3.祝福の雨
「水器……」
小宮は驚いているようだった。見開かれた瞳が、水器を見ている。
「水器! お願い、ここから出して!」
我に返るのは花緒のほうが早かった。竹檻の中から、水器に向かって声を上げる。
「……ああ、そう。花緒を助けに来たのね。『ミツ様』の命令で?」
驚きを引っこめた小宮の唇が、笑みの形に歪む。
水器は、違います、と言おうとしたけれど、言葉はすべて泡となって声にならなかった。仕方なく、ただ首を振る。
「水器、お願い。春姉のところへ、わたし、行かなくちゃ」
水器は花緒のほうを向いて頷いた。
草履を履いている片足しか地面につかないので、歩くのが難しい。自然、片足で飛び跳ねるように花緒のほうへ赴いた。
跳んでいる間は視線が外れるので、草履が地面についている間だけ、花緒たちの目に水器の姿は映るのだと知れた。彼女たちからは、水器が明滅しながら近づいているように見えただろう。
花緒の傍らまで近づくと、水器は笛を取り出し、思いきり息を吹きこんだ。
「ひゃ」
甲高い音と共に、花緒の足元から水が吹き上がる。水の勢いと共に、花緒は上空に吹き上げられた。
「花緒!」
小宮の声は悲鳴に近い。
花緒は空中で上手く体をよじって、庵の外の竹につかまった。それを見て、小宮は、ほ、と息をつく。
そのあとで、水器につかみかかった。
「花緒が怪我でもしたら、どうする」
花緒なら大丈夫だと思ったんだよ、と水器は言いたかったけれど、言葉はやはりこぽこぽと水泡になるだけだ。
「小宮!」
竹の上から花緒が叫ぶ。
「春姉の式が終わったら、仲直りにくるからね!」
「何を……」
「水器!」
花緒が笑った。
「ありがとう」
そのまま花緒はするすると竹を下りて、庵の外へ去っていく。
「仲直りって、またここに来るつもり? またわたしに捕まるとは考えないの?」
呆然と、小宮が呟く。
また捕まっても、小宮と仲直りしようとするのではないかな、と水器は思った。花緒は頑固なのだ。諦めも悪く、好きになったら簡単には離れてくれない。ミツ然り、小春然り。
だからきっと、小宮と友達でいることも、決して諦めたりはしないだろう。
小宮が熱を出したときに社に祈りに来た、花緒の真摯な声を水器は知っている。
そう、言いたかったけれど、言葉にならず、水器はぱたぱたと腕を動かした。
「何? 馬鹿にしているの? 花緒に簡単に逃げられてしまって可笑しい? 人間の小娘一人、思い通りにできないわたしが惨めか? ああ、ああ、それにしても、お前はわたしの邪魔ばかりしてくれる。そんなにわたしが憎らしいか? お前たちの場所が光の集まる場ならば、わたしの居場所は陰の集まる場。厭われることこそ、わたしの役割ではあるけれど。裏切るのはわたしのほうだったはずなのに、逆に裏切られたほうがわたしというわけか。しかし、口惜しくはあるが、もう今更だ。いずれにせよ、結果は同じことだったのだから。花緒とて、落ち着けば考え直すに違いない。存分にわたしを厭えば」
気づけば、小宮の言葉を遮るように、水器は彼女の唇を自身のそれで塞いでいた。
それから、唇の形と舌の動きで、どうしても伝えたかった言葉を、直接彼女の唇に紡ぐ。
『好きです』
たとえ、誰が貴方のことを厭うても、僕だけは、貴方が好きです。
たとえ、貴方が厭われることを祈っても、その願いだけは、僕は叶えることはできません。
言葉を交わせない間に募った想いは、とてもひと言では伝えきれず、何度も、何度も、水器は小宮の唇に言葉を這わせた。
やがて、ゆっくりと唇を離し、伝わった? と問うように首を傾げると、小宮は真っ赤な顔をして震えていた。ゆらりと長い髪が不穏にふくらみ、眉がつり上がり、額に角の切っ先が盛り上がる。
水器は慌ててその角を押し戻すように、小宮の頭を胸に抱きしめた。
「こら、いい加減になさいっ」
小宮の角が胸に刺さって痛かった。
薄く、涙がにじむ。
それでも水器は小宮を離さなかった。
怒らないで。
怒らないで。
震える彼女の髪を撫でる。
水器は言葉にならないたくさんの気持ちを手のひらに乗せ、胸に込め、小宮を抱きしめた。
怒らないで。
貴方が好きで、大切で、尊敬している。
怒る貴方はとても美しい。
けれども、今は、怒らないで。
心を鎮めて。
貴方の役割が、怒り、厭われることだとしても。
今は、今だけは怒らないで。
あの子らの祝福の日を、共に見守ろう。
僕の役割は、人々の願いを聞くこと。
どうして花緒は、大事なこの日に、この庵を訪れたのだと思う?
