3.降らない雨
水器は唇を湿らせて、瞳を閉じた。
思い描くのは音だ。
雨と共に聴いた音色を、耳の奥に明確に描く。
背筋を正し、正座した足の親指を一度入れ替える。
笛を横に構え、自分の呼吸で拍をとった。
す、と早朝の清涼な空気を吸い込む。
腹に力を込め、息を吐き出すと、ぷすー、と失笑のような音が出た。
「ああ……」
澄んだ姿勢を崩して、水器は社の床に寝そべる。頬に当たる床は固く冷たい。
ミツに笛を預けられてから七日、朝も夕も水器は笛の練習をしていたが、一向に上達は見られなかった。
「せめて、ミツ様が教えてくれたらなぁ」
ミツの耳には届かないように、小さな声でぼやく。それでも声に出したのは、もしか聞こえてしまったら、仕方がありませんねという笑みで微笑んで、教えてくれる気になってはくれないだろうか、という儚い望みがあるからだ。
水器の目線の先にいるミツは、雑草を抜いたり水を撒いたりして、白い花の世話をしている。熱心な瞳は花にばかり向けられて、水器を振り返る様子もない。
水器は寝転がったまま、少し強めに、笛に息を吹き込んだ。
ぴひょー、と裏返った音に、ミツの目線が上がり、水器は慌てて居住まいを正した。
ミツは尾を振って微笑むと、再び花の世話に戻る。
水器は肩を落とすと、空を見上げた。
晴れてはいない。
灰色の雲はある。
けれども、雨の匂いはしなかった。
水器は笛を筒にしまい、腰に差すと立ち上がる。
ひょい、と社の床から飛び降り、ミツのほうへ駆け寄った。
「ミツ様。花をいただいても良いでしょうか」
ミツは、水器を見つめてから頷いて、花を摘んで、水器に渡す。
「ありがとうございます。小宮のところへ、行ってきます」
ミツは一度空を見上げてから、水器に向かってうなずいた。
湖を渡りながら、水器はなぜ、ミツが空を見上げたのだろうと考えた。
雨が降っていないのに? と言いたかったのだろうか。
話せなくても、顔が見たいと思うのはいけないことだろうか。
「でも、頷いてくださったし」
声に出して、水器は自分を励ます。
空は灰色だ。
このところ、ずっと同じ色をしていた。
晴れるでもなく、雨が降るでもなく、灰色の雲ばかりが、行き先を決められず、空を停滞しているようだった。それが、水器の下手な笛のせいなのかはわからない。けれども、自分の溜息が雲になって漂っているのだと言われたら、きっと納得してしまうだろうと水器は思った。
水に濡れれば姿を見せられるかと思い、湖の水を浴びてみたりもしたけれど、うまくいかなかった。天から降る雨でなければ駄目らしい。
考え事をしながらでも、体が勝手に集落まで連れて行ってくれるようになった。あの雨の日から七日、一日も空けずに通っているのだ。体のほうがもう道のりを覚えている。
集落の人間の顔も、幾人か、見覚えができた。
湖の一番近くにある家には、腰の曲がった老人が一人で住んでいる。漁師たちの相談役になっているらしく、今日はどこに舟を出したら良いか、など、よく男たちが尋ねているのを見かけた。
花緒より怖そうな女の人もいた。彼女を見ると、男たちはこそこそと畑のうねの間や舟の底に身を隠す。彼女の横を通るとき、水器も彼らの真似をして身を隠した。
水路ではよく子供たちが遊んでいたが、誰が誰やら、水器にはまだ見分けがついていなかった。一人だけ体の大きい、兄貴分のような少年だけは顔を覚えた。初めて集落に来たとき、花緒と仲の良さそうだった少年だ。花緒と話している姿も何度か見かけている。
その花緒だが、この七日間、社に姿を見せなかった。ミツは気にしている風ではないから、今までだって間が空くことはあったのかもしれないけれど、せっかく少し仲良くなれたかと思ったのに、距離を置かれてしまったようで、水器は少し気になっていた。
だから、小宮のところに到着した時に花緒の姿を見つけて、
「花緒!」
と思わず声をかけてしまった。無論、花緒は気づいた様子もない。構わず、小宮と話している。
「……で、まだ花攻撃は続いているの?」
花緒は縁側に腰かけて、難しい顔をしていた。
「花攻撃って。別に、攻撃をされているわけではないわ」
小宮は花緒の横に膝をついて座っている。口元は笑みの形をしていたが、眉は少し困ったように下がっていた。
「そうだけど。毎日でしょう? また小宮は妙なものに好かれて。あんまり執着されるのは良くないと思うよ」
「そうねえ」
何の話をしているのだろう、と水器は思った。小宮が困っているならば、力になりたい。
形だけでも仲間に入りたくて、水器は小宮の隣に膝を抱えて座るように並んだ。地面に足がつかないのと同様に、縁台に尻をついて座れるわけでもない。それでも、並ぶ目線に、水器は胸が高鳴った。
「ミツ様に相談してこようか?」
ミツの名前に、水器は身を乗り出して、小宮の向こう側に座る花緒を見た。
花緒は、心配そうな目を小宮に向けている。
そこで初めて、水器は花緒と小宮の間に小さな器があることに気がついた。覗きこむと、底の浅い小さな器には水が湛えられていて、いくつかの花が浮かんでいる。白い花だ。今、水器の袖の中にあるものと同じ花だった。
水器は嬉しくなって小宮を見上げたけれど、小宮は困ったような目を空に向けていた。
「そうねえ……」
「良いものか、悪いものかも分からないんだから、早いうちに遠ざけたほうが良い。気に入られてとり憑かれるのも迷惑だし、変に機嫌を損ねて祟られても困るでしょう?」
「でも、悪いものではないと思うのよねえ。だって、花緒の『ミツ様』の縁なのでしょう?」
「わたしのミツ様って何よう」
「あら。照れてる。可愛いわねぇ、花緒」
二人の間には、明るい笑い声が交わされる。
けれども、水器は指先から次第に冷たくなっていくようだった。
「ともかく、これ以上小宮に水器を付きまとわせないでくださいってミツ様に頼んでみるわ」
瞬間、水器は心臓が凍りついたような感触を覚える。
話はついたとばかりに、花緒は立ち上がる。
待って、と花緒にすがりつきたかったけれど、水器は全身が氷漬けになってしまったかのように、うまく体を動かせなかった。
「待って、花緒」
代わりに止めてくれたのは小宮だ。
動かない体で視線だけを動かして、水器はその横顔を見る。
「もう少し、このままでも良いかしら」
「けど……」
「ええ、花緒の心配はわかるわ。ありがとう」
「それなら」
「大丈夫。自分で伝えるわ」小宮の声は、夜空で最初に光る星のように凛としていた。「わたしに伝えさせて?」
「小宮……わかったよ」
しぶしぶと花緒はうなずく。でも、困ったことがあったら言ってよ、と声をかけてから、木を登って竹垣の外へと帰っていった。
水器はそろりと小宮の横顔を伺う。
小宮は、静かな視線を花の浮いた器に落としていた。その表情からは、小宮の伝えたい言葉はわからない。
水器は音を立てないように、そっと庵を後にした。
袖の中の花は、途中で湖に捨ててしまった。