2.雨の結びめ
集落には、常よりも人が多くいるように感じられた。
いつもは舟を出している男たちも皆、今日は陸にあがっているようだ。
湖とつながった水路に、特に多くの人がいる。皆、花の入ったかごを手に持っていた。
「花嫁さん、まだ来ないのー?」
水路脇に並んだ子供が、待ちくたびれたように言った。
「もうすぐよ。おとなしく待っていなさい」
母親らしき女性が、子供をたしなめるように言う。
それを横目に見ながら、水器は人々の間をすり抜けて、記憶を辿って花緒の家に向かった。
道の両脇には花が並び、花緒の家から水路までの行程を飾っていた。
集落の人々も、頭に花を挿したり、いつもより派手な帯を巻いたり、皆で着飾っているようだ。
水器は普段と変わらない装いの自分を見下ろした。
ちょうど、脇を駆けていった子供の花かごから一輪を失敬して髪に挿す。
誰にともなくくるりと回ってみせてから、満足したように笑んだ。
花緒の家の前には腕組みをした黄石がいた。
この間寸法を見ていた袴を着て、頭につぶれた烏帽子を乗せている。
口元を緩めては引き締める、という変わった顔の運動をしているようだった。
「小春が、ついに、俺の嫁に……」
などという呟きが聞こえてくる。
水器は不思議そうにそんな黄石の横をすり抜けて、花緒の家の中をひょいと覗く。
「わあ」
思わず声を上げて、慌てて口をおさえたけれど、誰も水器のほうを振り返らなかった。雨のない水器の声は届かないので当然だ。
水器はのろのろと下げた手を、きまり悪げに着物の裾で拭った。
水器の届かない声の先には、真っ白な女性がいた。
着物も真っ白、帯も真っ白で、頭にはやはり真っ白な布が垂れている。白粉をしているらしい顔も白く、紅をさした唇だけが花のように赤い。
「きれい……」
溜息のように、水器はうっとりと言葉を洩らした。
布に隠れた顔をのぞきこもうと水器が足を踏み出したところへ、
「はあ、駄目だ。どこにもいないよ」
突然背後で大きな声がして、水器は驚いて飛び退いた。後ろから現れたのは、見覚えのある女性だ。よく男たちを叱りつけているのを見かけ、花緒よりも怖そうな女性、と水器は記憶していた。
「もう。この期に及んで、拗ねて隠れてるのかね。大事な姉さんの大事な日だってのに」
「花緒はそんな子じゃありません」
呆れを含んだ女の声に、白い女がぴしゃりと言った。声でようやく、彼女が花緒の姉の小春だと水器は気づく。
「あの子が良い子だってのはみんな知ってるよ、小春。気を悪くしたんならごめんよ。拗ねて隠れてるだけだったら、まあ、良いんだけどね」
女にいつもの叱責の快活さはなく、端切れ悪く言う。
「……神隠しにあったんじゃ」
ぼそり、と誰かの口からそんな言葉が洩れた。
「ちょっと、滅多なことを言うんじゃないよ」
「だけど、あの子、若いのに妙にお参りに熱心だったじゃない」
「それは昔、溺れたのを救ってもらった恩があるからだろう」
「それにしたって……」
「ねえ。今ここでする話じゃないだろう。どこかで怪我をして動けないのかもしれない。男衆が今、山のほうも見に行っているし、あたしももうちょっと探してみるよ」
最初の女が肩を回して言った。
「……すみません。どうぞ、よろしくお願いします」
小春が、瞳を伏せて、床に両手をつく。
「ああ、ああ、やめておくれよ。まったく、あの跳ねっ返り娘にはいくつになっても手を焼かせられるねえ」
女が快活に笑って戸口を出て行くと、何人かの女たちも「あたしたちもちょっと探してくるわ」と続いて出て行った。
小春はそれを、すまなそうに見送る。
「花緒。本当に、どこに行ってしまったの?」
水器は途方に暮れていた。
花緒を連れにきたのに、肝心の彼女が行方不明になってしまったらしい。
「ミツ様が……?」
確かに様子がおかしかったけれど、直接顔を見ることさえ恥ずかしがっていたのに、彼女を連れ去るなどということができるのだろうか。どちらかというと、隠れて様子をうかがっているというほうが想像できる。それに、ミツの気配が近くにないことは、水器にははっきりわかることだった。
「ちっとも、うまくいかないなぁ」
小春は悲しんでいる様子だった。
今日は婚姻の日で、彼女には祝福をあげなくてはいけないのに、どうやらほど遠い状況になってしまっている。
それもこれも、花緒がいないせいだ。
「とにかく、花緒を探さなくちゃ」
水器は両手に決意をみなぎらせ、力強く宙を蹴った。
水器の心当たりなどわずかしかない。
社と、集落と、小宮の庵くらいのものだ。
社にいないのは承知しているし、集落の中はさっきの女たちが熱心に探している。
とすれば、残るは小宮の庵だ。
竹林の庵は、集落の人間には禁忌の場所とされているらしい。小宮が鬼であることと、関係しているのだろう。もっとも、花緒はこっそりと、しかも足繁く、通っていたようだが。
ミツの社に熱心に通っていることといい、彼女はちょっと変わっているのかもしれない、と水器は初めて気がついた。だから、ミツにも彼女が特別なのだろうか。
竹林に踏み入れると、すぐにいつもと様子が違うことに気がついた。
水器は周囲を見回す。
