表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雨冠  作者: 雪尾 七
第一話
2/15

1.出会いの雨

 湖の水を両手で掬い、空に、ぱっと投げ上げる。


 水は空中に広がり、不規則に地面に散らばって降った。

 降ってきた水を払うように、水器は首を振る。それを見て、ミツが愉快そうに笑った。

 水を散蒔ばらまいたのはミツである。足元に並ぶ花たちにそれで水を上げたつもりなのだ。

 白い小さな花が細かに並んでいる。花弁は水滴を丸く湛え、ミツの笑い顔と水器の間抜けた顔を順番に映していた。


 笑うミツに、水器は溜息を返し、指先で、つん、と花弁をつついた。小さな丸い水滴が、水器の人差し指に移る。それを唇に含み、水器は空を見上げた。

 曇天である。

 灰色の雲が空を覆っている。しかし、雨の匂いは遠く、今日はその空から水滴が零れてくることはなさそうだった。


 目覚めの日、雨宿りに借りた社で水器はいまだに過ごしていた。

 今日は雨が降らなくとも、明日は雨になるかもしれないし、と水器は自分に言い訳をしている。明日のための雨宿りだ。ミツは何も言わずに、水器を置いてくれている。何も言えずに、というわけではないと思いたい。


 ミツは花の様子を見ながら、時々、湖に目を向ける。

「あの子を待っているんですか?」

 水器が問うと、ミツは三角形の耳と、三本ある尻尾の毛をふくらませて、両手で顔を覆う。そして、そろりと両手を下げて金色の瞳だけ水器のほうへ覗かせると、小さく頷いてから、また両手で顔をすっかり隠してしまった。


「そうですか……」

 水器は人差し指で次々に花弁をつつき、水滴を地面にこぼした。水滴は、砂地にすぐに吸いこまれて見えなくなる。


 水器が、雨宿りに社にとどまるようになってから、七回、月が昇って落ちた。

 その間に、ミツの待つ『あの子』は、水器が現れた最初の日と、それから三日を空けてもう一度、姿を見せている。決まった頻度で訪れているのかどうかは分からない。

 彼女の他にも二人ほど、この湖の真ん中にある社を訪れた人間がいた。少女と同じ村の人間なのかは分からなかったが、供え物をし、手を打って、社に心の内で声をかけたのは同じだ。


『家族が健康で過ごせますよう、お守りください』

『今年も良い作物が収穫できるよう、ご助力をお願い致します』

 社の中で、水器はその声をミツと共に聞いていた。ミツは静かにその声を聞いていて、『あの子』にしたように、花を渡すために水器を走らせることはなかった。彼らの願い事を叶えるために、ミツが何かをしたのかは水器にはわからない。何もしていないように、見えたけれど。


 水器は彼らの後を追って、声をかけたり、顔をのぞきこんだりしてみた。けれども二人とも、少女と同じように、水器に反応を返してくれることはなかった。やはり自分は、人間の目にはうつらない存在らしいと理解する。


 湖の水面がゆれる。

 花を育てている社の裏手から、正面のほうへ回ると、誰かが舟を漕いでこちらに来るのが見えた。

 遠目でもすぐに分かった。

 あの少女だ。


「ミツ様」

 水器はミツを呼んで、社の影から一緒に近づいて来る舟を見た。

 ミツは白い頬を薔薇色に染めて、嬉しそうに微笑んでいる。

 ミツが嬉しそうだと、水器も嬉しい。

 同じ雨を浴びるように、同じ気持ちが天から降りそそぐようだった。


 少女が島に舟を着ける前に、社の裏手から慌てて中に戻る。表戸には階段があるが、裏口からは木でできた梯子でのぼる。地面に足のつかない水器だけれど、社の内では足がつく。ミツは意外に身軽でひとっ飛びだけれど、水器は一段一段、踏みしめて段を上がった。わずかな距離で、空気の匂いが変わる。自分の匂いが、ミツの匂いに近づく。この瞬間を、水器は気に入っていた。


 社の中に入ると、少女はちょうど舟を島に着けたところのようだった。ミツはそわそわと戸の影に身を寄せる。身を隠すくらいだから、ミツの姿は少女には見えるのかもしれない。そういえば、彼女はミツの名前も知っていた。言葉を話さないミツだから、彼の名前を知ったのも、彼女を通してのことだった。

