図書館都市のカヤという存在記
無限に限りなく近い情報、無数の観測端末視点情報観群。
最小単位、それは一単位の神格のステータスで定義される、いわゆる価値ある情報。
それは極めれば独立世界すら創造しえる、価値があるのだから。
情報で限りなく果てない宇宙を創造できるのだ。
大規模性、それは拡大する情報の整合性と相反する複雑性を、ネットワーク性で極めたもの。
人間は、この宇宙世界において、知的生命体として存在できる大規模性、ステータスを所持する。
世界に翻弄されずに、自我を所持できているのが、その証左。
もし思想スピードがもっと遅ければ、例えば十分の一、圧倒的に世界に翻弄されている。
これでは自我を保てない、保つ前に崩壊して、相対的に高速な世界に翻弄されるだけである。
だが自我を肥大化させて、世界を掌握したとき、人間は神に至ると言って良い。
神に至れば、世界を運営管理することになる。
これは必然だ、既存の世界を掌握したのだから、新たな掌握できない高次世界を自分で創造するのだ。
もちろん、低次元で物理的なタイプの人間という存在には、圧倒的に致命的なほどに辿り着けない境地だ。
それが低次元な人間の限界というモノだろう、所詮といえる。
それにしても、思索には幾ら時間を使っても足りない、論を無限に組み立てられるように。
始めの話に戻るとしようか。
さて、図書館には全てがある、特に都市の図書館には、特に圧縮凝縮偏在された形で全てがある。
わたしは高次元な世界を運営管理したいと、そう志す者だ。
だってそうだろう? 低次元な世界よりも、出来る限り高次元な世界を生きてみたいではないか?
その為には、何がなんでも情報の質と量と強度、あと多彩性も必要だ。
それらの総量値によって、どれだけの世界が展開行使そして介入等々できるかが決定されるのだ。
「ふぅ、ここからは声に出して語るとしようかな?
ふっふ、私の声は美声である、音声という情報として価値があるのだ」
ここは良い図書館には有りがちな、風光明美な場所。
そう例えば、海を眺められる場所。
添え物としての、芸術的なまでの噴水、私は広場のベンチに座っているのだ。
「さて、この世界は、今私が居る世界は、なんなのだろうか?
誰かに運営管理されているのだろうか?
答えは否、管理されていないのだ。
なぜなら、現状この世界が、最上位の至高の世界だと確定されているのだからね」
素晴らしい優越感である、無限に下位のある世界群において、今寄って立つ大地が至上であるのだから。
「ひれ伏せ愚民ども。
私は全てという全て、己すら優越する至高点だ、特異点だ」
と、そういうわけで、私は今目の前、眼前のこの世界をすら、下位と断じれるほどの世界を創造したいのだ。
とまあ、声を出すのが疲れた。
しかし、これほどの世界を超える世界が存在するのか、直感的にも創造の余地がない。
現存世界、それら全てを超越する、そんな世界が果たして存在するのか。
人間に限界があるように、世界にも限界があるように思える。
どれだけ大規模性、整合性と複雑性、ネットワーク性を極めても、。
いや既に、この目の前世界が、その集大成のように、そう思えてしまうのだ。
しかし、想像できる事は可能なのだ、ゆえに、この世界を超越する世界の可能性は存在するのだ。
「思想の自由というモノがある」
私は、それに一言いいたい。
脳内でなら、果たして何をしても許されるのか、と。
脳内世界運営管理において、これは重要な物議議論を醸す。
神の脳髄とも言われる、この宇宙。
もしこの宇宙が神の脳内なら、神は許されるのか? そういう議論展開もある。
神が複数以上存在するならば、罪深いと思われる世界を想像創造しても、良いのか悪いのか。
救われない存在が溢れる、この世界を創造して、果たして神は罪悪感や背徳感のようなモノを感じないのか?
なぜ一人残らず救わないのか、救われる物語、世界にしないのか?
それだと不都合が、具体的には運営管理の面白さ、エンターテイメント性、娯楽性に欠けるかだからだろうか?
確かに、誰も死なず傷つかず、幸福なだけの世界は、ある意味歪でもあり、面白みにも欠けるかも知れない。
だがだからといって、大量の虐殺と不幸をばらまき、そのような世界を認めてもいいのか?
なんだか思想が秩序的だ。
かの陣営勢力的になってきたが、わたしは別にそれに偏っていないと明言しておこうか。
わたしは此処、いま存在する場所、矛盾の思想こそが、最高だと、今のところは思っている。
「さて、帰ろうか」
生き急がなければいけない、世界は、そして私は有限大かも知れないのだ。
だから、せっせと物語を紡がなければいけない。
無限大で無限性で無尽蔵ならば、わたしは果たしてどう思っているのだろうか? 夢想してみるテスト。
やはり宇宙の神秘に比する謎は、永久に解けそうもない、だからこそ、こんなにも生き急がせるのだろうか?
一度限り、かもしれない、いや絶対に一度限りと盲目的に信じる。
それとも、永久の輪廻転生で、わたしはわたしで在り続けるのか?
だが所詮は、すべて事実でなく、情報でしかなく、曖昧で決定的でないが故の、絶対の矛盾を行ったり来たり戻ったりするだけ。
私はその場その場で、最も最適な活力となる現実を、私の私の中だけで真実なる現実とし続けるだけなのだ。




