


 ミツは膝をかがめると、長い白い髪を耳にかけ、白い花の様子を一輪、一輪、確かめて、地に水が足りなければそっと水をかけて湿らせた。

 やわらかな風に、白い花弁が笑うようにそよぐ。その様子に、ミツは目を細め、三本ある尾を応えるようにふくりと揺らした。


 顔を上げると、湖の平らかな湖面で陽光が遊んでいるのが見えた。常にこの小島が纏っている霧のせいで、水平線を見晴るかすことはできない。

 けれども、わずかな波の変化をミツは見逃さなかった。耳を立て、機敏な動作で立ち上がる。拍子に、手桶を倒して慌てて直した。花のほうへ倒れなかったことに、ほっと胸を撫で下ろす。


 慌てて地面に膝をついたせいで濡れてしまった袴の裾はぎゅっと絞った。しわになってしまったことに今は目をつぶる。

 すぐ後ろの社の裏口から、中へ上がる。

 社殿の一番奥に座したが、少し考え直した後に、膝をにじっていくらか前に身を乗り出した。人々が拝しに来る格子戸までは、まだミツが寝そべられるほどの距離がある。

 二秒ほど考えて、ミツはもう少し、格子戸のほうへにじり寄った。もう少し。あと一歩分だけ。もう少しだけ……。


 鼻先が格子戸に当たって、ミツははっと尾を立てた。

 階段を軽快に上がる音が近づいてくる。

 ミツは慌てて床に身を伏せた。格子になっているのは、戸の上半分だけで、体を伏せれば、ミツから格子の向こうは見えない。

 ミツは、三角形の耳を萎らせた。


 社殿の奥に座していれば、格子ごしにやってくる人が見えたのだ。社殿の奥は影になっていて、向こうからはこちらの姿をみられることはない。

 ミツは、音を立てないように鼻をすすった。


 足音の人物は、階段を上り、格子戸の前までたどりついたようだ。

 賽銭箱も鈴もない社殿だが、細い注連縄だけは下がっている。その注連縄で区切った領域に差した影で、ミツは参拝者の正体をはっきりと胸に悟った。


 明朗な柏手の後に、形のはっきりした声が社殿の内に響く。


『ミツ様。いつも村を見守ってくださってありがとうございます。今日は、珍しいお酒が手に入ったので持ってきたんです。よろしかったら、召し上がってください』


 立ち去っていく足音を、ミツはぴんと張った三角形の耳でかすかになるまで捉えてから、注意深く、格子の隙間から顔を出した。


 少女の小さな背中は、岸辺に寄せた舟のところへ到着したところだった。

 そのまま舟に乗るかと思えば、突然少女が社のほうを振り返る。

 ミツは慌てて格子の下に身を伏せた。


 充分時間を置いてから、ミツは格子戸を開き、少女の置いていったものを見た。

 素焼きの小さな壷だ。

 ミツは身を乗り出して、くんくんと中の匂いを嗅いだ。


 両手でそうっと壷を捧げ持ち、待ち構えた舌の先に、一滴をぽとりと落とす。

 すると、ぶるぶると体が震え、一瞬、全身の毛がぶわりと大きくふくらんだ。衝撃が去ると、ミツの体は再び人間のそれに落ち着く。


 ミツは体を確かめてから、今度は一口、こくりとそれを飲む。

 ぶるぶるっと体が震え、ミツはにこりと笑んだ。

 ごくりごくりと喉を鳴らして、一息に壷の中身を飲み干す。


 壷を胸に抱きしめて、ミツはにっこりと満面の笑みになった。

 すくりと立ち上がると、よたよたと後ろによろけ、一人で可笑しそうに笑う。


 ミツが壷のふちに小さく口づける。

 すると、壷の内に真っ白な花びらが満ち溢れた。

 ミツは右によたよた、左によたよたとよろけながら、手のひらにその花びらを掬うと、空に撒く。


 花びらは風に乗り、軽やかに遠ざかっていく。

 ミツはそれを見上げながら、踊るように、繰り返し、花びらを空に撒いた。






 目が覚めると、世界は真っ暗だった。

 その上窮屈で、酒臭く、頭が重い。

 くらくらする頭を持ち上げるのに、苦労しながら立ち上がると、ミツは自分が四つ足で立っていることに気がついた。どうやら、酔って狐の姿に戻ってしまったらしい。