 二人の関係に興味を惹かれながら、水器は何も言わずに、ミツの隣に並んで屈んだ。水器の姿は少女には見えないけれど、一人堂々と立っているのも気が引ける。


 階段を上ってくる足音がする。

 少女の吐く息の音が聞こえる。以前より少しだけ、重たいように思えた。

 その重さを断ち切るように、威勢良く、手が打ち鳴らされる。


小宮こみやの熱が下がりますように』


 社に響いた声は、いつものようなやわらかい感謝の言葉ではなく、力のこもった願いだった。その圧力に怯んだ水器は、ミツの袖をつかんだ。


 少女は頭を下げて、階段を下りていく。

 ミツはめずらしく、その背を視線で追わず、天井を見上げていた。

 そこに何かあるのかと、水器もつられて天井を見上げる。木の梁が見える。ウロの模様の一部が狐のようであるのを発見した。

 肩を叩かれる。

 いつのまにか、ミツは天井を見上げるのを止めて、水器の斜め後ろに立っていた。手には、社の裏手に咲いていた白い花を手にしている。


「はい。あの子に渡してくれば良いのですね」

 押しかけの居候の身ならば、そのくらいの遣いは易いものだ。

 水器は心得顔に頷いたけれど、ミツは眉をしかめて首を振った。違うらしい。

「では……?」

 水器は疑問をわかりやすく示すように首を傾げる。

 しかし、ミツは水器の背を押して、早く行けと急かすばかりだ。花をどうすれば良いのかはわからなかったけれど、とりあえず少女の後を追わねばならないらしい。


 水器は社の外に出る。

 振り返ると、ミツは両手の拳を握って頷いていた。その動作の意味は、水器には理解しかねた。

 首を傾げながらも、少女の後を追う。

 少女はすでに舟に乗りこみ、湖に漕ぎ出しているところだった。

 水器はその後を追って、湖に足を滑り出す。少女の漕ぐ舟の水尾をなぞるように湖の上を進んだ。


 灰色の空は、それを映す湖もどろりと淀ませる。少女の引く道から逸れると、そのどろりの底へ引きずられそうで、水器はふるりと背を震わせる。


 湖の向こうへ行くのは初めてだった。

 水器は何度も社の方を振り返り、方角を確かめた。

 社から離れるにつれ、水器は自分の体の中身が軽くなっていくような気持ちになっていた。人型の輪郭がほどけそうで、ぎゅっとこぶしを握った。


 薄い霧をぬけると、すぐに岸辺が見えてくる。その岸辺からすでに集落が始まっているようだった。田んぼが青々と広がっている。その間に点々と家が建っていた。

 途中、釣り竿を持った男の舟とすれ違う。


「よう、花緒。またお参りに行っていたのかい? 熱心なことだなあ」

「当然だよ。ミツ様はわたしの恩人だもの。ああ、あの時のミツ様の光り輝く美しい姿ったら……」

「また始まったよ。花緒のミツ様賛美。もうその話しは聞き飽きたよ」

「わたしはまだ言い足りない」

「勘弁してくれ。こっちの耳が光り輝きだしそうだよ」

「なによう」

 軽口をたたきながら、男と少女は互いに手を上げてすれ違った。水器も真似をして手を上げる。わかっていたことだけれど、男は水器に気がつくことはなかった。


「花緒」

 水器は呼んでみる。おそらく、それが少女の名前なのだろう。

「花緒」

 忘れないようにもう一度、歌うように口ずさむ。

「ミツ様の光り輝く話、僕は聞きたいです」

 花緒は水器の願いに答えることもなく、湖から伸びる水路に舟を進める。水器は後に続いた。


 山と山との間の平地に集落は作られたようだ。ところどころにある家は、ミツの社とは形が違った。味気のない小屋のようで、嵐がくれば吹き飛んでしまいそうだ。


 田畑と漁で生活は賄われているらしい。

 田畑には時々人が立っていた。花緒に気がつくと、手を上げる。水器もそのたびに、花緒といっしょに手を上げた。ミツのように、尾や獣の耳が生えた人は見かけない。


 水路の幅が少し広くなっている場所に出た。水中から飛び出た杭に、花緒は舟につながれた綱を引っ掛ける。

「よ、っと」

