2.恵みの雨
翌日は、笛の音がなくとも雨になった。
水器は朝から踊っている。
雨ならば、また小宮と目を合わせることができる。
言葉を交わすことができる。
水干の長い袖が羽のようにふくらみ、ひとつに結った髪が空中に弧を描く。
一息ついたところで踊るのを止め、胸に手を当てて、瞳を閉じた。
するとすぐに、小宮の顔を思い出すことができる。
理知的な黒い瞳。
月のような白い肌に、夜のように黒くしっとりとした髪。
小さな唇から、白い小さな歯が見えた。
「驚きました」
少し掠れた、雨に溶けてしまいそうな微かな声で彼女は言った。
「村の子ですか?」
違います、と水器は答えようとしたけれど、喉が渇いて声が出ない。代わりに、大急ぎで首を横に振った。
「水器です」
今度は声が出た。
「あの、これを」
言って、花を差し出す。
小宮は、瞳を見開いてから、大きく瞬きをした。
そうしてから、片手で袖をおさえて、もう片方の手を伸ばす。細い手首が見えた。
「ありがとうございます。この間も、お花があったけれど、水器がくれたのですね?」
花を受け取って、小宮が言った。
小宮が呼んでくれた名前が、胸の奥で痺れるように細かく震える。
水器が頷くと、小宮は目元を優しく下げ、唇をやさしく緩めた。
「私は小宮と言います。お花をありがとうございました、水器。けれどもなぜ私に?」
目に星が入ってしまったみたいに、視界がちかちかと眩しかった。
水器は急いで瞬きをして、息を吸い込む。
「熱が下がりますように、と。花緒の願い事で」
「花緒の?」
水器は頷く。
もしかして、と小宮は言った。
「ミツ様のお社からいらしたの?」
「ミツ様を知っているのですか?」
いいえ、と小宮は首を横に振る。
「けれども、花緒からお話を聞いているので。そう、ミツ様の……」ふふ、と小宮は笑みを洩らした。「花緒に自慢しても良いかしら。嬉しいわ。たまには私からも、何か楽しい話を花緒にしたかったのだもの」
「そう」
自分が、小宮の『楽しい話』になれたことに、水器は鼻を高くする。
「お礼も言わなくてはいけませんね。おかげで、熱は下がりました。ありがとうございます」
両手を床について、深々と小宮は頭を下げた。
「あら? 水器?」
顔を上げた小宮が、不思議そうに首をかしげる。
「小宮?」
水器も、突然どうしたのかと首をかしげ、彼女の視線が自分をすり抜けていることに気がついた。
はっと顔を上げると、雨はいつの間にか上がっている。笛の音も、もう聞こえなかった。
「小宮!」
少し強めに名前を呼んでみたけれど、彼女の耳に届いた様子はない。
「夢を見ていたのかしら?」
「夢ではないです!」
「……これは、幻ではないわね」
小宮は花びらをそっと、人差し指でなでる。
「小宮」
「水器」
また会えるかしら、と小宮は花びらにそっと囁いた。
昨日から何度も繰り返した回想を終えて、水器はほうっと溜息をついた。
道順は覚えていたし、水器から小宮のところへ会いに行くのは簡単だ。
けれども、雨でなければ水器の姿は小宮に見えないし、声も届かない。会いに行ってもそれでは会ったことにはならないのではないか。
そこへ、この恵みの雨だ。踊りだしたくなっても仕方がないというもの。
しかし、雨には雨で問題があった。
雨が降ると、水器の足は地面につくのだ。
今も、下駄を履いている。濡れた砂の上を歩くと、足跡もつく。
湖の上を歩けるかどうか試してみたけれど、水の上に立つことはできなかった。
泳いでいけるだろうか、と考えたけれど、遠いし、時間もかかる。そうしているうちに、雨が上がってしまっては元も子もない。
水際をぐるぐると歩いていると、社の戸がかたりと開く音がした。
顔を上げると、ミツが戸口に立ち、手招いているのが見えた。袖を翻してそちらへ駆けていく。
