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どちらかと言えば押しかけ女房に近い雰囲気を見せる千夏に、母親は付き合ったばかりのころを思い出す。そのせいか千夏の肩を両手でつかむと、鼻息荒くアドバイスを授ける。
「胃袋を掴めば勝ち」
シンプルなパワーワードに、千夏は一瞬だが純の胃袋を殴るイメージを思い浮かべる。けれどそんな直球的なイメージを浮かべる自分を笑いながら、純の腕をぐいっと引っ張り身を寄せ合いながらお天気お姉さんが別れを告げるときの様な笑顔を浮かべる。
「がんばりまっす!」
だからこれからよろしくねと、千夏は純に声をかける。
屈託のない笑顔のふりをした千夏を見ながら純は、つい「えぇ……」と困惑した表情を見せてしまった。けれど千夏はその表情を夫婦に見せるわけもなく、貧血を起こしたようによろけるふりをして、純にもたれかかったのだ。
純の心臓がドキリと大きく跳躍する。そして無意識に普段沙織にしているように、千夏を抱きしめてしまっていた。こうなればしめたもの。哀れ純は、断る暇もなく千夏の彼を演じてしまう。
心配そうに声をかけてくれる夫婦に対し千夏は精いっぱいの虚勢を張るように、ただ暑くてふらついただけだと返事をする。なおも心配そうに声をかけてくれば隣に、いや、抱きかかえてくれている純の方を見る。桜色より少し赤い、ほんのり顔を赤く染めた千夏はが目で訴える。
その瞳はカノジョによく似ていた。愛の隠れ蓑を着込んだ、底無し沼。
純は夫婦に別れを告げると、千夏とともにその場を去った。オシドリの様にべったりくっつく様に、体感的な熱気以外の暑さを、夫婦はもちろん、幼いちはるも感じ取った。
「にしても、どこかで見た顔よね」
夫婦やちはるがテレビに映るときとは違う、スポーティーな格好をした千夏が芸能人、女子アナだったと気づくのは、少し後になってからだった。
二人だけになった後、千夏はとりもちでもくっついたかのように、純からべったりと離れない。暑さでか、走っていた時よりも吐息が荒い。住宅街なためか、涼もうにも丁度いい喫茶店は近くにない。仕方がないと、純は適当に見つけた自販機でジュースを購入した。
「どうぞ」
プシュッと言う音とともに、純はプルタブを開けたスポーツ飲料を千夏に手渡した。
「そこはペットボトルじゃないんだ」
ちょっとがっかりといた様子で千夏はそれを受け取ると、一口飲んだ。暑い日差しと反比例したような、爽やかなのど越し。それとともに火照った体を冷ましてくれる快感。ゆっくり飲まなければと思った千夏だったが、そののど越しには逆らえずに一気に飲み干してしまう。
「っはぁ、あー気持ちいい」
「そこは美味しい! とかじゃないんですね」
「体を動かした後に飲むと、ほんとサイコー!」
汗が太陽に反射し輝き、スポーティーな格好をした千夏にスポットを浴びせる。まるでスポーツ飲料のCMを見ているようと純に錯覚をさせる。
「でも千夏さん、体のためにもゆっくり飲んでくださいね」
体に悪いからと純は言う。手にはスマホ。電話をかけるそぶりを見せる純を見た千夏は、純を困らせ反応を楽しむように、そのスマホを取り上げた。「あっ」と声を上げる純に千夏は笑い声で返事をする。もう元気になったという様に軽やかなステップで、千夏は純の傍から離れていく。まるで思春期に好きな子にちょっかいをかける様に、千夏は時折止まっては純を呼び、煽る。困った純は、「タクシー呼べないじゃないですか」と彼女にスマホを返すよう要求した。けれど「心配むよー、もう平気だよ」と取り付く島もない。
そんなにすぐに体調が回復するとは思えない純は、スマホを返せと千夏を追いかける。 ここまでおいでと煽ってくる千夏に若干のいらだちを見せながら、千夏の後を追う純だったが、彼女の足は一軒のアパートの前で止まった。古びた外観のアパート。純にとっては見慣れたアパート。緩やかに足を止めた純を、後ろを振り返った千夏はじっと見つめた。
「ゴール、ついちゃったね」
楽しい追いかけっこは、波乱もなくゴールを迎えてしまった。楽しかったという様に千夏は純のスマホを手渡して返すと、「ごめんね」と謝罪する。
先ほどまでとは違う、まるで秋を連想させるような物寂しい表情を浮かべた千夏に純は思わず、「あがっていく?」と声をかけてしまった。
先の体調不良を心配してからか、それとも下心か、純は千夏に問いかける。千夏は純の傍に近寄ると何か言うわけでもなく、シャツの裾を掴んで黙った。そしてうつむいた首を下に上下し、肯定した。
古びた少しさびた階段を上り、純はわが家へ戻る。ただし一人ではない。その証拠を曲がり角に隠れていた不審な男が、かしゃりとフィルムに収めていた。




