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翌日、純は大学近くの公園にいた。正確にはプレッシャーから逃れる様に彷徨っていた純が、足休めのために立ち寄ったのだ。公園の隅、禁煙スペースが増える昨今、数少ない残された喫煙スペースに、純はあてどなく立ち尽くしている。吸わないのに買った、封の切られていないソフトの煙草を握りしめ、純はちらりと見たくはない景色を見てしまう。
遊具がまだいくつか残っているこの公園は、地域の家族連れにとって子供を遊ばせるには最適であり、昼時を過ぎたころには子供たちが公園を駆け回り、その近くの日除けの屋根、テーブル椅子付きの木陰で母親たちが井戸端会議を開いていた。
楽しそうに笑う子供の声が、純にとっては悪魔のささやきにしか聞こえなくなっていた。笑う声があざ笑う声に変換される。
千夏と会っていた時のようなセットされた髪ではない、ぼさぼさの頭をした純は子供を持った母親にしたら不審者と間違えられてもおかしくはなく、ちらりと向けられる視線、聞き取れないが口を動かしている母親たちの声が、自身の処遇を話し合う鬼たちの声にしか聞こえなくなっていた。
思わず耳を塞いだ純の姿に、喫煙スペースで肩身狭く喫煙する、後頭部が寂しい中年らしきサラリーマンが、心配するように声をかける。
「具合悪そうだけど大丈夫か、兄ちゃん?」
世間話をするように気軽に声をかけてくれたサラリーマンに、純は大丈夫だと手を振った。
「そっか、まあ頑張ってな、世の中つらいことばっかりだけど、いいこともあるから」
サラリーマンは後頭部を苦笑しながらさすり、純にエールを送る。そんなサラリーマンの願いをかなえる様に、純の傍に女性がやってくる。
「あれ、純君?」
ナイロンのパーカー、ショートパンツに黒のランニングタイツを履いた少し額に汗を流した千夏が、純に声をかけてきた。
「どうしてこんなところに?」
「……千夏さんこそ」
千夏と呼ばれた軽装の麗人は、流した汗をハンドタオルで軽くふくと、傍にいた喫煙中の中年サラリーマンにも親しげにあいさつを交わす。テレビで見るような営業スマイルでありながら、男性は嬉しそうに、少し緊張した様子で挨拶を返す。
「あ、純君たばこ」
「ん、あ、これ?」
「純君にタバコは似合わないって」
純の持っていた封の切られていないタバコを千夏は取り上げると、おもむろに傍にいたサラリーマンに「よろしければどうぞ」と手渡した。手渡された男は純のタバコだから受け取れないと一旦断るも、千夏が「純君はタバコ吸わないから」と、タバコが無駄になるからと男に両手を添えて手渡した。
男は本当にもらって良いのだろうかと純の方を見て確認するも、純も何となくタバコを買った手前、どうぞと首をかしげて肯定する。
「まったく純君、タバコなんて吸って体に悪いよ」
「まだ吸ってないから。ていうか、なんでここに?」
親し気に会話を始める二人に、サラリーマンは「タバコありがとう」と礼を言い、その場を去っていく。去り際に男は「いい彼女さんじゃないか」と純の肩をたたき、エールを送ってきた。
「彼女じゃないって」
千夏にも否定してもらおうと純は横を見ると、千夏は少し恥ずかしそうにパーカーの裾を握り、俯いていた。
「千夏さん?」
「な、なにかな?」
何かを有耶無耶にするように、千夏は純に若干食い気味で返事をする。けれど純の言葉を聞く余裕はないのか、千夏は間を繋ぐかのように語りだした。
「私は日課? みたいなものかな」
ボクシングやってるから、と千夏は純の前でシャドーボクシングを少し披露した。ストレート、ジャブ、フック、風を切る音を口で発しながら、その音の通り鋭い拳が数発、純の面前で披露される。
「まあやってるのは実践とかじゃなくて、スポーツボクシングなんだけどね」
だから試合もあまりしないんだ、顔を傷つけたくないし、と千夏は笑いながらどうしてここにいるのかを説明する。千夏のにこりと笑った表情はショートヘアーも相まってか、純にとって爽やかで心地よいものだった。沙織の包むような、雲のような笑顔に対し、太陽のような笑顔だと純は思った。