下駄を脱いで階段を上がると、肩や髪から雨粒が弾かれていった。
「はい、ミツ様」
ミツは、水器の頭を撫でて、肩をやさしく叩く。
「何でしょうか?」
水器はミツの意図がわからずに、ただその穏やかな顔を見上げた。ミツは微笑むばかりで、水器に言葉を与えてはくれない。ただ、いつもより少しだけ機嫌が良さそうだと思えた。三本の尾がふさふさと揺れている。
仕方なく、水器はただミツに撫でられるままに立っていると、ミツは人差し指をすいと口元に立てて、水器を置いて社の中に入ってしまった。
舟を漕ぐ音が近づいてくる。
「あ」
水器は階を一つ飛ばしに下りて、下駄をつっかけた。
立ち止まって、雨に濡れていると、やがて、舟が岸に着く。
舟で一人、笠をかぶった少女は花緒だ。
舟を降りた花緒は、水器と目が合った。
目が合った。
「花緒」
水器が呼ぶと、花緒はいぶかしげに眉を寄せる。
「誰?」
水器は言葉が届いたことに目を輝かせると、飛び跳ねるように駆け寄って、花緒の手をとる。花緒は驚いた顔をして、慌てて水器の手から自分の手を抜いて、二歩、後ろに下がった。かかとが舟に当たって、水面に波を作る。
「水器です。舟に乗せてください」
水器は花緒に逃げられた両手をちょっと見てから、思い出したというように、二度打ち鳴らして頭を下げた。願い事をするときの人間の作法だ。
「ええ? 何? 一体……というか、誰?」
「小宮に会いに行きたいんです。お願いします」
「小宮に? あ、えっと、水器って、そうか、小宮が言っていた奴」
「小宮は僕のことを何か言っていました?」
水器は勢いよく顔を上げた。背中で結った髪が跳ねる。
「……」
花緒は口をへの字に曲げていた。怒っているのか困っているのか、水器にはわからなかったけれど、笑顔でないことだけは確かだ。
「花緒?」
「とりあえず、ミツ様にお参りさせて」
花緒は水器の脇をすり抜けて、社のほうへ向かう。
笠を水器に押しつけて段差を上がり、袂から包み紙を出して供えると、手を打ち鳴らしてしばらく拝んでいた。社の外にいる水器には、花緒のその声は聞こえない。
笠を弄んで待っていると、花緒が目の前に立つ。
「今日はお礼に来たの。花緒の熱が下がったから」
水器から笠を取り上げてかぶり直しながら、花緒が言った。
「熱、下がったんですね。良かった」
水器はほっと顔をほころばせる。
そんな水器を半眼で見て、花緒はすたすたと舟へ戻る。
「あ、花緒」
「乗るんでしょう、舟。早くして」
「! はい!」
水器は慌てて花緒に続く。
一度だけ、社を振り返ると、戸の隙間からそっとミツがのぞいて、手を振っているのが見えた。水器は会釈を返す。
「水器、だっけ。あなたは何? ミツ様の子供とか?」
舟に乗ると、花緒が水器をじろじろと眺めながら言った。
彼女が力強く櫂をこぐと、ぐん、と舟が進む。狭い舟で、水器はなるべく邪魔にならないように、膝を抱えて小さく座った。花緒の強い瞳の前では、体もきゅっと縮む心地がする。
「子供、とは違います。ミツ様の笛で目を覚ましたのです」
「意味がわからないわね。いずれにせよ、幻夜の住人ということか」
「幻夜の住人?」
「あなたやミツ様のように、不思議な者のこと。小宮がそう呼んでる。あの子は夢見がちなのが好きなんだ」
「へえ、小宮が……」
幻夜の住人、という言葉を口の中で噛みしめる。ミツの育てている、白い花の香りがした。
「ねえ、ほっぺた引っ張っても良い?」
「え? 嫌ですけど」
頬を抑えた水器を、花緒が睨む。
「触ってみないと、幻かどうかわからないわ」
「ええ……? では優しくならいひゃいいひゃいっ!」
優しくなら良いと言い終わらないうちに花緒に思いきり頬を引っ張られた。