 花緒が舟から下りたので、水器も水路から外れて花緒の横に立った。


 竹林がある。


 真っ直ぐに連なる竹林は、日の光に青々と神々しく、まるで檻のように外界との境をへだてている。

 檻は何かを閉じこめているようでもあり、守っているようでもあり、こちらを拒絶しているようでもあった。

 空気を隔絶するような、そのへだたりが美しい。

 しばらく見惚れていると、隣にいたはずの花緒の姿がない。

 慌てて見回すと、竹林を分け入っていく後ろ姿を見つけた。彼女には、この神々しさは無効らしい。水器にはまだミツに託された花がある。急いで後を追った。


 竹林に踏み入れる。

 すん、と水器は空気を吸い込む。湖とは違う水の匂いがする。

 すぐ脇の竹に触れて、鼻をくっつけてみた。少し冷たい。月夜と同じ匂いがした。

 花緒は、と首を巡らすと、少女も同じように周囲をきょろきょろと見回していた。水器は近づいてみる。

 竹垣がある。屋根が見えるので、内側に建物があるのはわかった。

 しかし、周囲をぐるりと囲んだ竹垣に隙はない。竹垣のうちに、その建物は閉じこめられているように見えた。


 これは何の建物だろう、と水器が不思議に思っていると、花緒は着物の裾をからげ、帯の間に挟んだ。細い足首と、ふくらはぎまでが露になる。ミツが見たら、気絶してしまいそうな姿だ。

 これはミツに報告すべきか、水器が悩んでいると、花緒はその姿のまま、近くの竹の一本に抱きついた。草鞋をぽいと脱ぎ捨てて、そのままつるつると上りだす。


「……お猿のようですね」

 しかし、彼女に猿の尾は生えていない。

 花緒はいくらも経たずに竹垣と同じ高さまで上ってしまった。


「小宮」

 花緒は竹垣の内に手を振ると、体重をかけて竹をしならせ、竹垣の内側の木に身軽に乗り移る。

「……」

「あはは、このくらい余裕だよ。それより小宮こそ、寝ていなくて良いの?」

 彼女は、竹垣の中の誰かと話をしているらしい。小宮、と呼んでいる。聞き覚えのあるそれは、花緒が願い事をかけていた名前だ。


「……」

「でも、顔色がまだ良くないよ」

「……」

「はいはい。けれどねえ、わたしが過保護になるのは、小宮が弱音を言ってくれないからさ。それが嫌なら、少しは弱いところを見せておくれよ。それが色気のある女の秘訣だって、姉ちゃんも言ってたよ」

「……」

「わたしのことは良いの! わたしはその、色っぽい女になりたいなんて思ってないもの。強くたくましい、熊のような乙女になるの」

「……」

「あ、ほら、咳が出た。ごめんね、わたしもついおしゃべりをしちゃったから。そろそろ戻るよ。小宮も、部屋に入って休むんだよ」

 じゃあね、と手を振って、花緒は竹垣の外へ張り出した枝にぶら下がると、軽々とこちら側へ着地した。

 一度、竹垣のほうを見上げてから、くるりと背を向けて、竹林の中を駆け足で去っていく。

 水器はそれを追いかけようとしたけれど、竹垣の中の『小宮』が気になった。花緒のことは後で追いかければ良い。小さな集落のようだし、探せばすぐに見つかるだろう。


 一人頷いて結論を出し、花緒の真似をして、竹の一本に飛びついた。地面から足は浮いている水器だけれど、空を自在に飛べるわけではない。苦労しながら、両手と両足を使って竹を上る。竹垣よりも高く上ると、

「せえの」

 思いきって体重をかけ、竹をしならせる。

「わ、わわ!」

 勢いがつきすぎて、竹垣にぶつかりそうになるのを、腕を突っ張って、なんとかこらえた。

 ふう、と一息ついたところで、竹垣の内に目をやると、小さな庵があるのがわかった。その縁側に座っていた少女と目が合った。

 気がした。


「風もないのに竹が揺れて……。お猿でもいたのかしら」

 片手を頬に当て、首を傾げる。長い黒髪がさらりと肩を流れた。

 陽光に似たあでやかな色の着物に緋袴と、目を引く装いをしている。人形に魂が入って動き出したようだった。それほどに、少女のあごの形も、髪の一筋も、吐く息でさえ、精巧な美を描いている。

