4.雨降って地固まる
小宮の教えてくれたとおりに黄石の家に着くころには、雨は上がっていた。
黄石の家は、花緒の家のすぐ裏手にあった。その花緒が、黄石の家の前をうろうろとしている。ぬかるんだ土に、足跡が何往復も重なっていた。
「入らないのですか?」
水器が問うても、花緒の耳には届かない。
仕方がないので、花緒を素通りして、水器は黄石の家の戸口をのぞきこんだ。
中には、黄石と、何人かの女性がいる。袴の寸法を見ているらしい。女性たちに囲まれて、黄石は口をへの字に曲げていた。
「裾はもうちょっと上げたほうが良いわねえ」
「そうね。ほら、黄石、背筋伸ばして! しゃんとなさいな。ただでさえ、瘤なんかこしらえて格好悪くなっているのだから」
「まったくねえ。悪たれのまんま、お嫁をもらうみたいだよ」
女たちの笑い声が高く響く。
「もう悪たれじゃあないです」
ぼそりと黄石が言う。
「そうやって拗ねるところがまだまだ子供だって証拠よ」
「ねえ。まあ小春ちゃんはしっかりしているからね。せいぜい手綱を握ってもらったら良いわよ」
「そうね。結局、いくつになっても男衆は子供みたいなものだもの」
「でもね、黄石。小春ちゃんがしっかりしているからって、そこに甘えてばかりじゃあ駄目だからね」
「はあ」
愉快そうに笑う女たちに対し、黄石はうんざりしたように溜息を吐き出していた。
水器はその様子を、目を白黒させながら見ていた。そして、少しだけ黄石に同情の気持ちが芽生える。あんな風に囲まれたら、水器ならば逃げ出しているところだ。
「けど、怪我はひどくなさそうです」
思い詰めた花緒の様子から大怪我を想像していたが、頭に瘤ができているだけのようだ。
水器は家の中にそっとミツから渡された葉を忍ばせようとして、思い直したように引き返した。
家の外では、花緒がまだうろうろと落ち着きなく足踏みをしては、戸口のほうにちらりちらりと視線を向けている。
水器は、そんな花緒を上から下へと観察した。小宮は、花緒が傷ついたと言っていたけれど、目に見えるところに怪我の跡はない。
「僕の目には、見えない傷、ですか」
水器は手にした葉っぱを見た。これは、黄石の怪我にとミツが渡してくれたものだが、もしかしたら花緒の目に見えない傷にも効かないだろうか。
ドキドキと心臓が高鳴った。ミツの意に背くのは初めてだ。
もう一度、黄石と花緒を見比べる。
黄石は女たちに囲まれて辟易しているものの元気そうだ。
一方、花緒の外身に怪我は見当たらないが、顔色が悪い。
水器の目には映らない、と言った小宮の声が蘇る。
水器は、ひょいと跳び上がって、花緒の頭に葉を乗せた。
「なに?」
すぐに花緒が気がついて、頭に手をやる。葉を見ると、怪訝そうな顔をしたあとに、大きく目を見開いた。
「ツワブキの葉……。これなら打ち身に……」
花緒は何かを探すようにきょろきょろと周囲を見回した。
その視線は、水器の上も渡ったけれど、彼女の瞳に雨のない水器は映らない。
やがて花緒は湖のほうへ向き直ると、
「ミツ様、ありがとうございました」
深く深く頭を下げて言った。
顔を上げた花緒の表情からは、先ほどまでの憂いが払拭されている。
やはりあれは花緒の傷も癒す力があったのだ、と安心した水器だったが、どうしてあの葉が花緒を癒せたのかが不思議だった。
特別な力は感じなかったが、何かミツのまじないがかかっていたのだろうか。
花緒は、一つ深呼吸をすると、黄石の家へと入っていった。
女たちの声が、花緒の名を呼んでにぎやかになる。
水器は再びそっと、戸口に立って中をのぞいた。花緒が、黄石に葉を渡している。
「ごめんなさい、黄石」
「おう」
黄石はそれを受け取ると、小さく笑った。
「お前のせいじゃないって言ったのに、変なとこで頑固だよな、花緒は」
「……瘤のことだけじゃなくて」
「ん?」
「……自慢の姉ちゃんなんだから、大事にしてよね。怪我なんかしないで、病気にもならないで、他の女の人を見ても駄目だし、漁からも早く帰ってきて、それから、それから……」
「何だよお前、見舞いに来たんじゃないのかよ」
黄石が葉で花緒の頭を叩く。
「返事は?」
「当然。大事にするよ。誰よりも幸せにしてやる」
黄石は頷いて、頼もしく笑ってみせた。
「言ったわね。みんな、聞いていたからね」
「ええ、ええ。聞いてたわよ。なにかあったら、わたしたちが証人になってあげるからね、花緒ちゃん」
「よろしくお願いします」
いつもの強気な花緒に戻ったようだ。その背中に凛と音が見えるようだ。
そういえば、と中の一人が言葉を継いだ。
「さっきはひどい雷だったわねえ」
「鬼姫様のご機嫌が斜めだったのね。だけど、こんなに道がぬかるんじゃ、婚儀は数日日延べだね」
「まあ、おかげで瘤も引っこんだ頃に式ができるんじゃないかい? 黄石は早く一緒になりたいだろうけど。恨むんなら鬼姫様を恨みなよ?」
「……小宮は悪くない。わたしが彼女を怒らせたのだから」
「花緒? 何か言ったか?」
「ううん。何でもない」
黄石は聞き逃したようだったけれど、注意深く見守っていた水器は、しっかり花緒の言葉を聞いていた。
思い出したのは、「あの花緒の悲しそうな顔」と言った小宮の言葉だ。
小宮が怒ったのは花緒を見たから。
そして、その理由を知っていたのは、花緒の話を聞いたから。
花緒は、小宮が怒るのを分かっていて、彼女に話をしにいったのだろうか。
「小宮を怒らせたかった? 雷を呼びたかった?」
どうやらそのせいで、婚儀は日延べになるらしい。
結婚に反対していた花緒は、なるべくその日取りを遅らせたかったのか、黄石の瘤が治る時間を稼ぎたかったのか。雨の止んでしまった水器には、問いかけることはできなかった。
翌日、花緒が社へ礼に来た。
『ミツ様、薬草をどうもありがとうございました』
水器はそっとミツを仰ぎ見る。
ミツは優しい手つきで、水器の頭を撫でてくれた。
胸の中に、花が咲いたような気持ちになる。
集落へと戻る花緒の背中は明るかった。傷はすっかり癒えたのだろうか、と水器は考える。
「ミツ様」
水器は、その背中を見ながら、ミツに問いかけた。
「ミツ様には、花緒の傷が見えたのでしょうか」
ミツからの答えはない。
「僕にも、見えるようになるでしょうか」
ミツは答える代わりに席を立った。水器を手招いて、社の裏手へと導く。
「あっ」
水器は思わず声を上げた。
見間違えようもない。
水器が一度抜いてしまった双葉につぼみがついていた。
「良かった……」
零れるように、声が落ちる。
「ミツ様、僕はこの子を癒せたのでしょうか」
問うてももちろん答えはない。
それでも優しい笑みを期待して水器が顔を上げると、ミツは桶に水を汲もうとして、足をよろめかせて湖へ落ちるところだった。
「うわああ、ミツ様!」
水器はミツを助けるために急いで衣を翻した。
風を受けた袖が、雲のようにやわらかくふくらんだ。




