09
雨の音が響く。本降りであろう。傘を差しても濡れることを覚悟しなければいけない雨。
いつもなら億劫になる大学。出席をとらない講義ならば自主休校をしようと彼は思う。けれど今日は違う。行きたくない気持ちは相も変わらず強い。理由が違うのだ。
けれど彼は律儀にも講義に出席していた。
奇異の視線、雨漏りがしていないはずなのに、彼の周囲はざわざわと、雨の様にざわざわと騒がしかった。
「か、カエリタイ……」
話は少し前にさかのぼる。
あの一件から翌日。見慣れない天井を見上げながら、彼は起床したあの朝。
「ダーリン大学行かないでいいの?」
「きょ、きょうはいいかなーって。さ、沙織さんは?」
「朝から撮影、でもこの雨だ途中かも。外での撮影予定だったからねー」
ヨーグルトとシリアルという軽めの朝食をとりながら、二人は会話を交わす。
昨日の調子なら許してくれるだろうと踏んでいた純であるが、勝手が違った。
「そ、そうですか」
水を飲みながら、いったん間を置くように黙った純だが、
「大学の講義って何時からあるの?」
「い、いえ、今日は休む予定なんで」
「駄目。親御さんかが学費を出してくれてるんだから、ちゃんと勉強すること!」
お姉さんの様に説教をする沙織に、純は別の言い訳を考えている。
「それに雨降って濡れるの嫌だったら、一緒に行く?」
マネージャーである茜に電話し、今すぐ来てくれと沙織は簡潔明瞭に伝えた。伝えてしまった。5分後茜が昨日同様毅然とした態度で二人を迎えに来た。
「茜ちゃん、ダーリンが学校休むって言うの」
「それはいけませんね」
メガネをくいっと上げて、茜も同意する。
「大学という貴重な時間、無駄にしては以ての外です」
「い、いや、それでも」
「両親から支援を受けているのに自主休校、見過ごせません」
「あ、そうだ!!」
「奇遇ですね、沙織さん」
二人は純を学校に行かせる算段をつけた。
「一緒に行く! 相合傘したい!」
「首に縄でもくくりつけましょう」
沙織と茜、二人のアイデア。むろん却下だと純は言った。つもりだった。
なのになぜ……、営業車であるワゴンタイプの車で大学まで送ってもらった純であるが、そこまではよかった。問題はそれからである。車で大学に行くものは少なくない。大学に行く際、純は容姿を気にしたことがなかった。せいぜい寝癖を直す程度で、服装はシャツとジーパン。冬はコートとマフラー、その下にセーターといった具合にシンプルにまとめている。
今日も普通通り大学へ、いつもと違うのは送迎付き。
「終わり次第連絡下さい」
依然持っていたスマホは没収され、新たに支給されたスマホを見つめながら、純はアドレス帳やアプリをチェックする。電話番号が変わっているとともに、両親や親族、一部の友人の連絡先以外消えていた。アルバイト先も削除されていることには少々戸惑いを隠せなかった。増えていたのは2名の女性の連絡先のみ。
アプリは引継ぎがしっかりされているものの、以前の会話がすべて削除されているため不便さや写真を保存しておけばよかったと少し後悔した。
元々友人が多いほうではないため、思った以上に不便ではないとは知りながらも、動揺を隠せない。1限目の講義を終えて教室から出た純は、コーヒーでも買おうかと購買へと足を運んだ。
購入後,そのすぐそばにある食堂で空席を見つけ一休み。周囲を見ればカードゲームに興じる者や、女子大生グループがお菓子を広げて談笑、サークルの先輩後輩と思えるグループが早めの食事をとっていた。
見慣れた景色を見て人心地ついていると、隣に女性が座ってきた。
「ゆったりとされてますが、時間は大丈夫ですか?」
級に話しかけられ横を振り返った純は、思わず飲んでいたコーヒーを吹きこぼしそうになった。
「あ、茜さん?」
「はい、そうですが?」
茜の手には自販機で買ったであろう紙コップのカフェオレがある。
「ど、どしてここに?」
カフェオレを一口飲むと、「監視です」とただ一言ここにいる理由を告げた。
ただそれだけの仕草なのに出来る女! キャリアウーマン! として様になっているなと、純は思う。実際に周囲の一部の女子大生は茜のほうをチラチラと見ているのが分かった。
「な、なしているの?」
「沙織さんからの指示です。お気になさらずに」
「するでしょ!」
思わず声を荒げてしまう。周囲も何事かと純たちのほうへ視線を向ける。はっとなり恥ずかしくなったのか純は咳払いをして席に座ると、内緒話をするように顔を近づけて会話を始めた。
茜は特に気にする様子もなく、カフェオレをまた一口口に運んでいく。
「マネージャーでしょ、茜さんは」
「純さん、グダグダ言わないで教室へ向かいましょう」
「向かおうったってあーた、場所知らないでしょ」
「いえ、ここのOGですので」
「はぁ!?」
「冗談です。場所は純さんの連絡先に入っていた、友人と見受けられる男性によって把握済みです」
「何してくれてんだよ、あいつ」
人の個人情報、まあ大学の時間割なのでそこまで大事ではないが気軽に教えすぎだろと、友人に対し小さくぼやく純。
対して茜はと言えば、沙織の以来の下、成り済まして入手した純の情報を元に、純の一日を観察することにした。バッグに入っている仕事用のスマホの中には、純のスマホから手に入れたアプリ等のデータがしっかりと入っている。無論チャットアプリの会話履歴も。
そんなことを行っているとは知らない、理解していない純は茜をどうにか引き離そうと画策する。
「あ、茜さん仕事」
「今日は一応オフなのでお気になさらず」
「貴重な休日を無駄にしないで!」
仕事人間めと、純はぼやく。
「天職ですから」
「そうなんですか?」
純にとってアイドルのマネージャーなんて雑務ばかりでキツイイメージしかない。送迎、アイドルの私生活のサポート、それこそ業務時間外でもお構いなし。そんなイメージを抱えてたからこそ、純は茜の発言に食いついていた。
「でもきついんじゃ?」
「仕事のキツイか楽かなんてどれも人それぞれです」
「辛くない?」
純の追及に対して茜は口に指をあてて探偵の様にふむ、と思考する。ちらりと横を見れば、好奇心に満ちた犬の様にじっと茜を見る純がいる。
「見ますか?」
「え?」
「仕事場」
茜の唐突な提案。職場見学。
「見ればその考えも変わるかと」
もっともそうな意見に、今度は純がどう答えるべきか思考する。行くべきか、行かざるべきか。
「沙織さんの写真撮影が見れますよ」
ぼそりと囁くは悪魔のいざない。
「撮影?」
「ええ、それに純さんの好きな番組の収録も今やっているはず、ああでも早くいかないと」
時計を持って走るウサギの如し。
「で、でもいいんですか?」
純の毎週見ているアイドル番組、理由はもちろんさおりんが出ているから。そのバラエティを生で見られるなんて、興味がわかないわけがない。
「ああ忙しや忙しや」
立ち上がり席を離れようとする茜の肩をつかみ、純は引き止める。
「何か?」
茜は沙織のところへ行くから手を放してくれと言うように、純を見る。相変わらず整った顔だ。だけどどことなく危険な場所に足を踏み入れたがる、表情が顔に出やすい子犬、ワンコのようだと茜は思う。
「ちょ、ちょっとだけ見たいかなーって」
「大学はいいんですか? それとも妻の仕事場が気になりますか?」
「つ、妻って……そ、そんな」
「まあ別にいいでしょう」
ついて来いというように、純を大学に用意された駐車場へと案内する