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雨冠  作者: 雪尾 七
第一話
5/15

4.雨はまた明日

 水器は社の屋根の上で、仰向けに寝転んで、笛を吹いていた。

 否、吹いていたというのは形ばかりで、笛の穴に息を吹きこんでいたけれど、相変わらず音色にはならず、水器のほうも、奏でようというよりはただ溜息を笛の内に溜めているような感覚だった。


 溜息の原因は、小宮のことに他ならない。

 例えば、笛を奏でられたとして、もし、それで雨が降ったとして、水器は小宮に会いに行けるだろうかと考えていた。


 小宮は水器に何かを伝えようとしているらしい。

 花緒とのやりとりを考えると、それはどうやら愉快なことではないようだった。

「もう会いに来ないでと言われたらどうしよう……」

 想像しただけで、体がひび割れて、粉々に砕け散ってしまいそうだ。

 ミツにも相談できず、水器は昨日から一人でこうして溜息を笛に吹きこむばかりだった。


 今日はまだ、小宮に会いに行っていない。

 空は相変わらずの曇天で、機嫌の悪そうな色をしていた。

 眉根を寄せた花緒の顔が思い出される。

「……そうだ。昨日は花緒の機嫌が悪くてあんな話になっただけかもしれない。小宮は何も悪いことを言っていなかったし」

 むくりと体を起こす。

 言い聞かせると、悪く考え過ぎだったかもしれない、と思い直した。

 すると、突然、小宮の顔が見たくなる。


「昨日は結局、花をあげられなかったし。心配しているかもしれない」

 水器は自分に相づちを打つように頷いた。

 小宮に心配をかけるなんていけない。

 小宮に会いに行く正統な理由ができたようで、水器は勇んで立ち上がった。


 社を出ると、いつものように花の世話をしているミツのところへ行く。

「ミツ様。小宮に会いに行きます。花をくださいますか?」

 水器が声をかけると、ミツは振り向いて、困ったように耳を下げたあと、小さく首を横に振った。

「駄目、ということですか?」

 水器が問うと、ミツは体を引いて、花の植わっていた場所を示して見せた。

 目を向けた水器は息を吸った。


 そこに、花は一輪も咲いていなかった。

 砂の地面はただのっぺりと平らかで、ミツがいなければ、そこに花が咲いていたことはわからなかっただろう。そこが濡れているのは、花がなくとも、ミツがそこに水を撒いていたためか。


「昨日の花が、最後の一輪だったのですか?」

 水器の問いに、ミツはうなずきを返す。

 心臓が、どきりと音を立てた。


 昨日の花を、水器はどうしたのだったか。


 小宮に渡せなくて、むしゃくしゃして、湖に捨ててしまった。

 あまりにも軽く、あまりにも無雑作に。


「僕が、毎日花を持って行ったから?」

 ミツは頷かず、首を横に振ることもなかった。ただ、優しい瞳で水器を見下ろしている。

「ミツ様。ごめんなさい……」

 水器は俯いたまま言って、とぼとぼとその場を離れた。

 湖の岸辺にうずくまる。

「どうしよう……」

 膝に顎をのせ、湖の水面を見はるかす。相変わらず水上には霧が立ち、湖はどこまでもどこまでも、果てしがなく続いているように思われた。灰色の雲を映した水面は、不穏なさざ波を立てている。


 どこかに白い花びらの欠片が見えないかと目をこらし、はっとしては水面を走ったけれど、それは、気まぐれに光った波の頭だったり、いたずらな魚の尾びれだったり、あるいは鳥の羽だったりして、水器は期待をしては落ち込む、ということを幾度か繰り返した。