「人間の皮をかぶった狸ではないようね」
「……わかっていただけたようで良かったです」
自分の中の一番低い声で水器が言った。
「花緒は、ミツ様を知っているのですよね?」
まだ痛む頬をさすりながら、気になっていたことを水器は聞いてみた。
「そうだけど」
「お参りだけではなく、会って行けば良いのに。ミツ様だって、きっと喜びます」
「……わたしが行くと、ミツ様は隠れてしまうでしょう?」
「そういえば……」
格子の間から姿が見えてしまわないように、がんばっていたミツを思い出す。
「ミツ様はわたしに会いたくないということよ」
「そうは思いませんけど……」
「そういえば、君は雨に濡れないのね」
話題を切り替えるように、声の調子を変えて、花緒が言った。
花緒の言う通り、水器に触れた雨は、つるりと滴になって水器の服や髪の表面を滑り、濡れて染みることはなかった。
「雨は僕の輪郭だから」
「輪郭?」
「雨の日じゃないと、目に見えないし、声も届かない」
「ふうん」
「だから雨の日は嬉しいです」
「そう。わたしは雨の日は好きじゃないわ。じめじめするし、濡れてうっとうしいもの」
「……そうですか」
「……」
「……」
花緒の笠に雨が落ちるのを水器は見つめていた。
ふっ、とその水滴を吹き飛ばしてみたけれど、雨はあとからあとからまた、笠を濡らすのでまるで意味がない。
花緒が顔を上げたので、水器は口笛を鳴らす振りをした。
「下手ねえ」
花緒が呆れたような半目で薄らと笑う。
集落に着くと、花緒が舟を止める前に、水器は岸に飛び降りた。
「ありがとうございました、花緒。それじゃあ」
「ちょっと、待ちなさい!」
すぐさま走り出そうとした水器を、花緒が引き止める。
「わたしも一緒に行くわ」
舟についた縄を杭にかけると、水器の前に仁王立ちになり、花緒が言った。
「場所はわかりますよ?」
「わたしが一緒ではいけないと言うの?」
「そうでは、ないけれど……」
「では構わないでしょう? さあ、さっさと行くわよ」
先に立って歩く花緒の背に、とぼとぼと水器は続いた。
花緒の足跡に、水器の足跡が重なって続く。
雨のせいか、途中で誰ともすれ違わなかった。今日ならば、手を上げて挨拶ができたのに、と水器は少し残念に思った。
竹やぶが見えてくる。
雨の中で、辺りはすこしけぶって、花緒と離れると迷子になってしまいそうだった。
立ち止まってぼんやりする水器を花緒は待たない。水器はあわててその背中を追いかけた。
今日もやはり、花緒は竹を上るようだった。
「どうして、入口がないのですか?」
水器の疑問符を、花緒は鼻息で吹き飛ばす。
「知らないわよ」
答えになっていない。
花緒が上る隣の竹を、するすると水器も上る。こつをつかめば存外容易いものだ。花緒とほぼ変わらない速度で、竹垣の中へ降り立った。
「あんた、お猿の遣いか何かなの?」
「花緒こそ、お猿の親戚じゃあないの?」
「何ですって?」
「花緒は怖い顔ばっかりです。本当は鬼が化けているのでは?」
本当に角が生えてきそうな顔で睨まれて、思わず水器がたじたじとなったところへ、軽やかな笑い声が差した。
「小宮!」
水器と花緒の声がぴたりと合う。
む、と花緒が睨むのを、水器も負けじと睨み返した。小宮に、花緒より弱いと思われるのは心外だ。事実、彼女より弱かったとしても、小宮にそう思われるのは嫌だという気持ちだった。背伸びをしても、花緒の背に届かないのが口惜しい。
「雨なのに、来てくれたのですか? 二人とも、ありがとう」
「雨だからです!」
水器は袖を翻して小宮に駆け寄った。
「こら、水を飛ばすな。小宮にかかる」
花緒が水器の襟首をつかまえる。
「あ、ごめんなさい」
花緒に襟首を掴まれたまま、水器は気遣わしげに小宮を見やる。
