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「これでもさおりんより、私は劣るっていうの?」
落とせない男はいないと思っていた。
自身より優れた容姿を持っている女性がいたとしても、勝てる自信はあった。
ただ食事制限だけで維持した不健康な体ではない、ボクシングで鍛えた健康的な美も備えている。美白だけでなく、日焼けしても自分は美しい。その自負があるからこそ、自身の敗北は受け入れがたい。ただのアイドル、しかも売れているとはいえ、年上の女に負けたのだ。
前回も感じた苦虫を噛み潰したような敗北感が再び襲ってきた。それと同時に、その臓腑を食らうような虫たちを焼き殺すかのような、何か燃え盛る熱い思いも生まれている。すこしして千夏は体に残る虫を洗い流すように強く熱めのシャワーを浴びて、浴室の鏡をじっと見つめた。千夏は鏡に映る自分の表情を見て確信する。
――うん、かわいい
「純君、バカよね」
鏡に映る自身と会話しながら、千夏は笑う。
「そうよ、バカバカ」
くすくすと笑いながら、彼女は一人きりのガールズトークを続ける。
「できるわけないじゃない、あんな行き遅れに」
どうせ嘘をついて男をだましたんだ。
「そうよね、わかるわかる。婚期逃した女って怖いのよね」
そうだ、これは人助けなんだ。
「えー、そんなことないってば」
下心はある。女の愛には見えない打算が隠れているもの。古来からそれは決まっている。
男なんて釈迦の手のひらで転がされる猿と同じ。いかに手綱を握るかで良い女かどうかが決まるのだ。純は今無理やり鎖をつながれているだけの状態。それも鎖の手綱を握っているのは幼い少女の皮をかぶった、醜い魔女だ。
「純にはふさわしくない」
純にふさわしいのは若くて、きれいで、純の魅力を引き出せる女。
ピンチから救い出してくれる純の横に立つのは自分しかいない。
握りこぶしを作り、彼女は笑った。そして想像する。純と一緒に過ごす、お腹の大きくなった自分の姿を。微笑んでくれる夫に微笑み返す自分。大きくなっていくお腹に手を添えてくれる優しい夫。その掌がとても心地よい。服越しから伝わってくるその温もりはまるで陽気な太陽のようだった。
あれほど長かった髪を切り揃え、少し垂れた優しい瞳にうっとりと微笑み返す自分の姿を客観視して、悪い気はしない。むしろ良い。ぐっと来た。胸の前で小さなガッツポーズを両手で作りながら、千夏は鏡に蕩けそうな笑顔を映した。
「寿退社も悪くないかも」
入社して間もないのにそう思ってしまう自分の軽さに舌を出して笑いながら、彼女は決意する。
「打倒アイドル!」
口に出したことで改めて自身の決意を固める千夏だっが、大事なことを一つ忘れていた。
そのアイドルにたどり着く前に、大きな障害が存在することを。そしてその障害がとても険しく、その姿が自分自身と似ていることに。鼻歌交じりに浴室から出た千夏は純が用意した新しい服、そして洗濯機にかけられているのが、先ほどまで自身の着ていた服だと知って喜んだ。
「純って気が利くのね、素敵。でも……」
手に取った新品の真っ黒な下着が、千夏の心に不安を宿した雨雲を作る。
「何で新品があるんだろう?」
手に取った触り心地、レースの美しいデザインがコンビニで売ってるような安物ではない、ランジェリーショップで買ったものだと千夏は理解する。一瞬だが自分のために純が用意してくれていた、つまり、夜を共にするサインではと錯覚しかけたが、その夢はすぐに覚めることになる。
「大きい」
ブラの着け心地は確かに良かった。けれどぶかぶかなのだ。千夏の手が一枚入るくらいに、このブラの所有者のバストが大きいことが推測できる。それと同時にそのブラの所有者の顔が千夏の脳裏にちらつく。そうなると彼女は無意識に舌打ちをしていた。自分より幼い容姿でありながら、それでいて自分より胸のあるあのロリババアの私物だと理解したがために、そしてそれをわざわざ用意した純にいらだちを募らせる。
「もしかして……純ってロリコン?」
最悪の事態を想像してしまい千夏の背中から尻にかけ、汗が一筋流れていく。好きだった人がロリコンで振り向いてくれませんでした。などと友人に話でもしてしまえば、千夏自身が物笑いの種になる。まして千夏は女子アナ。テレビにどんどん出演していくだろう。その時にもし、『ロリコン男に惚れた女』などと囃し立てられてしまえば、千夏は一気にコメディー枠へと落ちていく。華々しく活躍する自身の姿はそこには無く、あるのは芸人と一緒に体感型バラエティ番組に出演して真っ白なパイをぶつけられる未来。
「絶対いや」
そんなのは絶対に嫌だ。だからこそ千夏は先の嫌な未来をかき消すように頭を強く横に振って、用意されたブラを丁寧にたたんでその場に戻した。幸い純の用意したスウェット上下は少し厚手で、浮き出ることはない。胸の型崩れだけを心配しながら千夏は髪についた丁寧にバスタオルで吸い取り終えると、それを洗濯機の中に入れて着替える。純の用意したスウェットは男物。千夏は長い裾をまくり上げて七分丈程度にすると、シャツの方は萌え袖を維持したまま脱衣所を出る。
「純、シャワーありがと。気持ちよか――」
笑顔を作り、恋人の様に居間に座る純の背中に抱き着いた。抱き付いた瞬間、純はお化け屋敷で驚かされたように背中を大きく伸ばした。そんな純を見て千夏は「怖がり過ぎだぞ」と純の頬を人差し指で突っついている。
「かわいいやつめ、うりうり」
ぐりぐりと指を回転させながら、吹き出物一つない純の頬を千夏はつっつく、つっつく。それでも純は無反応、と言うかおびえた様子を崩さない。だからこそ千夏は自分たちのパーソナルスペースを侵害してきた女性に対し、警告する。
「で、なんでいるの?」
あくまで純に抱き着きながら、千夏はその侵略者をにらみつける。けれどその相変わらずな鉄仮面を身にまとう女性は、冷めた目つきで二人を見下ろしていた。そして彼女は最後の審判を告げる様に、淡々と二人に質問を投げつける。。
「質問は一つ。浮気ですか?」