彼女は貴方に花を持ってきたのでしょう?
花をあげるのは好意の証でしょう?
貴方にも祝福してほしかったのだ。
婚姻の式は集落総出で祝うと聞いた。
そこに親友の小宮を含めないなどと、花緒には考えられなかったのだろう。
正義感の強い、友達想いで、行動力のある彼女には。
「だから僕は、その願いを叶えるよ」
言葉は泡となって空に溶ける。
胸の痛みは消えていた。体を離すと、小宮の額から角の気配はなくなっている。
「……そう、お前が新しい魂鎮めの器か」
呟いた小宮の言葉の意味はわからなかったけれど、今は、怒りを抑えてくれただけで良かった。
ほっとして、嬉しくて、ありがとうと伝えたくて、また小宮の唇に近づいたら爪を立てた手で押し返された。びっくりして離れるときに、鼻筋に痛みが走ったので、小宮の爪痕がついたのではないかと思う。
「怒るわよ」
せっかく怒りを鎮めてくれたはずなのに、また怒らせては大変だ。
水器は慌てて小宮から距離をとった。
それを見て、小宮は溜息と一緒に笑う。
「仕方がないから、今日のところは花緒を泣かせるのは諦めてあげるわ。今度は、水器も一緒に泣かせることにする。ふふ、先の楽しみがあるって素敵ね」
小宮が楽しそうなのは水器にとっても嬉しいはずだが、今度ばかりは一緒に微笑んで良いのかわからず、複雑な顔になってしまった。
そんな水器を見て、今度こそ小宮は混じりけ無しに笑う。
水器も結局笑顔になった。
体の内に、明るい柏手の音が響いたのはその時だった。
『光器様。光器様。ご挨拶に参りました。私たちは今日、夫婦になります』
『光器様。光器様。どうか我らに祝福を。貴方が我らを見守るように、我らもまた、子々孫々、貴方の社を護りましょう。貴方の与えてくださる光と恵みで、我らは命を育みましょう』
柏手が、再び重なる。
小春と黄一が、社に詣でたのだと知れた。
二人の、真摯な祈りが胸に直接伝わってくる。
それは花になって、水器の胸から溢れ出した。
水干の裾から、袖の袂から、振れば鈴の音が聴こえそうな、真白く小さな花が、とめどなく零れ落ちる。
「わ……」
小宮が、驚きの声を洩らす。
水器がきちんと社にいれば、この花を祝福と、二人に降らすことができただろう。けれども、今は社を離れてしまっている。
離れていても、祝福を届ける方法は……。
水器は空を見上げた。
袂をなびかせ、花を零しながら、水器はひょいと庵の屋根に跳び乗った。
見上げる先にあるのは、青い空だ。
眼下では、鈴の花を浴びた小宮が、光を纏ったような姿で水器を見上げている。
水器は、白い装いをしていた小春を思い出した。
花緒は祝いの式に間に合っただろうか。
黄一は、彼らの家族は、集落の皆は、この胸から溢れた花のような気持ちを、感じているだろうか。
そうであると良い。
「それが、僕の祈り」
言葉を唇に含ませ、取り出した笛の歌口にあてがう。
「それが、僕の願い」
美しく音色を奏でようなどということは、頭になかった。
ただ、声にできない想いを、音色にのせるだけだ。
集落で出会った人たちの顔を、一人一人思い浮かべる。
届きますように。
この祝福が、
この喜びが、
この幸せが、
誰にも分け隔てなく、
人に、
鬼に、
この土地に、
降りそそぎますように。
音色は空を踊り、雨へと姿を変える。
透きとおる細くやわらかな雨は、竹林を、集落を、人々を、光で縁取るように濡らした。
小宮は雨粒の触れた頬に手をやる。
花びらが触れたような、やさしい雨だった。
花緒は、鼻先に触れた雨粒に顔を上げる。
晴れた空から明るく降るそれは、手に取れない陽光が具現化したようだった。
小春と黄石のつないだ手に、雨がきれいに伝う。
互いの唇で、その甘露に触れ合って、くすぐったい笑みを交わした。
子供たちは湖のほうを指差し、かごに残った花を投げ出してはしゃぐ。
湖の霧は晴れ、明らかになった視界に社の姿が淡くにじみ、最高の奇跡を言祝ぐように、虹がかかっていた。
大人たちは感謝に指を組み、心に言葉を描く。
祝福と、
喜びと、
幸せと、
敬愛を。
雨を伝って、その言葉は確かに、水器の体に伝わってきたのだった。