小宮は片手を口元に添えていた。瞳は優しげに微笑んでいる。
「わたしよりも、花緒のほうが濡れているわ。ほら、裾に泥も跳ねているじゃない」
「わたしのことは、いいんだよ」
「良くありません。すぐそうやって言うのは、本当に花緒の良くないところ。ほら、こちらへ来て」
小宮は花緒を手招くと、部屋から手ぬぐいを持ってきて、花緒の肩や着物の裾を軽く叩いた。
「大丈夫だよ。小宮が濡れてしまう」
「駄目です。怒るわよ」
小宮は笑顔で言ったのに、花緒は怯えたように口を結んでおとなしくなった。水器は、そんな小宮に尊敬の目を向ける。
すると、小宮と目が合った。
「水器は? 笠を差していないけれど、濡れていないの?」
「濡れないんだって。この子」
先に答えてしまった花緒に、水器はむっとした顔になったが、小宮の問うような視線に気づいて、しかめた眉を慌てて開いた。ついでに腕も広げて、水を弾いてみせる。水の丸い雫が、花が咲くように、ぱっと広がった。
「はい。雨は僕を濡らしません。あ」
水器の弾いた雫で、花緒と小宮が濡れてしまったことに気づく。
二人の髪から、同時にほたりと雫が落ちた。
「ご、ごめんなさい!」
慌てて水器が袖を振ると、余計に雫が飛び跳ねる。
「みーずーきー」
花緒の口から、呪詛のような声が出た。
「ふふ、くふふふふ」
小宮の口からは、魔性のような笑い声が飛び出す。
それから、三人で他愛もない話をたくさんした。
花緒が魚を釣り上げようとして湖に落ちたことを話せば水器が笑い、小宮が心配そうにし、天気の好い日にはミツが陽だまりで丸くなって昼寝をするという話を水器がすれば、花緒は身を乗り出して、小宮がのんびりと微笑んだ。
たくさん笑い、沈黙の惜しさに言葉を連ね、「あのね、小宮」と水器は何度も名前を呼んだ。その度に、小宮は水器のほうを見てくれた。
「そんなふうに、とても楽しかったのです」
社に帰ってから、水器はミツに今日の出来事を話した。鬼のような顔の花緒については話していない。
ミツは頷きながら話を聞いて、最後に頭を撫でてくれた。
水器は覚えた笑顔でミツを見上げる。ミツのように尾が生えていたならば、それは勢いよく振れていたことだろう。
「明日も、雨が降らないかなぁ」
社の戸口から顔を出し、真っ暗な空を見上げる。雲の間から、わずかに星が見えた。雨雲は去っていこうとしているらしい。
「ミツ様」
水器はふと思い出して、ミツを見た。
「あの笛で、明日も雨にしてくださいませんか?」
水器が目覚めた時、笛の音が聞こえ、雨が降っていた。小宮と最初に顔を合わせたときにも、笛の音が聞こえた。
あの笛は、雨を呼んでくれるのだ。
ミツは、腕を組んで、少し困ったような顔をした。
「お願いします、ミツ様。明日も、小宮とまた話がしたいのです。あまりたくさん話すと小宮が疲れるから、と今日は花緒に止められて。僕はまだ、たくさん話をしたかったのに……」
ミツは顎をなで、ひとつ、尾を振ると、社の奥から、笛を持ってきた。
それを見て、ぱっと水器の顔が明るくなる。
「ありがとうございます、ミツ様!」
ミツはにこりと笑むと、しかし、それを己の口に当てることはせず、水器の両手に押しつけた。
「え?」
水器は、笛とミツとを見比べる。
ミツは、うんうん、と二回頷いた。
「ええと、僕が吹くのですか?」
おそるおそる尋ねると、ミツは大きくうなずく。
もう一度、笛とミツとを見比べて、水器はそうっと笛に唇を当ててみた。
ふ、と息を吹き込む。
音は出ない。
「あの、僕には吹けません」
水器が言う。
しかし、ミツは励ますように水器の肩を叩いて、社の奥へ下がってしまった。
水器は笛を手に、夜空を見上げる。
口を尖らせて、星を吹き飛ばそうとしたけれど、まるで届く気がしなかった。