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雨冠  作者: 雪尾 七
第三話
12/15

1.狐の雨

 ミツにずっと元気がない。


 話しかければ耳を傾けてくれるし、頭を差し出せばやさしく撫でてくれる。けれども、時折、深海まで届きそうなほど深い深い溜息をついたり、宙空を見つめて歩いていて階段を踏み外したり、と水器は気が気でない。


 とりわけ、今日はひどかった。


 朝から三度は柱に額を打ちつけて、打ちつけた柱を抱きしめてしくしくと涙を零す始末。さらには水器の育てた花を踏みつけそうになり、慌てて尻餅をつけばそのまま仰向けに倒れ、慈愛を込めた瞳で砂を撫でる。

 水器はそのたびに、ミツの額を冷やしたり、砂まみれになった髪を梳いたりと、実に忙しい。

 そして現在、そのミツはというと、膝立ちになり、欄干に腕をもたれ、その腕に顔を半分埋めながら、ぼんやりと集落の方角を見つめていた。耳は垂れ、尾はしぼんで、力なく床にうなだれている。


 階段を浄めていた水器は、手を止めてミツに話しかけた。何か話しかけなければ、そのまま霞になって消えてしまいそうな儚さが、今日のミツにはあったのだ。

「今日はいよいよ婚姻のお祝いの日ですね。社に花嫁と花婿が、祝福をもらいにくると小宮が言っていました。ミツ様、祝福ってどうやってあげるものなのですか」

 明るい調子を意識しながら水器は話し、そういえば、と思い出した。ミツに、黄石の婚姻の相手が、花緒の姉だったことを伝えていなかったような気がする。

「あの、ミツ様。黄石の婚姻相手なのですが」

 けれども、水器は思わず言葉を途中で切らざるを得なかった。

 ミツが、滂沱の涙を流していたのだ。


「ミツ様? どうしたんですか? どこか具合が?」

 水器が慌てて駆け寄る。

 ミツは無表情に涙を流し続ける。透明な筋が、ミツの白磁のような頬を伝い、顎をしたたり落ちる。雫は音もなく衣服に吸いこまれて、跡形もなく溶けていく。その美しさに、一瞬、水器は見とれた。

 けれども、ミツと目が合って我に返る。

「中に入りますか? お水を持ってきましょうか?」

 肩を貸そうか、それとも背負えるだろうかと水器がおろおろとしていると、ミツは顔を覆い、狐の姿になってしまった。


 水器が、ミツのそんな姿を見るのは初めてだ。

 一見すると普通の狐のようだけれど、尾はやはり三本あって、白い毛並みが光を集めたように眩しかった。

「ミツ様……?」

 水器が半分開いた口を閉じられずにいる間に、狐となったミツは、空に駆け上がってしまった。

「あ」

 水器が欄干から身を乗り出して空を仰いだときには、ミツはすでに遠い雲の一部になってしまっている。


「ミツ様、どうしたのだろう」

 追いかけようにも、水器の力では雲の高みまでは跳んでいけない。

「もしかして、僕の目には見えない傷を?」

 はっとして跳ねた心臓が飛び出してしまわないように片手で口をおさえた。ごくり、と息をのんで呼吸を落ち着かせる。


「僕に、ミツ様の傷を癒せるだろうか。否、僕にしかできないのではないだろうか」

 弱気になりそうな心に、使命感の炎が勝る。

 水器はその場をうろうろと歩きながら考えた。

 水器にできることは少ない。

 小宮や花緒に相談に行こうにも、空は晴れ渡り、雨雲の気配もなかった。

「そうだ」

 水器は、飛び跳ねるように湖のほとりへ向かった。

 思いついたのは、ミツが黄石のために薬草を呼び寄せたときのことだ。

 水器は湖のふちに跪き、そっとその湖面をのぞきこむ。

 空と、水器の顔と、水中の魚とが同時に見える。水器は、顔の表面を魚が渡ったような気持ちになり、つるりと顔を撫でた。ふるふると幻の水を払うように首を振って、詰めていた息を吐き出す。


 片手で袖を持ち上げて、指先を湖面に触れさせた。

 ついついつい、と触れた指先から水の輪が広がっていく。

 水器は、その輪の行く先を見定めようと、半身を乗り出して、目を凝らした。

 けれども、湖面で反射する陽光の影に、輪の先は見えなくなる。

 水器は薄く唇を舐める。

 自分の瞬きの音が聞こえた。

 膝の下の砂が、じり、と軋む。

 呼吸の数を、水器は数えていた。

 ひとつ、ふたつ、みっつ……、ななつ、やっつ、とお。

 ぴくり、と水器の肩が震えた。

 震える指先に、波紋のわずかな振動が伝わる。水器の指先からではなく、光の反射の向こう側から伝わってくる。


 水器は息を止めて、体を石のように静止させた。わずかな身じろぎでも、細い糸のような輪の連なりが、途切れてしまうように思えた。

 緊張で、ぴりぴりと水器の毛が逆立つ。

 間遠だった波紋は、近づくにつれ、しだいにはっきりとしたものになり、間隔も目に見えるようになってきた。

 波紋が寄せてきたものが視界に入るようになって、水器はようやくそろりそろりと息を吐き出した。

「あれは……草鞋ぞうり?」

 手元に来るまで待てずに、水器はひょいと跳んで、流れが寄せてきたそれを拾い上げた。


 間違いなく、草履だ。

 しかも、片足だけで、鼻緒が切れている。


「これ、何かの役に立つのかな」

 水器は顔をしかめた。ただ単に、湖に捨てられたものが流れ着いてきてしまっただけのようにも思える。

「うーん」

 再び湖に捨てるのもためらわれて、水器は指で弾いて草履の水滴を払うと、着物の懐にしまいこんだ。

「あとは、ええと、どうしたら良いんだろう」

 何か役に立つ手がかりが得られると期待していたのに、当てが外れてしまった。

 水器はそのまま、湖の上でしゃがみこんで空を見上げた。


 ミツはどこまで飛んでいってしまったのだろう。

 今までは、ミツの意向に添えば良かった。あるいは、社への願い事に耳を傾けて叶えようとすれば良かった。

 けれども今、ミツは社を離れ、誰の願い事も訪れない。

 水器を導いてくれるものは、何もなかった。

 水器は、吐く息に水気を乗せて、水中のようにあぶくを作った。あぶくはすぐに空中で弾けて、水器の前髪や鼻先を濡らす。


 困っているのは、ミツの傷を癒したいのと、黄石たちへの祝福だ。

 小宮か花緒に相談したいけれど、雨が降らなければ言葉は届かない。

 水器はさらに考えた。

 ミツが喜ぶのは、大体、花緒が社を訪れたときだ。

「花緒を、連れて来よう」

 花緒が来れば、ミツも社へ戻ってくるに違いない。花緒の顔を見れば、きっといつものようにミツは笑ってくれるだろう、と水器は一人頷いた。


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