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「かっこよく言えばロードワーク」
「かっこよく言えば?」
じゃあ本音は違うのかと、思わず純は聞き返してしまう。すると恥ずかしそうに千夏は顔を赤らめ、言わせないでよと腕を振る。
「……えっとよ」
千夏の声が小さく聞き取れなかったものの、その恥じらいから女性特有の悩みによる運動なのだと理解した純は、触らぬ神はなんとやらで、適当に相槌をうった。
「ああ、すみません」
答えにくいことを聞いたと純は千夏に謝罪し、その場から去ろうとした。けれど純の動きを妨げる様に、純の腹部に拳が入る。
「ちょっとは興味もってよ! ……あ、ごめん!」
殴って冷静になったのか、千夏は自身で負わせた負傷箇所にケガは無いかと、心配そうに診断する。シャツをまくり、痣になった箇所を癒すように、千夏はさすり始める。
「あ、汗ついたらごめん」
「あ、いえ、平気です」
運動中だったせいか千夏の手は若干汗ばんでいる。けれどそのせいか柔らかい手が純の体に吸い付くように、ぴとりと触れている。いつしか千夏はさすることをやめ、ただ純の腹筋に手を添えるだけになっていた。
「結構鍛えてるんだね」
純の脂肪の少ない体、特に腹部に手を当てて千夏はぼそりと呟く。
「--この体が、私を守ってくれたんだよね」
まるで抱きかかえられた赤子の様に安心した様子で表情を緩めた千夏は、そのまま体を純に預けた。普段なら絶対しない行為。なにせ運動中で汗もかいている。匂いも気になる。だけどきっとこの人なら大丈夫、どんな自分のことも受け入れてくれる。そんな自信が、今の千夏にはあった。
事実純は、千夏に抱きつかれても拒絶はしていない。しかしその両手が千夏の背にまわされることもなかった。
「……へたれ」
不満そうに頬を膨らませた千夏は、残念と笑いながら純から離れた。
「美人女子アナが抱きついたのに、その反応はないと思うな」
千夏は率直な感想を純に述べ、純の反応を楽しむ。なんて言ってよいかわからず混乱している様は、どことなく小さい頃に飼っていた犬を思い出す。
「純君は暇?」
「暇、ではない」
言い淀んで視線をそらした純を見て、千夏は純の手を引っ張った。
「じゃあ行こうか」
純の手を引き、公園を出る千夏。当然戸惑う純だが、千夏が相手にする様子もない。だってそうだろう。悩みを持っているのは明白だ。ここで別れては女が廃る。と言うより、会う口実が減ってしまう。
「ていうか、またそのダサい髪形なの?」
前にセットした髪型にしなよと千夏は言う。けれど純は純で、「セットが大変」とありきたりな回答で応じた。けれどその言葉に半分ほど嘘が混じっていることを千夏は知っている。視線をそらし、目が泳ぐ純は、見ていて飽きないものだった。
「まあいいわ、一緒に走らない?」
走ると気持ちがいいよと、千夏は純に一緒に走ろうと提案した。一瞬悩んだ純だが、ジーパンをはいていることを理由に、千夏の申し出を断った。けれどその程度の言い訳でめげる千夏ではない。
「こっから家って近い?」
千夏の言う家とは、沙織との愛の巣ではない。
「学生だし、アパート住まいだっけ?」
「まあ、一応。こっからは2、3キロ程度ありますよ」
「じゃあ丁度いいじゃん、ジョギングしようよジョギング」
走るジェスチャーを千夏は見せて、純を急かす。純が彼女を断ろうと口を開きかけるも、機先を制された純は千夏の言葉に口ごもる。
「私は今日仕事休みだし、ここから純君のアパートまでって、距離的には結構いい塩梅なんだよね」
「茶くらいしかだせませんからね」
「やたっ」
喜ぶ千夏に対しため息をつきつつ、若干諦めた様子で純は千夏の申し出を受け入れた。そして軽く背伸びをし、その後にストレッチをいくつかすると、準備完了だと千夏に告げる。すると千夏がおもむろにポケットから髪を結わえるゴムひもを手渡してきた。
「走るとき邪魔にならない?」
「前髪ですか? 慣れてるんで別に」
純は千夏からゴムひもを受け取らずに、走り出そうとする。けれど千夏は純に「不審者と間違えられたら嫌だから」という理由で無理やり純を近くのベンチに座らせると、髪を後ろで束ねた。後ろで束ねたことで昔の浪人、よく言えばスポーティーな風味を醸し出す純に、千夏は若干満足そうに頷いた。
「やっぱり純君、髪型変えた方がいいって」
「ほっといてください」
純は千夏に対しつっけんどんな態度をとるも、先ほどの様に表情が前髪で隠れていないためか、怪しい風格は無い。むしろ千夏を突っぱねる態度は、姉に先導される弟のような仲睦まじい雰囲気を醸し出していた。
公園にて井戸端会議をする母親たちも、千夏と言う姉、年上彼女? らしき人物が現れてからか、子供に害はないと判断したのだろう。純に対する怪訝な態度は無くなっていた。むしろ口論を交える千夏と純を見て、お似合いのカップルだわ。と褒める母親も出てきた。
「髪痛い」
「我慢するの。走り終わったら解いていいから」
ゴムひもが気になる純は、後頭部のゴムひもを外そうとする。けれど千夏は犬をしつける様に、ゴム紐をほどこうとする純の手を軽くたたいた。じとりと見つめる純の瞳を千夏は軽く受け流し、ゆっくりと歩き始める。
しぶしぶだが追従する形で純が後を追うも、千夏はせっかくだから並走し、会話しながら走ろうと提案する。別に構わないと言いかけた純は、走りながら沙織のある言葉を思い出す。
『浮気』