目に見える変化はない。
くん、と鼻をうごめかす。
水の匂い。
土の匂い。
草木の匂い。
日向の匂い。
特に変わった様子はない。
首を傾げながら、ふと触れた竹に、答えがあった。
「わ」
触れた瞬間、体に痺れが駆け抜ける。
肌を粟立たせ、驚いて手を引いた水器は、のけぞった背中に竹が触れて、
「わ、わ、わ」
さらに全身を痺れさせることになった。
「何だこれ」
逆立った髪を抑えて、慎重に爪の先を竹に触れると、ぴりぴりと指にかすかな雷竜が走るのが見えた。
慌てて手を引いて、指をさする。
「小宮?」
彼女が怒り、怖ろしい雷雨を呼び寄せたのはついこの間のことだ。
水器は、竹の隙間に空を伺う。
のどかな青い空に、黒雲は見えない。
以前のように、彼女が怒り狂っているわけではなさそうだけれど、機嫌の悪い気配はする。
水器は竹に触れないように注意しながら、小宮の庵に向かった。
「小宮、お願い」
花緒の声だ。
その声は細く、涙まじりのように聞こえる。
水器は足を速めた。
「お願い、ここから出して」
庵の竹垣が見えてくる。
花緒の声はその内から聞こえてきた。
水器はひといきに跳躍して、竹垣の内側の木に飛び移った。
見下ろすと、花緒と小宮がいる。
小宮に角が生えていないことに、ひとまず水器は胸を撫で下ろした。荒れ狂う彼女を鎮めるのは、今の水器には荷が重い。怒る彼女の美しさを思えば、少し残念ではあったけれど。
小宮はいつものように縁側に座し、微笑んでいる。その微笑みの先に、そびえる竹に檻のように囲まれた花緒がいた。
竹の周囲を時々雷の子竜が走る。竹林の竹と同じく、触れば痺れてしまいそうだ。そのせいで、花緒は得意の竹のぼりで脱出することができないようだった。
「小宮、春姉の式が始まってしまう」
「ええ。そうねえ。悲しい? 花緒」小宮は、世間話をしていた時と同じ軽やかな笑みをこぼす。手には一輪の花を弄んでいた。水器が頭に挿しているのと、同じ種類の花のようだ。花緒が、小宮に届けにきたのだろう。その花を見つめながら、小宮は愛おしむような声で言った。「あなたがいないと、きっと小春も悲しむわね」
「小宮!」
「怒った? 花緒」
うっとりと小宮が笑む。
「……小宮、どうしてこんなこと」
怒らず、ただ悲しげに首を振る花緒に、小宮は少し落胆したような息を漏らした。
「どうして、だなんて。愚かなことだわ、花緒。ええ、その愚かなところがあなたの可愛いところだけれど。散々言われたでしょう? ここに近づくな、と。鬼の住処なのだから、と」
「それは……。けど、小宮はわたしの親友だわ」
「友人のふりをしたのは、最悪のときにあなたを裏切って、悲しませ、怒らせるためだわ」
小宮は優雅に笑い、花緒は唇を噛む。
その二人の頭上で、水器は困っていた。
花緒を連れ出すのはそう苦ではない。
水で雷竜を押し流し、竹は蹴破ってしまえば良い。……蹴破れずとも、雷竜さえどうにかすれば、花緒が自力で抜け出せるだろう。
けれども、そんなことをすれば、小宮は怒り狂うに違いないのだ。彼女が怒り狂えば、再びあの雷雨がやって来る。婚姻の式どころではない。祝福の代わりに、災いを与えてしまう結末だ。
小宮のことを災厄と呼んでいたのは花緒の祖母だったか。
その不安を現実のものにしてしまうわけにはいかない。
小宮は災厄なんかじゃない、と呟いた、花緒の震える声を覚えている。
それは、祈りに似た響きをしていた。
「どうすれば良い?」
小宮を怒らせず、花緒を連れ出す方法はないだろうか。
空は晴天で、雨の気配は微塵もない。言葉を尽くして説得することは不可能だ。
「僕に、できることは……」
何もない、と簡単に諦めてしまうことはできない。
花緒を姉の婚姻の式に間に合わせてやりたい。
ミツならばそうするだろうと思った。
花緒の笑顔のために。
そして、花緒の笑顔はミツの笑顔につながるものなのだ。
それは大事なことだ。
でも、それだけでは足りない。
小宮の笑顔もそこにつながっていてほしいのだ。
胸の内が熱くなった。
何か、熱く灯るものがある。
懐に手を差し入れると、湖で引き寄せた、鼻緒の切れた草履が白い光を宿して熱を放っている。
「これは?」
あ、と声が上がる。
水器の声ではない。小宮の声だ。
視線を落とすと、同じ光が、小宮の周りに蛍のようにいくつも浮かんでいた。水器が小宮に贈った白い花が光をもち、浮かび上がっているのだ。
ほのかに光りながら浮かび上がった白い花は、光の航路を引きながら、一輪、また一輪と、水器の元へ、ゆらりゆらりとたゆたいつつ昇ってくる。昇ってきた花は、水器の持つ草履へ集まり、光をつないで鼻緒を結んだ。
「これは、一体……?」
小宮と花緒がこちらを見上げている。
視線が合わないので、水器の姿は見えていないのだろう。
花はすべて草履の鼻緒に編み込まれ、水器はそれを、片足に履き、地面に降り立った。
「水器……」
触れた地面に光の花が咲く。
水気を含んだそれは、粒子となって水器の輪郭に纏い、濡らした。
ようやく、小宮と目が合う。
それだけのことが、とても嬉しくて、水器はにこりと微笑んだ。




