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雨冠  作者: 雪尾 七
第三話
14/15

3.祝福の雨

「水器……」

 小宮は驚いているようだった。見開かれた瞳が、水器を見ている。


「水器! お願い、ここから出して!」

 我に返るのは花緒のほうが早かった。竹檻の中から、水器に向かって声を上げる。

「……ああ、そう。花緒を助けに来たのね。『ミツ様』の命令で?」

 驚きを引っこめた小宮の唇が、笑みの形に歪む。


 水器は、違います、と言おうとしたけれど、言葉はすべてあぶくとなって声にならなかった。仕方なく、ただ首を振る。

「水器、お願い。春姉のところへ、わたし、行かなくちゃ」

 水器は花緒のほうを向いて頷いた。


 草履を履いている片足しか地面につかないので、歩くのが難しい。自然、片足で飛び跳ねるように花緒のほうへ赴いた。

 跳んでいる間は視線が外れるので、草履が地面についている間だけ、花緒たちの目に水器の姿は映るのだと知れた。彼女たちからは、水器が明滅しながら近づいているように見えただろう。


 花緒の傍らまで近づくと、水器は笛を取り出し、思いきり息を吹きこんだ。

「ひゃ」

 甲高い音と共に、花緒の足元から水が吹き上がる。水の勢いと共に、花緒は上空に吹き上げられた。

「花緒!」

 小宮の声は悲鳴に近い。

 花緒は空中で上手く体をよじって、庵の外の竹につかまった。それを見て、小宮は、ほ、と息をつく。

 そのあとで、水器につかみかかった。

「花緒が怪我でもしたら、どうする」

 花緒なら大丈夫だと思ったんだよ、と水器は言いたかったけれど、言葉はやはりこぽこぽと水泡になるだけだ。


「小宮!」

 竹の上から花緒が叫ぶ。

「春姉の式が終わったら、仲直りにくるからね!」

「何を……」

「水器!」

 花緒が笑った。

「ありがとう」

 そのまま花緒はするすると竹を下りて、庵の外へ去っていく。


「仲直りって、またここに来るつもり? またわたしに捕まるとは考えないの?」

 呆然と、小宮が呟く。

 また捕まっても、小宮と仲直りしようとするのではないかな、と水器は思った。花緒は頑固なのだ。諦めも悪く、好きになったら簡単には離れてくれない。ミツ然り、小春然り。

 だからきっと、小宮と友達でいることも、決して諦めたりはしないだろう。

 小宮が熱を出したときに社に祈りに来た、花緒の真摯な声を水器は知っている。

 そう、言いたかったけれど、言葉にならず、水器はぱたぱたと腕を動かした。


「何? 馬鹿にしているの? 花緒に簡単に逃げられてしまって可笑しい? 人間の小娘一人、思い通りにできないわたしが惨めか? ああ、ああ、それにしても、お前はわたしの邪魔ばかりしてくれる。そんなにわたしが憎らしいか? お前たちの場所が光の集まる場ならば、わたしの居場所は陰の集まる場。いとわれることこそ、わたしの役割ではあるけれど。裏切るのはわたしのほうだったはずなのに、逆に裏切られたほうがわたしというわけか。しかし、口惜しくはあるが、もう今更だ。いずれにせよ、結果は同じことだったのだから。花緒とて、落ち着けば考え直すに違いない。存分にわたしを厭えば」

 気づけば、小宮の言葉を遮るように、水器は彼女の唇を自身のそれで塞いでいた。

 それから、唇の形と舌の動きで、どうしても伝えたかった言葉を、直接彼女の唇に紡ぐ。


『好きです』


 たとえ、誰が貴方のことを厭うても、僕だけは、貴方が好きです。

 たとえ、貴方が厭われることを祈っても、その願いだけは、僕は叶えることはできません。

 言葉を交わせない間に募った想いは、とてもひと言では伝えきれず、何度も、何度も、水器は小宮の唇に言葉を這わせた。


 やがて、ゆっくりと唇を離し、伝わった? と問うように首を傾げると、小宮は真っ赤な顔をして震えていた。ゆらりと長い髪が不穏にふくらみ、眉がつり上がり、額に角の切っ先が盛り上がる。


 水器は慌ててその角を押し戻すように、小宮の頭を胸に抱きしめた。

「こら、いい加減になさいっ」

 小宮の角が胸に刺さって痛かった。

 薄く、涙がにじむ。

 それでも水器は小宮を離さなかった。


 怒らないで。

 怒らないで。


 震える彼女の髪を撫でる。

 水器は言葉にならないたくさんの気持ちを手のひらに乗せ、胸に込め、小宮を抱きしめた。

 怒らないで。

 貴方が好きで、大切で、尊敬している。

 怒る貴方はとても美しい。

 けれども、今は、怒らないで。

 心を鎮めて。

 貴方の役割が、怒り、厭われることだとしても。

 今は、今だけは怒らないで。

 あの子らの祝福の日を、共に見守ろう。

 僕の役割は、人々の願いを聞くこと。

 どうして花緒は、大事なこの日に、この庵を訪れたのだと思う?