 水器は瞬きも忘れて、その少女に見入った。


「雨が降りそうな空……」

 水器も少女の視線を追うように、空を見上げた。

 そびえる竹のむこうに、薄い空が見える。曇ってはいたけれど、水の匂いはしない。


「雨は降らないと思いますよ」

 小声でそっと伝えてみた。けれど少女は溜息を落として、立ち上がると部屋の中へ入ってしまう。

 水器は、少女のいなくなった縁側をしばらく見つめていた。彼女が、花緒の言っていた『小宮』なのだろう。

『小宮の熱が下がりますように』と花緒は願っていた。具合が悪いのだろうか。けれども、立って歩けるほどだから、そうひどくはないのだろう。

 花緒の願いを叶えることを、おそらくミツは望んでいる。

 けれども、水器には人の熱を下げる方法などわからない。


「ああ」

 手の中の花を、水器は思い出した。竹に上ったりしたせいで、花びらが一枚欠けてしまっている。

 花を渡したときの、花緒の様子を水器は思い出していた。

 小宮の姿を、そこに重ね合わせてみる。


 胸がくすぐったい。今まで存在すら忘れていた心臓が、急に音を響かせ始めた。

 竹にぶら下がったまま、今度は慎重にそれをしならせる。

 花緒のように軽々とはいかず、震わせながら伸ばした腕で、なんとか竹垣の内側の木の枝に移った。

 地面に激突する怖れがないので、上から下りるのは簡単だ。水器は、木の枝から音もなく飛び降りる。常のように、足は地面から浮いている。


 小宮の座っていた縁側に近寄った。

 竹で編んだ簾が下りていて、部屋の様子は見えない。けれども、奥に人の気配はうかがえた。そこに彼女がいるのだと思うと、肌を雷が這うような感覚がする。


 花びらが欠けてしまった花を、縁台の上に置く。

 そのまま立ち去ろうとしたけれど、花の頼りなさが心もとなく感じられた。これで小宮の熱は下がるのだろうか。

 けれども、姿も見せられない、声も届けられない自分が、他にどうしたらよいのかわからない。


 少し迷って、花緒の真似をすることにした。

 簾に向かって、両手を打ち鳴らす。


「小宮の熱が下がりますように」


 手を合わせて、じっと祈った。

 何に祈ったのかは水器にもわからない。

 ああそうか、と水器は思った。ミツはきっと、人々にとって祈りを受け入れてくれる居場所なのだ。そう思うと、ミツに会いたくてたまらなくなった。


 その後は、花緒を追わずに、ミツの社へ一目散に帰った。

 息が上がる。

 心臓が喉から飛び出すのではないかと思った。


 そんな水器を出迎えて、ミツはにこりと微笑んで、首を傾げた。

「あの、ミツ様!」

 水器は息を整える間も惜しんで、報告をする。


 花をあげたのです。

 女の子に。花緒の願い事の『小宮』に。

 手渡したわけではないから、気がつかなかったかもしれない。

 風に吹かれてどこかへ消えてしまったかも。

 お祈りもしました。

 花緒のやるのをよく見ていたので大丈夫です。

 願いの声は中にいた小宮に届いたと思いますか? 社の中の僕たちに声が聞こえるように。

 小宮の熱は下がるでしょうか。

 ミツ様、ミツ様。

 誰かに花を贈るのは、こんなに嬉しいものなのでしょうか。

 ミツ様も同じですか?

 花緒に贈るときに、同じ気持ちになりますか?


 その夜、水器は屋根の上からずっと村のほうを見つめていた。

 霧のせいで、村の形は欠片も見えない。明かりも影もわからない。わかっているのは方角だけだ。

 それでも、見つめていると、嬉しさが、腹の底から染み出してくるようだった。


 雲の裏側で、太陽が白く昇る。

 今日も空は曇ったまま。晴れるでもなく、雨が降り出すでもなく、昨日と変わらぬ空だ。

 水器は滑るように屋根を下りて、社の中に顔だけ出した。


 奥の座で、ミツは目を閉じていたが、水器の気配にまぶたを上げた。

「ミツ様。また、小宮に花をあげに行っても良いですか? 昨日の花は、花びらが一枚欠けてしまっていたし、きちんと受け取ってもらえたのか分からないので」

 水器が言うと、ミツは微笑んで頷いた。

「ありがとうございます!」


 社の裏で、二番目に形の良い花を選んで摘んだ。ミツが世話をしている花だ。一番の花を摘むことはできない。

 湖を滑るように渡って、村へ向かう。

 朝の漁へ出る舟をいくつか見かけた。乗っているのは男ばかりだ。

 昨日と同じ道をたどる。水路で、子供が三人、桶に水を汲んでいた。男の子ばかりが三人で、二人は水器よりも小さく、一人は青年になりかけている年に見える。顔が似ているので家族かもしれない。せっかく汲んだ水を、掛け合って遊んでいる。