 すぐにも人の形を取り戻そうとしたけれど、くらくらする頭のせいで、うまく像を結べない。


 それにしても、あまりに世界が暗く、息苦しい。夜で曇っているにしても、どうにも様子がおかしい。


 どこかに閉じこめられてしまったのかという考えもよぎったけれど、毛並みには外の風が触れている。

「……」

 ミツは尻餅をついて、前足で頭に触れてみた。

 固い、少しざらついた感触に覚えがある。

 寝てしまう前まで抱えていた壷に相違ない。


 どうやら、ミツは狐の姿に戻ってしまったあげく、頭を酒の入っていた壷にすっぽりはめてしまったようだった。


 前足を使って、ミツは頭から壷を外そうと試みたが、力を入れすぎると首から抜けてしまいそうなほど、きっちりはまってしまっている。


 勢い余って仰向けにひっくり返る。

 悲しくなって遠吠えのように吠えると、壷の中で声が反響して耳が痺れた。

 仰向けにひっくり返ったまま、ミツは呼吸が整うのを待った。


 呼吸が落ち着くと、ミツはとりあえず立ち上がろうと、前足と後ろ足をじたばたさせる。

 頭の壷が重くて、上手くいかなかった。


「ミツ様ー」

 天女と紛う声がしたのはその時だ。

 声の前に舟と足音の気配に気がつけなかったのも、壷のせいだ。


「ん? 狐?」

 じたばたとミツは空中で足を掻く。

 こんな姿を天女、もとい、酒を持ってきてくれた少女、花緒に見られるのは恥ずかしくてたまらなかったけれど、逃げようにも、体を起こすこともままならない。


「何、あんた、起きられないの?」

 花緒が可笑しそうに吹き出すのがわかった。

 ミツは壷の中で耳を下げる。いっそ壷の中に体ごと隠れてしまいたかった。


「お供え物を勝手に飲んじゃうからでしょう? もう、ミツ様に持ってきたのに」

 言いながら、花緒はミツの胸から腹の毛並みをわしわしと片手で撫でた。

 ミツは緊張で体を硬直させる。


「わあ。おまえ、ふわふわだねえ。気持ちいい」

 抱きしめられて腹部に頬を擦り寄せられ、ミツは変な声が出そうになったのを歯を食いしばって堪える。


「あれ?」

 花緒がミツの尾に触れた。

「三本も尻尾がある……。おまえ、もしかして」

 ぎくり、とミツの体が強ばる。

 花緒の表情から言葉の先を探ろうにも、壷の中なので、真っ暗闇だ。


「ミツ様の遣いか何か? それとも友だち?」

 ミツの体から力が抜ける。

「そっか。良かった。ミツ様、湖の真ん中で、一人で、寂しいんじゃないかなって思ってたんだ」

 花緒は一人で納得をして頷く。


「あ、でも、ミツ様のお酒を勝手に飲んだのは駄目よ。それとも、優しいミツ様が、あなたに分けてくれたのかな」

 えい、と花緒が壷を引っ張ると、すぽんとミツの頭から壷が抜けた。細腕なのに、彼女は存外力が強い。

 突然明るくなった視界に、ミツは目をしばたたいた。ちかちかと明滅する視界に、花緒の笑みがきらめく。


「ふふ。取れて良かったね?」

 ミツはお礼の代わりに、花緒の顎から鼻先までをぺろりと舐めた。


「ぎゃあ! お酒臭い!」

 放り投げられて地面に転がる。

 ミツが落ちこんでいるうちに、花緒は顔を手で拭ってから、いつものように社の前で手を打ち鳴らした。

 しばらく目を閉じて、何かを祈っているようだけれど、社の外にいるミツにその声は届かない。


 そわそわしながらミツが見守っていると、目を開いた花緒が、

「お礼を言っていたの。花びらの雨、とても綺麗でしたって」

 綺麗な笑みで言った。


 ぶんぶんとミツの三本の尾が振れる。

 どうにかこの嬉しい気持ちを伝えようと、花緒に向かって跳躍すると、鋭い手刀で撃墜された。


「君のお礼は結構です」

 

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