「村に行けば、花が咲いているかな」

 探しに行こうか、と迷う。

 集落の方角を見て、それから、反対側の山のほうを見る。

「そうだ。村になければ、山を探して」

 それでもなければ。

「小宮に話をして、渡した花を返してもらえるだろうか。事情を話せば、分かってくれる、と思う」

 水器は腰にさした笛に手を当てた。小宮と話すには、雨が必要だ。

 けれども、まだ水器はろくに音を出すこともできない。


「それならば、ミツ様に頼んで……」

 言いかけて、口をつぐんだ。ミツへの償いに動こうとしているのに、彼の手を借りていては意味がない。

 また、溜息だ。


「小宮に喜んでほしかっただけなのに」

 それが結局、小宮を困惑させ、花緒を心配させ、ミツを困った笑みにさせてしまった。

 思い出すのは、ミツに花をもらった、花緒の笑みだ。


「同じように、したかっただけなのに」

 一度、微笑んでもらえれば、もう一度、さらにもう一度、と欲が出た。

 それが誤りだったのだと、ようやく水器も理解したけれど。


「他に、どうすれば良かったんだろう……」


 花をあげた。

 喜んでもらえた。

 また花をあげるのでは駄目ならば、その次は?

 ミツは何も示してはくれなかった。

 それではわからない。


 はっと水器は顔を上げた。

 舟が一艘、社の小島へ近づいてきている。

 花緒が言っていたことを思い出す。


『ミツ様に相談してこようか?』


 小宮は断っていたけれど、水器が去った後で気が変わったということもあり得る。正義感の強い花緒のことだ。小宮はああ言ったけれど、やっぱり心配で一人で来たのかもしれない。


「僕は、」

 駆けながら、掠れた声が水器の耳に届いた。

 他でもない、自分の声だ。

「誰かを困らせるものにしかなれないのだろうか」

 問いかけに答えてくれるものは誰もいない。

 無論、周囲に誰かがいたとしても、雨のない水器の声は誰にも届かないのだ。

 水器は乱暴に目尻を手の甲でこすった。


 舟は島の岸に着いて、男が一人、下りたところだった。

「花緒じゃなかった……」

 ほっと水器は肩の力を抜いて、すぐに男に追いついた。

 横顔を見ると、なんとなく見覚えがある。集落で見かけたのだろう。背の大きな、熊のような男だった。蓄えた髭と濃い眉が、厳めしい印象を与える。のしのしと歩く足跡が、大きく砂地に続いた。


 水器は男を追い越して、社へ先回りをした。裏の戸口から急いで社の内へ入ると、すでにミツはいつもの場所に座し、静かに姿勢を正していた。

「ミツ様」

 水器が声をかけると、ミツはにこりと笑ってうなずく。


 水器は自分の座布団をミツの隣に引っ張って、そこに並んで座った。膝を抱えて座ってから、ミツの真似をするように、慌てて正座に切り替える。

 ぴん、と背筋を張ると、社の澄んだ空気が体をすっと通り抜けていくようだった。

 ミツが頭を撫でてくれる。

 水器はつい背筋が緩みそうになって、途中で気がついて立て直した。


 花緒とは違う、重たい足音が社の階段を上がってくる。

 手を叩く音も、花緒のものとは違い、太く響き渡り、水器は思わずびくりと肩を揺らしてしまった。


『ミツ様、ミツ様。どうか、明日はお天気にしてください。このところのどんよりした空のせいで、作物がすっかり元気がないのです。どうぞ、この重たい雲を吹き飛ばし、お天道様をお呼びください』


 男の祈る声が社の内に響く。

 水器はそっとミツの横顔をうかがった。ミツは瞳を閉じて、静かに男の声に耳を澄ましているように見える。

 男は再度、太い手を打ち鳴らし、階段を重くきしませて去っていった。

 しかし、様子をうかがおうと水器が身を乗り出したところで、再び男が急ぎ足で戻って来る。水器は慌てて居住まいを正した。


 男は先ほどよりも大きな音で、一度、手を打ち鳴らす。

 水器は驚いて飛び跳ねそうになったのを、床に手をついてこらえた。


『すみません、ミツ様! 嘘をつきました。いいや、作物のことも嘘じゃあないんですが。お天気にしてほしい本当の理由は違うんです』


 男の声は、先ほどよりも熱を帯びている。

 水器は知らず、身を乗り出して男の顔をのぞいた。眉を寄せ、ぎゅっと力強く目を閉じている。合わせた手は、力を込めすぎてか、細かく震えていた。


『明日、山向こうの村へ嫁に行った娘が、孫を連れてこっちへ来てくれることになっているのです。うちのが足が弱いんで、山ひとつ向こうからわざわざ孫の顔を見せに、あっちから来てくれるってことになってるんです。大層な距離ではないかもしれませんが、雨が降っては大変です。曇りでも、森は暗く、足元が危うくなってしまいます。見晴らしが悪く、道に迷ってしまうかもしれません。小さな孫は暗い森に怯えてしまうやもしれません。手前勝手なことではありますが、そんなわけで、明日はどうしても晴れてほしいのです。どうぞ、よろしくお願いいたします』

