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雨冠  作者: 雪尾 七
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 満月の晩だった。


 雲もないのに、不思議と絹糸のような雨が降っていた。

 目覚めた水器みずきが最初に探したのは、雨宿りのできる場所だった。


 湖の上に、水器は立っている。

 かすかに浮いた足を水面みなもに触れると、震えるように、輪が広がった。幾重にも、幾重にも、幾重にも。


 滑るように、水器は水上を渡って、湖の半ばにある小さなやしろをめざした。屋根があるそこでなら、雨宿りができると考えたのだ。


 それに、社から聞こえてくる笛の音がずっと気になっていた。

 笛の音は高低を繰り返し、ときどき、気まぐれのように旋律が織り混ざる。

 鳥が囀りを練習しているようでもあり、風が巫山戯て遊んでいるようでもあった。


 裸足の足で、水器は社のある小島に降り立った。水気を含んだ細かな砂が、足の下できしんだ。白い砂には、時折貝殻が混じっている。夜闇にもうすらと、その表面だけが光を返していた。


 小島の中央に、社が建っている。小島は、ほとんど社と同じ大きさしかないので、遠くから見れば、湖に社が浮かんでいるように見えたかもしれない。


 社殿の前には、簡素ながらも鳥居がある。

 水器はのそりとそびえるそれをくぐった。


 すると、素の木地だった鳥居は、燃えるような朱塗りに輝く。

 歓迎されているようで、水器は白い衣を一瞬、朱に染める。


 数歩の参道を弾むように進んだ。両手を広げて踊るように、笛の音に合わせて鼻歌を歌う。歌は、星になり、雨になり、砂の粒になる。


 笛の音は、社殿の中から聞こえてくるようだ。

 立ち止まって見上げる。

 長年の風雨に晒された柱や梁は、古ぼけた色をしている。訪れては去っていく年月を、その内に蓄えているようだった。耳をつければ、その長い年月聴き続けた笛の音が、幾重にも重なって聴こえてくるのでは、と水器は想像した。


 砂のついた足を、社殿へ続く階段にかける。

 一段上がるごとに、着ていた白い衣が、蘇芳の袴に、淡黄の水干に、姿を変える。

 秩序なく、背中まで流れていた髪は、頭の高い位置で、紐でひとつに括られる。

 足は清められて足袋を装着され、階段に落ちた砂も、吐息のような風にきれいに攫われていった。


 社殿の内と外を分けるのは、上半分が格子の戸だ。

 水器が手をかける前に、その戸が音もなく開く。

 笛が、ひときわ高い音で空気をつんざいて、旋律を切った。


「……」

 社殿の中には、青年が一人、胡座を組んでいた。手の中に細い横笛がある。笛を吹いていたのは彼なのだろう。おおむね人間のような姿をしているが、狐のような耳と尾が生えている。耳は二つだったが、尾は三本も生えている。


 伏せていた瞳を上げると、金色の双眸が水器の姿をとらえた。

「良い月夜ですね」

 水器が言った。

 社に足を踏み入れると、戸が再び勝手に閉まる。


「……」

 目の前に座す青年はにこりと微笑んだ。言葉は返ってこない。


「笛は、貴方が?」

 先刻よりも、少し声を高めて水器が言うと、青年は頷いた。やはり言葉は返ってこない。話すことができないのかもしれない、と水器は考えた。しかし、こちらの言葉は解せるようだ。