「こらー。さっさと水汲んで戻らないと、また怒られるよ?」

 知っている声に、水器は水路の上で足を止めた。花緒だ。片手に桶を持っているので、彼女も水を汲みにきたのだろう。

「はぁい」

「花ちゃんも、母ちゃんみたい」

 花緒の声に、小さい二人は手を下げる。

 しかし、大きい一人は意地悪な形に口を曲げて、花緒に水を引っかけた。


「……やったな?」

 前髪から水を滴らせ、花緒が瞳を光らせた。獲物を狙う鷹のように、鋭い瞳だ。

 花緒が足で水を蹴り上げると、大きな男の子が派手に濡れる。

「……よし、おまえら、花を攻撃だ」

「攻撃ー!」

「いくぞー!」

「かかってきなさい、小童どもめ」

 歓声を上げて、水遊びが始まる。


 水器は、手にした花を胸に寄せて守るようにして、その場を通り過ぎた。

 竹林が見えると、心拍数が上がった。今度はためらわず、真っ直ぐに竹垣に守られた庵へと向かう。

 竹垣に戸口がないか、念のためにもう一度探してみたが、びしりと並んだ竹に、中を透かすわずかな隙間もなかった。

 やはり、昨日のように竹を上るしかないらしい。


 花を丁寧に袖にしまって、慎重に竹を上る。ゆっくりと体重をかけて竹をしならせると、昨日よりも上手く、内側の木の方へ移動することができた。

 庵の方を見下ろすと、縁側に人影はない。

 水器は木から飛び降りた。


 部屋は簾が下りて中の様子はうかがえない。縁台に、昨日の花はなかった。

 袖から花を出して、花びらを綺麗に整える。

 一度、花を縁台に置いてから、角度を変えて、もう一度置き直した。


 室内のほうへ目をやる。簾の向こうには、人の気配がするような、しないような、曖昧な感じだった。簾を上げてみたい気持ちをこらえる。

 しばらくその場で膝を抱えて待っていたけれど、簾の動く気配はなかった。諦めて、水器は庵の敷地から出る。何度も振り返りながら、とぼとぼと社への道を辿った。


 行きは弾んでいた心が、石のように重い。

 灰色の空はどんよりと雲を抱え、それを映す湖も、おどろおどろしく淀んで見えた。


「ミツ様」

 水器の声には力がない。

 ミツは問うように首を傾げ、狐の耳をぱたぱたと動かした。

「小宮に、会えませんでした」

 水器はしょんぼりと首を垂れ、足元を水たまりにしてしまうと、ぶくぶくと沈んでいく。ミツが心配そうに水たまりの縁を叩いても、その日はもう、水器は沈んだまま浮上してこなかった。


 翌日、目覚めた水器に、ミツが花を手渡した。ひと際大きく、形の良い花は、昨日、水器が選ばなかった一番の花だ。


「ミツ様、でも……」

 ためらう水器に、ミツは力強く頷いて、肩を叩く。三本の大きな尻尾もふさふさと応援するように振れた。

「ありがとうございます。いってきます」

 水器は花を受け取って、深々とミツに頭を下げた。


 空気に水の匂いが満ちている。今日こそ雨が降りそうだ。

 走る雲の速さに負けぬよう、一心に水器は庵を目指した。


 道順は、もう迷うことなく覚えていた。

 何人かの村人とすれ違ったが、今日は立ち止まったりせず、目もくれない。

 竹を渡って、竹垣の内へ下りる。庵は、昨日と同じ姿をしていた。

 けれども、縁台に、水器の置いた花はない。


 水器は手の中の花を、縁台にまた置くべきか迷った。せっかく、ミツが分けてくれた花だ。風に飛ばされたり、小宮以外の誰かに捨てられては困る。


 遠く、幻のように笛の音が水器の耳に届いた。

 ぽつり、と頬に水滴が落ちる。

 空を見上げると、ぽつり、ぽつり、と落ちてくる雫が見えた。

 額に、目尻に、頬に、ぽつり、ぽつり、と雨が始まる。


「あら、雨かしら」

 その音に惹かれたように、簾が上がった。

 空を仰いでいた水器は、驚いて顔を正面に戻すと、黒い瞳を大きく見開いた少女と目が合った。

 雨はゆっくりとした速度で、水器の髪を濡らしていく。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