 深く、深く、男は頭を下げてから、階段を下りて、社を去っていった。


「ミツ様は、お天気にも、できるのですか?」

 水器は、乗り出していた体を戻して、ミツに聞いてみた。

 ミツは水器を見てから、宙空を見上げ、耳を二回ほどぱたりぱたりと動かしてから、首を横に傾げた。

 水器も同じように首を傾げると、にこりとミツが微笑む。


「ええと」

 水器は立ち上がって、戸を開けた。男が供えていった包みを取って、ミツに渡す。

「どうぞ、ミツ様」

 ミツは頷いて、手の上でそれを確かめる。

 供え物は、種のようだった。

 ミツはそれをまた同じように包み直し、裏戸のほうへ立ち、水器を手招いた。


「はい」

 水器はミツの後に続いて、社の裏手へ出る。

 並んで立ったのは、ミツが花を育てていた場所だ。

 ミツは屈んで、砂の表面を指先で少しへこませると、そこに先ほどの種を一粒落として、やさしく砂をかけた。

 水器はぼんやりとそれを隣で見ていたが、ミツに種の包みを渡されて、大きく目を見開いた。


「え?」

 水器が戸惑っていると、ミツは水器の両手に強引に包みを持たせてしまう。

「え?」

 水器は包みとミツとを見比べる。ミツは二回、力強く頷いた。水器はその意味を、混乱する頭で必死に考える。

 そして、そっと指先を砂につけると、それをぐいと押し込み、ミツがしていたように、そっとそのくぼみに種を落としてみた。


 ミツを見上げると、笑顔で頷いている。

 正解だったことにほっとして、水器は種を置いたくぼみに砂をかぶせた。

「できました」

 ふう、と息をついて、ミツが種を埋めた場所と見比べる。同じようにできたと思う。種を埋めていない場所も、同じように見えたが。


 包みをミツに返そうとしたが、ミツは受け取らず、しきりに地面を指差す。

「他の種も、埋めたら良いのですか?」

 水器が問うと、ミツはにこりと微笑んだ。

 三本の尾がふさりと揺れる。

「がんばります」

 水器は呼吸を整えると、慎重に指を砂に押し込んだ。息を止めて種を落とし、丁寧に砂をかぶせる。その動作をゆっくりと繰り返した。


 すべての種を埋め終えると、ミツを見上げる。

 ミツは頷いて、つぎに手桶を水器に差し出した。水器はそれを受け取って、ミツの顔を見た。ミツは頷くだけだ。

「ええと」

 手桶は空っぽだ。

 これに水が入っているのを水器は見たことがあった。


 湖のほとりまでいって、水を汲んで戻ると、ミツに頭を撫でてもらえた。

 ミツは屈んで片手を桶に差し入れると、薄くその中の水を掬って、種を埋めた地面に撒いた。それから、水器のほうを向いて桶を示す。


「はい」

 今度はすぐに水器も理解して、桶に手を入れると、水を掬って、ミツと同じように地面に撒いた。けれども、片手ではミツと同じようにうまく水を掬えない。水器は両手を使って水を掬い、地に撒いた。