 彼女は貴方に花を持ってきたのでしょう?

 花をあげるのは好意の証でしょう?

 貴方にも祝福してほしかったのだ。

 婚姻の式は集落総出で祝うと聞いた。

 そこに親友の小宮を含めないなどと、花緒には考えられなかったのだろう。

 正義感の強い、友達想いで、行動力のある彼女には。


「だから僕は、その願いを叶えるよ」


 言葉はあぶくとなって空に溶ける。

 胸の痛みは消えていた。体を離すと、小宮の額から角の気配はなくなっている。

「……そう、お前が新しい魂鎮たましずめの器か」

 呟いた小宮の言葉の意味はわからなかったけれど、今は、怒りを抑えてくれただけで良かった。

 ほっとして、嬉しくて、ありがとうと伝えたくて、また小宮の唇に近づいたら爪を立てた手で押し返された。びっくりして離れるときに、鼻筋に痛みが走ったので、小宮の爪痕がついたのではないかと思う。


「怒るわよ」

 せっかく怒りを鎮めてくれたはずなのに、また怒らせては大変だ。

 水器は慌てて小宮から距離をとった。

 それを見て、小宮は溜息と一緒に笑う。

「仕方がないから、今日のところは花緒を泣かせるのは諦めてあげるわ。今度は、水器も一緒に泣かせることにする。ふふ、先の楽しみがあるって素敵ね」

 小宮が楽しそうなのは水器にとっても嬉しいはずだが、今度ばかりは一緒に微笑んで良いのかわからず、複雑な顔になってしまった。

 そんな水器を見て、今度こそ小宮は混じりけ無しに笑う。

 水器も結局笑顔になった。

 体の内に、明るい柏手の音が響いたのはその時だった。


光器みつき様。光器様。ご挨拶に参りました。私たちは今日、夫婦めおとになります』

『光器様。光器様。どうか我らに祝福を。貴方が我らを見守るように、我らもまた、子々孫々、貴方の社を護りましょう。貴方の与えてくださる光と恵みで、我らは命を育みましょう』


 柏手が、再び重なる。

 小春と黄一が、社に詣でたのだと知れた。

 二人の、真摯な祈りが胸に直接伝わってくる。

 それは花になって、水器の胸から溢れ出した。

 水干の裾から、袖のたもとから、振れば鈴の音が聴こえそうな、真白く小さな花が、とめどなく零れ落ちる。


「わ……」

 小宮が、驚きの声を洩らす。

 水器がきちんと社にいれば、この花を祝福と、二人に降らすことができただろう。けれども、今は社を離れてしまっている。

 離れていても、祝福を届ける方法は……。


 水器は空を見上げた。

 袂をなびかせ、花を零しながら、水器はひょいと庵の屋根に跳び乗った。

 見上げる先にあるのは、青い空だ。

 眼下では、鈴の花を浴びた小宮が、光を纏ったような姿で水器を見上げている。

 水器は、白い装いをしていた小春を思い出した。

 花緒は祝いの式に間に合っただろうか。

 黄一は、彼らの家族は、集落の皆は、この胸から溢れた花のような気持ちを、感じているだろうか。

 そうであると良い。


「それが、僕の祈り」

 言葉を唇に含ませ、取り出した笛の歌口にあてがう。


「それが、僕の願い」

 美しく音色を奏でようなどということは、頭になかった。


 ただ、声にできない想いを、音色にのせるだけだ。

 集落で出会った人たちの顔を、一人一人思い浮かべる。

 届きますように。

 この祝福が、

 この喜びが、

 この幸せが、

 誰にも分け隔てなく、

 人に、

 鬼に、

 この土地に、

 降りそそぎますように。


 音色は空を踊り、雨へと姿を変える。

 透きとおる細くやわらかな雨は、竹林を、集落を、人々を、光で縁取るように濡らした。


 小宮は雨粒の触れた頬に手をやる。

 花びらが触れたような、やさしい雨だった。


 花緒は、鼻先に触れた雨粒に顔を上げる。

 晴れた空から明るく降るそれは、手に取れない陽光が具現化したようだった。


 小春と黄石のつないだ手に、雨がきれいに伝う。

 互いの唇で、その甘露に触れ合って、くすぐったい笑みを交わした。


 子供たちは湖のほうを指差し、かごに残った花を投げ出してはしゃぐ。

 湖の霧は晴れ、明らかになった視界に社の姿が淡くにじみ、最高の奇跡を言祝ぐように、虹がかかっていた。


 大人たちは感謝に指を組み、心に言葉を描く。

 祝福と、

 喜びと、

 幸せと、

 敬愛を。

 雨を伝って、その言葉は確かに、水器の体に伝わってきたのだった。


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