4.雨冠
最近の習慣で、水をやりに社の裏手に出た水器は、そこに花が咲いているのを見つけて驚いた。
ついこの間までは、葉っぱだったそれだ。
水器が種を埋めて、水を与え、芽が出て葉が伸び、ついにそこから花が咲いたのだ。
ミツが育てたのならともかく、自分の育てた種から花が咲いたことに、水器は信じられない気持ちだった。
幻ではないだろうか、と水器はまじまじとその花を観察する。
花は、ミツの育てていた花とは形が違っていた。
花弁を晴れやかに開いたものではなく、ひっそりと恥ずかしがるように、鈴の形に頭を垂れている。婚姻の式のあの日、水器の胸から零れた花と同じ形をしていた。
水器は息を止めて、震える指先で、そっとその花に触れる。触れられた花は小さく揺れて、幻ではない存在を静かに主張した。
「へへ」
水器は嬉しい気持ちを素直に笑みに変える。
強い風が吹いたのはその時だ。
水器は咄嗟に、花を背にかばうように立ち上がった。
「やあやあ。留守居ご苦労。そして、初めまして水生みの君」
柔らかく空を掃いていた白い雲はひといきに払われ、眩しいほどの青空が社の天辺に輝く。その輝きの中心に、白い人の姿があるのが、眇めた視線の先にうかがえた。
長く美しい銀髪に、すらりとした背丈のその人は、水器のよく知る人物の形に似ている。
「長らく留守にしてすまなかったね。狐くんが泣きついてきたときにはびっくりしたけれど、何だい、立派な器を招いていたじゃないか」
はっはっは、と鷹揚に笑うその人は、確かに水器がよく知る人物と姿形はそっくりだった。しかし、今目の前に下りてきたその人に、三角形の耳と三本の尾はなく、溢れ出る雰囲気がまるで違っていた。声を聞いたことはなかったけれど、たぶん、水器の知る人物だったなら、『はっはっは』などと豪快な笑い方をしないだろう。
「ええと」
「笛、聞こえたぞ。なかなかの音色だった」
「あ、ありがとうございます」
水器は肩をすくめてちょっと頭を下げ、そこで、男の肩に乗った白い狐に気がついた。
ただの狐ではない。
尾が三本ある。
「……ミツ様?」
思わず声をかけると、白い狐は耳を立て、身軽く宙を駆って、水器の頭に跳び乗った。
狐は労をねぎらうように、ぽんぽんぽん、と水器の頭をやさしく叩いた。
「ミツ、様?」
戸惑うように、水器は頭上と目の前の男とを見比べる。
ミツには双子の兄弟か何かがいたのだろうか。それほどに、彼はミツと瓜二つだった。
「『ミツ様』は私だよ。正式には『光器』、かな。そこの狐くんには、私の代理を頼んでいたんだ」
「え?」
「狐くん、力はもう取り戻したろう? 化けてごらん」
戸惑う水器の前に狐はするりと下り、光とともに、その姿を人型に変えた。
三角形の耳と、三本の尾をもつ、水器のよく知る『ミツ様』の姿だ。
「私は旅行が好きなんだけど、ここの主として、そうやすやすと社を空けるわけにはいかなくてねえ。そこで、この狐くんに、私の代理として留守を守ってもらっていたというわけさ」
「そう、だったんですか」
「うん、そう。だから怒らないでおくれね。彼は真面目に、役目を果たしていただけなのだから。あの婚姻の式の日までは、ね」
狐のミツは、肩をすぼめて、申し訳なさそうに耳と尾を萎れさせていた。
水器は大きく首を振る。驚いたけれど、怒る気持ちなどなかった。それよりも、不思議に思っていたことが氷解してすっきりしたくらいである。
「いいえ、怒ってなんていません。むしろ、納得しました。だから、ミツ様は花緒の前に姿を現せなかったんですね」
狐のミツを向いて、水器は言った。人とは違う耳と、人にはない尾を持つ彼は、どんなにミツの姿と似ていても、その耳と尾がゆえに、本物のミツの姿を知るものには、狐が化けているのだと易々と看破されてしまうだろう。
その秘密が知られてしまえば、きっと、互いに悲しい気持ちになったはずだ。
騙されていたといえばそうかもしれないけれど、水器には、ミツと花緒が悲しいことにならなかったことのほうが大事だ。
だから、水器は狐のミツに微笑んだ。
「ミツ様が、戻ってきてくださって嬉しいです。もう戻ってこられなかったら、と思うと、怪我をしていないのに、胸が痛くなりました。これがきっと、目に見えない傷なのですね」胸をおさえて、水器が言う。「ミツ様が戻ってくださって、その痛みはなくなりました。いらっしゃるだけで、目に見えない傷を癒してしまうミツ様は、変わらず、僕の尊敬するミツ様です。ミツ様、ミツ様の目に見えない傷は癒えましたか?」
ミツは目を潤ませ、水器の両手をとると、大きく一つ頷いた。
「大好きな子の婚姻式かと思ったら、別の子だったんだものね。慌てん坊というか、何というか。恋するものは心の振れ幅が大きくなるんだねえ」