「雨宿りをしても良いでしょうか?」

 青年が頷く。三本もある尾が、ふさりと揺れた。


 ふと、青年の視線が水器の向こう側に伸びる。

 耳を澄ますと、舟を漕ぐ櫂の音が聞こえた。一定の速度で、湖の水が打ち鳴らされている。同じ間隔で青年の三角形の耳が、ぴくりぴくりと動く。


 近づいてきたその音が止む。舟は、この小島に到着したようだ。

 青年が立ち上がり、音もなく戸のほうへ足をすすめた。後ろに長く衣の裾を引きずっているというのに、衣擦れの音もない。


 青年は、格子の間から体が見えないように、ひたりと壁に身を寄せた。けれども金色の瞳は熱心に格子の向こうを見つめ、震える尾を腕にしかりと抱きしめている。

 水器は戸の傍で、そんな青年の様子を見て立ちつくしている。


 舟から降りた誰かが、参道を通り、階段を上ってくる。

 姿が徐々に見えてきた。

 少女のようだ。


 水器は青年のように隠れることもなく、格子の間から少女の姿を見つめた。どこにでもいそうな村娘のようだが、凛々しい眉は印象に残る。少女の瞳はこちらを向いていたが、水器と目が合うことはなかった。


 少女は、手にしていた布の包みを、戸口に置いた。

 姿勢を正すと、手を打ち鳴らし、瞳を伏せる。


『いつもありがとうございます。ミツ様』


 少女の唇は動いていない。

 けれどもその声は、社の内にやわらかく響いた。


 青年を見ると、床に倒れている。顔を両手の平でおおって、丸くなっている。具合が悪い様子ではなかった。三本の尾が大きく左右に振れている。

 彼が『ミツ様』なのだろう。

 『いつも』ということは、彼が常に彼女のために何かしているということだろうか。

 問いかけをしようにも、言葉を返してくれない彼に、理解の及ぶ説明は期待できない。


 少女は、頭を下げると、こちらに背を向けて階段を下りていく。

 その小柄な背中を見送っていると、袴の裾を引かれた。生きていないような白い手は、ミツと呼ばれた青年につながっている。


「何ですか?」

 ミツは袴の裾を踏んづけて転びながら、社の奥、先ほどまで彼が笛を吹いていた座まで戻ると、赤い手ぬぐいを大事そうに持って戻った。手ぬぐいの上には、白い小さな花が一輪、横たえられている。


 ミツはそれを指先でそっとつまむと、ぼんやりと立つ水器に押しつけた。

「え?」

 問うように水器がミツと花とを見比べても、ミツは急かすように花を水器に押しつけるばかりだ。

 仕方なくそれを受け取ると、今度は社の戸のほうへぐいぐいと押された。

 ミツの意図に、ようやく理解が及ぶ。


「つまり、あの子にこの花を届けろということですか?」

 ミツは真剣な顔で何度も頷いて、痛いほどに水器の肩を叩いた。


「わかった。わかりましたから、叩かないでください」

 格子戸を今度は手で開けて、水器は社の外へ出る。


 草履がないのを気にしたけれど、階段から下りると、足は地面につかなかった。わずかに浮いて、氷の上のように、歩くとすいすいと足が滑る。


 いつの間にか、雨は上がっていた。

 満月と星とが、空を満たしている。


 少女は舟に乗りこんで、この島を離れるところだった。

「あの、待ってください」

 水器が声をかけるけれど、少女の耳には水器の声は聞こえないらしい。


「あの!」

 追いついた水器は、舟に片足をかけて、少女の顔を間近から捕えた。けれども、少女の瞳は水器を素通りして、帰り道を見つめている。どうやら、彼女には水器の姿も見えていないようだった。


 水器はわずかの間、逡巡し、少女の髪に白い花を挿した。足を、舟から離す。

「あれ?」

 少女は何か違和感を感じたのか、髪に手をやり、水器が挿したばかりの白い花を抜く。

 それを見つめて、三回瞬きをしてから、少女は振り返った。

 視線は、水器を通り抜けて、その後ろにある社を見ている。

 少女は一瞬だけ瞳を伏せてから、舟に座った。白い花を元通りに挿して、ゆっくりと湖の向こうへ漕ぎ出していく。少女は、もう一度、そっと指先で花に触れてから、櫂を漕ぐ手に力を入れた。


 湖を、舟が滑るように遠ざかる。水尾みおに星が連なって輝いた。

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