 水は砂地にすぐに吸いこまれて、その部分だけが、すこし重みを増す。重大なものがそこに埋まっているように思えた。


 無心に水を撒いていたら、ミツに肩を叩かれた。もう終わりで良いらしい。

 いつの間にか、辺りは暗くなり始めていた。

「ミツ様。花のこと、本当にごめんなさい」

 何度謝っても足りない気がして水器が言う。

 ミツは首を振って、いつものようにやさしく微笑むだけだった。


 翌朝、水器はミツに再び手桶を渡されて、昨日と同じように、種を埋めたところに水を撒いた。

「これ、何の意味があるのだろう」

 濡れた砂にそっと触れてみる。

 何かの儀式だろうか、と水器は考えた。

 それとも、花をすべて摘んでしまった水器への罰なのかもしれない。

 花の咲いていた地に、種を供えて、水で浄める。ミツが水器に課した償いの形というふうに考えることができそうだった。

 水器は一人うなずいて、いっそう厳かに水を撒く。


 そういえば、と空を見上げると、相も変わらず曇っている。昨日の男のために、ミツは特別何かをした様子はなかった。

 動いた拍子に、腰に差した笛が足に触れた。

 今日は、まだ笛の練習をしていない。


 笛を取り出して、社の梯子段に腰かけた。

 歌口うたぐちに唇を当てる。

 そのまま笛を構えて、呼吸が整うのを待っていたけれど、結局、笛に息を吹き込むことなく腕を下ろした。

 屋根の庇越しに、空を見上げる。


「どうせ、僕の笛では雨は降らないのだけれど」

 それでも、万が一ということもある。

 水器は雨が降ってほしい。小宮と話がしたいからだ。

 ちくりと何かが刺さったような気がして、胸元をこする。

 小宮と話がしたい。

 でも、もしかしたらそれは、小宮と話ができる最後になってしまうかもしれないのだった。


 湖に仰向けに寝転んで漂っていたら、いつの間にか、本当に眠っていたらしい。

 目をこすって体を起こすと、夜だというのにやけに明るい。

「ああ、月が出ているんだ」

 太りかけた月は、まだ満月まで日があることを示していたが、それでも、最近の曇り空に比べると、ずいぶんと明るかった。


「それでは、昼間は晴れたのかな」

 水器は欠伸まじりにつぶやく。

 晴れでも曇りでも、水器は構わなかったが、あの熱心に祈っていた男が喜んだかな、と思うと胸の内にも少しばかり光が灯るようだった。


 飛び跳ねるように湖の上に立つと、辺りを見回した。

 漂っているうちに、社よりも集落の近くまで来ていたらしい。

 水器は、社の方角と、集落の方角とを見比べた。

 そわそわと肩が揺れる。

「ちょっと、顔を見るくらいなら。庵の傍に行くだけでも良いし」

 足先を、集落の方向へ向けた。

 湖に映る月の光の上を、水器の影が滑る。真っ直ぐな光は湖面で散らされて、無数の花びらのように散り散りに輝いた。


 見慣れた竹林に到着する。

 広く地上に降りそそいでいた月光の帯は、竹林の中ではかよわくほどけ、細かな星の欠片のように散り、明かりとしては心もとない。


 風もないのに、さわさわと葉の擦れる音が聞こえる。集落中の人々は、すでに深い眠りの中にあるのだろう。いつもはどこからか聞こえる人声もまったくなく、静寂に、自分の心音だけがひどくうるさい。体中が心臓になったみたいにどきどきしていた。


 夜気が冷たい。触れた竹も冷たく、見慣れたはずの竹垣も庵も、月明かりに他人の顔をして、親しみを与えてはくれなかった。水器はたった一人、世界でたった一つの熱源になったように思う。


 ふ、と息を吐いて体を軽くすると上に跳ぶ。

 竹垣の内の、木の上に降り立つ。

 今までこうして跳んだことはなかったけれど、不意にやり方がわかったのだった。月を見上げる。竹林の中では見え隠れしていたその姿があらわになっていた。けれども湖で見た時より、その姿は遠いように思える。