本物のミツが鷹揚に頷いて、それよりも、と狐のミツの尾を三本まとめてぎゅっと抱きしめた。
「『ミツ』の名はそろそろ私に返してもらおうかな」
「あ……」
水器と狐の『彼』は、そろって『ミツ』に視線を向けた。
「留守居ご苦労。神気と祈りを蓄えた今なら、君の願いを叶えてあげられるだろう」
尾を離し、ミツが腕を広げて言う。
「ミツ様、じゃない、ええと、何か、願いが?」
呼び名がわからず、水器は狐の彼を向いて問いかけた。
「そうさ。彼は人になりたいと望んだのだ。その願いは今も変わらないかい?」
答えたのは、狐の彼ではなく、ミツのほうだ。
狐の彼は、ミツに頷いてから、水器に向かっても頷いた。
「人に……」
よぎったのは、花緒から隠れる、変化していた彼の姿だ。
「……そう、ですか。はい。ミツ様、僕は祝福します」
彼に、花緒の隣で微笑む未来をあげたいと思った。
狐の彼は、水器の言葉に瞳を潤ませ、三本の尾をふさふさと揺らした。
「だから、私が『ミツ様』だと言っているのに。ああ、そうか。狐くんに名前がないのがいけないんだね。『狐』ではそのままだし、ううむ、名前、名前ねえ……」
ぶつぶつと呟きながら、ミツは両手を打ち合わせた。水風船が弾けたような、急な鋭い音に、水器はびっくりして、少しだけ跳び上がってしまった。
狐の彼のほうを見て、さらに驚く。
彼は、突如現れた泡の渦に、ぐるぐると回転させられていた。ぱちぱちと弾ける光の泡が綺麗だが、中で『彼』は完全に目を回している。
「人間の男の子にはよく『太』の字を付けると聞いた。よし。君の名前は『狐太』だ」
もう一度、ミツが手を打ち鳴らすと、渦は空気に溶けるように消え、あとには、湿った少年が残された。
その姿は、ミツを幼くした様である。
「ミ……『狐太』、様?」
少年に、三角形の耳と三本の尾はない。
目を回していた少年は、新しい名を呼ばれると、ミツを見上げ、水器に視線を戻し、口をはくはくと開いて閉じた。
「あ、は……はい!」
少年、狐太は自分の声に目を丸くして、じわじわと頬を緩ませて微笑んだ。
「はい! 狐太です! ありがとうございます、光器様!」
水器よりも低い背丈になった狐太は、頬を興奮に火照らせ、飛び跳ねる。頭上の消えた耳を確認し、顔の横の新しい耳に触れ、尾のない尻を見ようとくるくる回る。
「ありがとうございます、水器」
回転を止めて、狐太は息の上がった声と満面の笑みで、初めて水器の名を呼んだ。
「狐太様が嬉しいと、僕も嬉しいです」
狐太の興奮が伝わるようで、どきどきする胸をおさえて、水器も狐太に同じ笑みを返した。
「おや。ちょうど良いところに……」
二人を優しい目で眺めていたミツが、湖のほうを向いて言った。
「あ」
水器が気づくと、はっとしたように狐太は体を四角くした。三角形の耳があれば、ぴんと立っていただろう。
湖から、一艘の小舟が岸に着く。
降り立つ姿は一人の少女だと遠目にも分かった。
「花緒!」
ようやく口にできたその名前と一緒に、狐太は転げるように岸辺へ駆けていく。
力強く跳ね上げた砂が、光のようにきらきらと彼の後ろに続く。
「人になっても、苦労をするばかりだというのに」
「でもきっと、その苦労を一緒にしたかったんだと思います」
遠くから差し伸べることしかできなかった手を、今なら隣で握ることができる。
花緒にとってのそういう者に、彼はなりたかったのだろうと水器は今ならわかる気がした。
「へえ」
「……何ですか、光器様」
今までの『ミツ』では見たことのないにやにやとした笑みに、水器は憮然とした顔を返す。溢れる神気は比べようもないが、尊敬していた『ミツ様』像が崩れていくようで、面白くない気持ちになってしまうのも致し方ないことだろう。
「透明だった君は、この短い間に色を覚えたんだね」
「え?」
「代理の彼が零した神気で目覚めた君は、まだ赤子も同然だけれど、自分の花を咲かせるほどには成長したようだ」
「はい……」
何が言いたいのだろう、といぶかるように水器は光器を見上げる。狐太が呼んだ者だから、もう出ていけということだろうか。
水器の不安の色に気づいてか、ことさらに光器はにこりと笑んだ。大きくて、あたたかな手を、水器の肩にのせる。
「留守居を任せても良いだろうか」
「へ?」
思いがけない言葉に、水器の声が裏返る。
「私は旅行が好きだと言ったろう? 前回は南に行ってきたからね。今度は北のほうへ行ってみたくてねえ。人の声に耳を傾けることのできる君になら、安心して社を任せられるよ」
お土産も買ってくるから、と光器は水器の肩を叩いて言う。
