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83 母とは

そうとは知らない純は、現在沙織の自宅にいた。石畳を抱きながら正座をしていたわけでもなければ、裸で熱湯をかけられているようなことはなかった。むしろその逆の位置に、純はいた。

 へたりの無い、北欧風のデザインにあしらわれた3人掛けのソファに純は座っていた。隣には沙織がおり、嬉々とした様子でまるで純と沙織が接着剤でくっついたと見紛うくらい密着しながら、茜に買ってきてもらったばかりのマタニティ雑誌や家具などのカタログ雑誌を見ては、「あれがいい」、「これなかなか可愛いよね」と純に話しかけながら、嬉しそうに笑っている。その横に座る純の瞳は暗室の様に暗いものの、語られた言葉一つ一つに相槌を欠かすことはない。

「二人の時間は減っちゃうけど、家族が増えるのはうれしいよね」

「そ、そうですね」

 純は隅へ隅へ追い詰められた犯人の気持ちを味わいながら、どこか逃げ場がないかと雑誌から視線を逸らした。雑誌の横、テーブル上に置かれた見慣れた片側だけびっしり書き込まれた用紙に、純の視線は金縛りにあう。ソファの色調に合わせた木目の綺麗な明るい色のテーブルの上にあるそれは、重さにすれば一円玉にも満たないにもかかわらず、純は触れることができない。

 しかも今回に限っては、いつ用意したのか純の苗字である向坂と書かれた印鑑が添えられていた。

 --何で振出しに戻ってるんだよ。

 純は思わず、今の自分の境遇を嘆いた。

 つい最近夫婦(仮)を卒業したばかりだというのに、沙織と出会ってから俺は何度この片面だけびっしり記入された用紙を見ればいいのだろうか。純は頭痛を覚えるとともに、その現実から目を背ける様に、意識を消すように瞳から精気を失わせた。そして虚ろな人形のように沙織と頬をぴたりとくっ付けると、仲睦まじく一つの雑誌を眺める。

 虚ろな体は沙織と共鳴するように、二人の未来を純の脳裏に映し出す。

 紅茶と暖炉、ロッキングっチェアーの合いそうな教養のあるクラシック系の胎教CDを聞きながら、マタニティ姿の沙織と肩を寄せ合う自分の未来を純は想像する。それだけならばよかったものの、沙織が年上女房のはずなのに周囲から幼な妻を貰いやがってロリコン野郎、最低。と陰口をたたかれる未来に涙を流す。

そんな残念な未来に涙を流している純を見た沙織は、彼が家族が増えたことに対し喜びと重圧を感じているのだと勝手に脳内変換し、大丈夫だよと安心を促すように、純の肩に頭を寄せる。

彼女は目をつむり、想像する。輝かしい未来を。マタニティ姿で身重な自分を支えてくれる旦那様、未来の家族を母胎に抱えた幸せな私と、そんな自分を支えてくれる大好きな旦那である向坂純とのバラ色の未来に、ほほ笑んだ。

同じ未来を見ながらもほんの少し道がそれたために、二人の思いはすれ違う。修正しようにも沙織の脳内は血の池地獄もびっくりな、真っ赤なバラに囲まれた花畑。純の脳内は展開も憐れむであろう、白ユリの花が血で染まった血の池地獄。

そんな二人の様子を見ながら、新しいお茶を二人のカップに汲みながら、茜は思う。

 ――また同じことを繰り返している。 

 茜は純と沙織がつい先日別れたばかりなのを知っている。そしてワンランクダウンさせた関係、彼氏彼女の関係となり、新たな恋路を描いているのも理解している。理解しているからこそ、不思議に思う。どうしてこの男はまた鎖でつながれようとしているのだろうか。いや、つながりたがっているのだろうか。Mなのか? 茜は自分にも似た作り笑いの純、心底嬉しそうな沙織と身を寄せ合っている二人をちらりと見る。

 仲睦まじそうに見えても、茜には二人の繋がりがはっきり見える。純の首からぶら下がる鎖が見える。今の純はまるで囚人の様だ。隣に立つ看守兼妻兼アイドル、淡路沙織。通称さおりんから逃れられない、哀れな囚人。

「そんなに鎖が好きなんならいっそ――」

 茜はそこまで言うと、純の方へ歩を進める。そして純を中心となるように、茜は少し詰めてと訴える様にぎゅっぎゅっと純に体を押し付けてソファーに座る。そして先ほど沙織たちが見ていた付箋がいくつか貼られたカタログを当てもなくぺらぺらとめくり始める。面白さがいまいち分からないと言ったような様子で、目次や一押しのページ、妊婦の心構えをつまらなそうに眺める。

 その間沙織は珍しく女性雑誌に興味を持った茜を、なにやら嬉しそうに眺めている。その間も茜はすぐ成長してしまう赤ちゃんの衣服がどうしてこうも値が張るのかと、頭に疑問符を浮かべている。

 --子供を持っていない自分では、この雑誌の魅力は分からないのだろうか。

 茜は疑問を抱きながらも、一つだけ気になっていたページがあった。育児だ。夜泣き、おむつ交換、食事。不規則性の強い赤ちゃんの育成は、今の仕事にもいい経験、プラスとなるのではないだろうか。しかし繁忙期に差し掛かった時、業務を抱えながら果たして自分は赤ちゃんを育てられるのだろうか。育児放棄をしてしまわないだろうか、茜は脳内でシミュレーションを始める。そしてある結論に至った。

 --その前に妊娠、パートナーの問題がありますね。

 今の沙織の様に支えとなる男をまずは見つけなければ、いや、いた。

 皮算用はおしまい、彼女は脳内シミュレーションをシャットダウンすると読んでいた雑誌のページを当初開かれていたページに戻して、純に視線を定めた。

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