 木の上から庵の方を見下ろして、水器はぎくりとした。

 人形が立っている、と感じたのが最初だ。

 月を見上げる、美しい人形が立っている。

 けれども、人形ではない証拠に、磨かれた宝玉のような瞳が瞬き、桜色の花びらのような唇が微笑んだ。


「綺麗ねえ」

 彼女が言う。


 水器も月を見上げた。

 月はふっくらと丸みを帯びた姿で夜を支配している。凛々しく、高みで無言に君臨するその姿は、水器の瞳に焼き付いた。

 竹林が、月の光の一部のように、鋭利に光の檻を作っている。その光の檻に、この庵は閉じこめられているのだった。


 水器の肌も、髪も、月の色に染まる。

 そっと視線を下ろすと、月の光に縁取られて、小宮が微笑んでいた。

 水器は、枝を伝い、小宮の視線の先に移動する。

 背中に月を背負って、水器は小宮を見下ろした。

 小宮は飽かず、月を見上げている。水器を透かして、愛しい瞳で、月を見上げている。

 水器も飽かず、そんな小宮を見下ろしていた。


「綺麗ですね」

 呟く言葉を、声にしたかどうか。





 翌朝一番に、天気を願った男が舟で社へやって来た。若い女と、小さな子供を連れている。

 男は、太い手を打ち鳴らした。昨日さくじつよりも、さらに音が大きく響く。


『ミツ様! お天気にしてくだすって、ありがとうございました! おかげさまで、娘も孫も、無事に村に着きました』

『どうも、ありがとうございました』

 男に続いて、娘も頭を下げる。


「誰にお礼を言っているの?」

 子供の声が言った。

「ミツ様よ。お天気で、怪我もなく、こっちまで来られたのはミツ様のおかげなの。あんたもようくお礼を言っておきなさい」

「ミ?」

「ミツ様。この辺りをずっと見守っていてくださるのよ。ほら、お礼、言えるでしょう?」

「うーん」

 母親に背を押されたが、子供はもじもじと母親の背に隠れたがった。


「もう、仕方がないわねえ」

 そうして、三人は並んで帰っていった。

 水器は格子越しにそれを見送って、そろりと戸を開ける。供え物の包みを持って、奥のミツのところへ戻った。


「ミツ様。どうやってお天気にしたのですか?」

 今日も空は晴天だ。

 水器は今朝からずっとミツの様子を伺っていたけれど、特別、何かをしていた様子はない。それとも、昨日、水器が寝てしまっていた間に何かをしていたのだろうか。


 水器の問いに、ミツはゆるく首を振って、ただ尻尾をふわりと揺らした。

 その意味に、水器が考えを巡らせていると、渡そうとしていた包みをミツに押しつけられる。

「あ、はい。またあそこに埋めておけば良いのですね」

 役目を頼まれたのだと思って、水器がうなずくと、ミツは腕を組んで俯いてしまった。


「ミツ様?」

 ミツは顔を上げると、包みを叩いてから、水器の胸を叩いた。

「え、と」

 水器はミツの伝えたいことを考える。


「これを、食べろ、と?」

 ミツはきょとんとした後に、首を振り、笑ってから、うなずいた。正解なのか不正解なのか、わからない。


「埋めるのですか、食べるのですか?」

 どちらの問いにも、ミツは笑顔でうなずく。

「……つまり、どちらでも構わない?」

 ミツは大きくうなずいた。

 水器は手の中の包みを見つめた。

 埋めても食べても、水器の好きにして良いのだとミツは示した。


「僕が、いただいて良いということでしょうか?」

 ミツが頭を撫でてくれる。

 水器は嬉しくて、一瞬、体が浮き上がった。

「ありがとうございます」

 その時だった。


「ミズさまー」

 遠くから、幼い声が響く。

 水器は、ミツと顔を見合わせてから、小さく開いていた戸を大きく開けて、身を乗り出した。

 太陽の匂いを乗せた風が吹き抜け、青空が光る。

 湖の、舟の上から、先ほどの子供が両手でこちらに手を振っていた。


「ありがとうー」

 水器は気づけば社を出て駆け出していた。

 小さな子は、舌足らずが故に、『ミツ』が『ミズ』になってしまったのだろう。それでも、水器には嬉しかった。


 湖の岸まで駆けた水器は、その表面を薄く持ち上げて空に放つ。

「ありがとうを、ありがとう!」

 お礼を言われるようなことを、水器は何もしていない。

 笛を吹くのをためらっただけだ。

 そのときには確かに、男のことを一瞬、考えたけれど。


 でも、きっと、何か大層なことをするのが全てではなく。

 一瞬でも、わずかにでも、心を向けることで、誰かの笑顔につなげられるのかもしれない。


 水器の跳ね上げた水が、太陽の光を受けて、舟の頭上に虹を描く。

 舟の上の親子は、歓声を上げて笑顔を見せた。

「晴れの日も、少し好きになれそうです」

 水器は、太陽に向かって言って、集落へ帰っていく舟を、いつまでも見送っていた。

1話了。

挿話をひとつ挟んでから2話に入ります。更新は月曜日の予定です。

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