「ええと、それは、つまり、今度は僕に『ミツ様』の代理をしろと?」
いきなりの大変な頼み事に、水器は目を白黒させた。
追い出されて、小宮か花緒のところへ転がり込んだほうが良かったかもしれないという思いが一瞬心をよぎる。
「そんなに大げさなことではないよ。人々の願いを悉く叶えよというわけでもない。ただ、祈りを聞くことが君の仕事だ。良いかい、大事なことだ。叶えることは君の役割ではない。聞くことが、君の役割なんだ」
まじめな顔で言うけれど、それは水器の役割ではなく、光器の役割だろうという言葉が、喉元までせり上がる。
「急にそんなことを言われても……」
「じゃあ、頼んだよ。時々は狐太に留守居を頼んだら良い。あの子にも、まだしばらく神気は必要だろうから。ああ、それからもうひとつ」
指先ひとつで足元に雲を呼びながら、光器は水器の耳元に口を寄せた。
「私が今度戻るまでに、水器の願い事を考えておいて。特別に、何でもひとつ叶えてあげるから」
それじゃあ、と軽く手を振って光器が雲にのって飛んでいったのと、花緒がこちらに駆けてきたのが同時だった。
「水器、いるんでしょう! これは一体どういうことよ! ミツ様が縮んだ!」
「花緒、花緒。大好き。会えて嬉しい」
「何か好きとか言ってるし! おかしいわ、こんなの。あんた、狐が化けてるんじゃないでしょうね」
「うふふ。もう狐ではないのです。花緒に触れる。声が伝わる。なんて嬉しいのでしょう」
狐太は花緒の腰に抱きついて、花緒は真っ赤な顔で狐太を叩いたり、明後日の方向へ悪態をついたりしている。
水器は途方に暮れて天を仰いだ。
青い空は高く、雲は手の届かないほど遠い。
光器に許された願い事を、今こそ使って、すぐに帰ってきてくださいと手を合わせたくなったけれど、やめておいた。
「願い事、か」
何にしようかな、と思うと、未来がこの青空のように遠くまで開けて、どこまでも行けそうな、何にでもなれそうな、踊りたくなるような気持ちを連れてきた。
「うわーん。ミツ様が、ミツ様が、ミツ様じゃなくなったー」
「はい。もうミツ様ではありません。狐太という名前をもらいました」
空を眺めていても、地上の騒がしさは収まってくれるわけではない。
水器はどうしたものかと考えて、ひとつ、良いことを思いついた。
地面を滑り、戻ってきた水器の手には、花が二輪、摘まれている。水器が植えた種から咲いた、白い鈴のような花だ。
「これを」
水器は花を、狐太に差し出した。
神気で得た体の影響か、人になっても、狐太には水器の姿が見えているらしい。
「ありがとうございます」
狐太は花緒から手を離し、嬉しそうに、水器の花を受け取った。
「え、何?」
いまだに混乱中で涙目の花緒に、狐太は花の一輪を彼女の髪に挿す。
「ずっと、こうしたかったんです」
「え? あ……」
髪に触れて、花に気づいた花緒は、何かに思い当たったように、目を見開いた。
「今度は、私が届ける番です。花緒、舟の漕ぎ方を教えてください」
花を持っていないほうの手で、狐太が花緒に手を差し出す。
「……そんな細っこい腕では漕げないんじゃない?」
しぶしぶ、というように花緒は狐太に手を重ねた。
「平気です。今なら、何でもできるような気持ちなんです」
狐太は相好をくずしてから、花を持った手を水器に振った。
水器も手を振り返す。
水器、いるの? と花緒は狐太に尋ねてから、二人よりも大きく手を振った。
「ありがとう、水器! また来るわ」
社の戸を隔てない花緒の声は、空いっぱいに広がった。
婚姻の式には一時晴れたが、社は再び霧に包まれている。しばらくは、櫂で水面を叩く狐太たちの姿が見られたが、花緒が櫂を取り戻してから、あっという間に霧の向こうにその姿は消えてしまった。
「笛でも、吹こうかな」
濡れるほどの雨では、狐太たちが困ると思うので、ほんの少しだけ。
やさしく、やわらかく、それと気づかれぬほど、かすかな音色で。
花緒の髪の花にそっと雫をのせるだけ。
狐太のもつ花にしずかに雫を添えるだけ。
彼らの上に、陽光を浴びたら幸福らしく輝くような雫の輪を。
子供が野で編むような花冠のように、拙くも、無垢で、心を込めた祝福を。
奏でるのは、誰のものでもない、誰の真似でもない、自分だけの音色だ。
自分だけの心だ。
湖の上の彼らに。
その向こうの集落に暮らす彼らに。
竹垣の中で一人座す、愛おしい彼女に。
出会えたことで知った心と色を込めて、水器は歌口に触れる。
梅雨の間に完結したかったのですが、いつのまにやら雨の恋しい季節になってしまいました。
これにて完結です。つたない物語にお付き合いいただきありがとうございました。




