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81 神様がくれた奇跡

「男の子だったら純、ダーリンの生まれ変わりだと思って大事にするからね」

 まるで古い壊れた人形を捨て、新しいお人形を手に入れた少女の様に、沙織は嬉しそうに古い人形に別れを告げる様に、純の首を掴んだ両手に力と体重を込める。そんな光景が、今の純にとって化物、怪物、嫉妬の化身、悔しいけど彼女でもある沙織は、まだ出来てもいないしありえない与太話を始めようとした。その長話に待ったをかけたのは、死刑執行人の補助者だった。

「沙織さん、これ以上やると死んでしまいます」

純の腰にまたがり、純の首に手をかけている沙織の手を、茜は無理やりはがす。その際沙織の鋭く伸ばした爪が純の首に愛の軌跡を残していく。沙織は二人の情事を邪魔するなと敵意を茜に向けるも、茜は慣れた様子でその視線を真っ向から受ける。

「愛の営み中なの。邪魔しないで」

「物言わぬ屍に尋問が出来て?」

 愛の営みを尋問と言い換えられた沙織は、それを否定するでもなくぷりぷりと怒り始めた。

「でもさでもさでもさ、許せないよ!」

 沙織は怒りの矛先を茜に向ける。純の腰にまたがりながら、顔だけ茜の方を向いて沙織は言う。

「キス『は』していないって、他はしたってことだよね? ね?」

 純の罪を強調するように、沙織は傍に立って二人の様子をみている茜に問いかける。茜は数秒黙った後で、彼女の主張を肯定した。

「したのでしょう、デートですから」

 あなただって純とよくキスや色々するでしょうと、茜は言う。沙織は付き合っているから当然と彼女の主張を切り捨てる。けれど今回の純はダメだ。浮気、浮気だと沙織は言い続けると、しまいにはまた泣き出した。

「あいつに汚された、汚された、汚された」

 くすんくすんと泣く沙織は爪を噛み、涙が枯れれば今度はいら立ちで体を震わせる。

「あいつが選んだ服を着て、あいつの好みの髪型にして、あいつの望んだ道を行く。二人で、二人で」

 ダーリンの良さを分かるのは私たち、そして一番愛しあっているのは私と純なのだと沙織は小さく呟いている。茜は沙織の言葉をわずかに動く唇の動きで判断しながら、憐れむように沙織を抱きしめる。そしてそっと倒れている純の前髪をセンターで分けると、沙織に微笑んだ。

「スリーピングビューティー、この王子様を目覚めさせられるのは、沙織さん、貴女だけですよ」

 だからこそ貴女と彼は恋人同士なのだと、茜は沙織の心を支える。天秤の支柱となる。けれど沙織はそれでも心配なの、今回の一件で純の素顔が知られてしまうと、そうなれば純は狩場に放たれた羊だと、沙織は今後の状況を危惧する。

「そうなったとき、そうなったとき私は、私は……」

 それ以上沙織の口から言葉は出なかった。代わりに出るは、嗚咽と吐き気。

 二人の間に誰も通れない、渡ることのできない亀裂が入った将来を予見する。止めようと橋をかけようとしても、対岸にいる彼の傍には姿は見えないがお腹の膨らんだ伴侶がいた。叫んでも叫んでも自分の声は彼には届かない。代わりに自分の代わりに彼の横に立つ目元の暗い女が、下品に口元をゆがませてこちらを見ている。

 喉がちぎれそうなくらい叫ぶ己を、あいつは見下しているんだ。老いるだけの自分を、この若さがいつまで続くかわからない自分を、見下しているんだ。

 胸から酸がこみ上げる。この酸で純を溶かしてしまいたい。

 そうすればもう誰からも奪われる必要がないのに。けれどまだ別れたくない。まだ何もしてないもの。

 茜から渡されたエチケット袋に自身の不安を吐き出した彼女は、口をウェットティッシュで拭いながらエチケット袋を見る。

 出来ればコレガツワリデアリマスヨウニ。

 不愉快な夢から覚める様に、彼女は胸の裡を喰らう悪魔を再度吐き出す。

 その悪魔は、自分の吐き出した悪魔を確認すると、今にも頬が裂けそうなくらい笑った。そして今度は口を拭うことなく、茜に報告をする。

「あのね、あのね、茜ちゃん」

 恥じらいを見せるのは口調だけ。

 その不気味な沙織の姿に、さすがの茜も背筋を凍らせる。

「できちゃったみたい」

 はにかむ沙織に対し、茜は驚いた様子を一瞬見せるも、すぐさま祝福を送る。

「--おめでとうございます」

 してもいないのに出来るわけがない。たったそれだけのことを、茜は伝えることが出来なかった。

「デキチャッタ。男の子がいいな、だって女の子だと……嫉妬しちゃうもん」

 そう言うと沙織は氷の様に冷たい掌を、愛する者の頬に添える。びくりと震える彼に、沙織は安心して、もう捨てないからと口づけをする。酸の匂いを醸し出した彼女のキスは、今にも男を溶かしてしまいそうだった。

 助けを求める男の視線を、茜はふるふると首を横に振って払いのける。

 救いを求め、破棄された彼の視線はまるで吸い寄せられるように、愛する女性へと注がれる。ただしその眼にあるのは愛ではない。怯えだ。重ねられた愛に、彼は反射的に身を反らした。夫の不可思議な反応に、妻は笑う。

「そうだよね、そうだよね」

 うんうんと同意する。

「これから家族が増えるんだもん、まだ頭の整理が追い付かないよね」

 知ったような口ぶりの彼女に、純は違うと首を横に振る。そして嘘だ、嘘だと体を震わせる。けれど彼女は夫を抱擁して首を横に振った。

「大丈夫、私に任せて。貴方は何も心配しなくていいの」

 慈愛に満ちた言葉、泥団子の様にくすんだ瞳で彼女は泣きじゃくる夫を抱きしめる。

「あなたはなーんにも心配しなくていいの。この向坂沙織におまかせあれ」

 この世は薔薇色、天国だ。どんな闇も、君さいればそこは天国と化してイク。

 怯える瞳は甘えの証、震える体は温もりを求める操り人形。逸らす瞳の先にあるのはーー、

「鏡越しでも素敵だよ、ダーリン」、女神の口づけは、契約の証。

 アイドルを地に落とす男は、地上の人に魅入った天使は、翼をもがれる。けれどその代わりに、天使は温もりを知った。愛を知った。万人に向けられた愛を、男は一度に注がれる。

 満たせ、満たせ、満ちろ、満ちろ、こぼすな、零すな、飲みほせ、飲み干せ、乾杯、飲み干せ。ほら、まだまだあるよ。さあもう一度。満たせ、満たせ、満ちろ、満ちろーー、飲み干せ、お前が望んだ愛を吐き出すな。さあもう一度、満たせ、満たせ、愛を、満たせーー吐き出しても注いであげる、何度も、何度も。ほら、もう一度。

 イチゴのショートケーキより甘く、初恋のように甘酸っぱく、煮えた鉛より重く柔らかなこの愛を、貴方に捧げます。

 地に落ちた天使は幾度も幾度も、愛を綴る。願う様に掲げた両手を、腹部へと移す。

「お腹の子と一緒に、沙織は貴方と共に歩きます」

地に落ちてもなお天使は、神を信奉する。


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