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 さぁ今を楽しもうと、享楽的な蛇が甘い果実を差し出してきた。ごくりと生唾を飲矛盾の前に、千夏は更に逃すまいと絡みつく。背中に回した手で純の背をゆっくりと文字を描くように撫でる。

「ねえ、私の鼓動、聞こえる?」

 私は聞こえるよと、純の胸に顔を埋めて千夏はとろけたような表情を浮かべた。

「いい匂い。ねえ純、私、純と一緒でドキドキしてる」

 だからさ、千夏は純に囁く。

「さおりんじゃなく、私を選んで」

 本心から出た言葉だろうか、純は今の千夏の言葉に嘘が感じられなかった。男ならば思わず千夏の期待に応えたくなる、甘いセリフ。

「選ぶ、ですか」

「そう、選んで。一緒に歩いて、一緒に出掛けて、一緒に美味しいものを食べる」

 魅力的な提案をする千夏の体を、いつの間にか純は抱きしめていた。けれどその柔らかな、鍛えられていても女性特有のか細い肢体に、やはり純は彼女を思い出していた。

「でも、俺には沙織さんが」

 抱きしめていた手の力を緩めた純だったが、それに反比例するように千夏の体がギュッと純を締め付ける。

「まださおりんがいいの?」

 それでもと諦めない千夏に対し、純は言って良いのか分からなかったが、ジョーカーをきった。

「子供、できるから」

 純の言葉に今度は千夏の体が固まった。

「な、なにが?」

 千夏の先ほどまで見せていたとろけたような表情は露と消え、今度はお化けでも見たような、丸々とした眼、驚き口が閉まらない表情を見せる。まさにありえない。と言った表情だった。

「な、なんで」

 どうしてそんなことを言うのかと、えさを求める金魚の様にパクパクと口を動かす千夏に、純は改めて謝罪する。

「すみません」

 純の言葉は千夏にとって、女性として、完全な敗北者として烙印を押すにふさわしい言葉だった。

 --先の言葉が真実なら。

 千夏にとって、沙織は敵だ。アイドルと女子アナ。男人気を集める二大巨頭と言ってもいい。グラビアアイドルも敵に近いが、今の千夏にとっての敵は、アダムを虜にしたイブ。つまり純を虜にしたアイドルだ。

「こどもができた?」

「は、はい」

「いつ?」

「き、昨日わかりました」

「昨日? 最後にしたのはいつ?」

「い、いつですか?」

「そ、心当たりはあるの?」

「心当たり……」

 口ごもる純の困ったような表情を見た千夏は、首を横に振って純に

「いや、やっぱりいい。プライベートのことだもんね」

とこれ以上何も言うなと、優しく抱きしめた。

「そっか、子供かぁ」

「は、はい」

 純を抱きしめながら千夏は、薄暗い天井を仰いだ。

「純君、大変だね、へくち」

 体が冷えたのか、裸でいた千夏は可愛らしいくしゃみをすると同時に、アハハとごまかすように笑った。心配そうな表情を見せる純に千夏は「裸はやっぱり冷えるのかな、ごめん、シャワー借りるね」と言うと、そそくさと浴室に入っていく。

 純は千夏を見送ると、先ほどの拒絶感が薄れてきたのか、脱衣所を出てタンスから女性ものの下着を取り出した。

「沙織さんが置いてった奴だけど、別にいいよな」

 千夏と沙織のバストやヒップのサイズは知らないが、無いよりましだろうと純はその新品の下着をバスタオルと共に脱衣所にそっと置いた。

「着替えここに置いておきますね」

 浴室から「ありがとう」と千夏が感謝を述べる。千夏に着替えを用意した純は、浴室を覗くことなく脱衣所を出た。浴室に残る千夏は、純が脱衣所を出たのを確認してからおもわず、浴室の壁を叩いた。叩いた音が狭い浴室に反響する。シャワーを頭から浴びながらぼそりと呟いた。

「許せない」

 妊娠なんてありえない。あの草食系に、自分の魅力に屈しない純にそんな度胸はない。あったとしても酔わせて無理やり既成事実を作られたに違いないと、千夏は確信する。そして千夏は生まれて初めて、恋愛面で対抗心を抱いた。

「ありえない」

 だからこそ思う。

「許せない」

 だからこそ認めたくはないのだ。

 純にとって、さおりんが絶対的位置にいることを、認めたくないのだ。

 年齢詐称アイドルに、あんなロリババアに魅力が劣るという屈辱は、今の千夏にはとてもじゃないが受け入れられるものではない。だからこそ認めることはできない。

「これでもさおりんより、私は劣るっていうの?」

 口からこぼれたその言葉が、現実だと言う事を。

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